物事の見方に相対観というものがある。
物事を大小や厚薄、善悪や重軽で観る見方でありそういうどちらかに偏る考え方でこれを刷り込みともいう。
それに対して絶対観というものがある。
これは物事をそのままあるがままに観る見方であり、そういう偏らずに自然にそのままで感じることができる。
常に、何かに囚われる人は偏った見方をし、それをそのままあるがままでいることができない。
例えば、報恩報徳という思想がある。
相対観でしか物事を観れない人は、どれくらい自分が恩を受けたかなどを用い感謝の量を決めたり、だから感謝するのだなどと、先祖からの恩恵や父母からの恩恵にまでそういう刷り込まれた考え方を持っていたりする。
本当に親孝行できる人とは、そういう相対観で相手を推し量る人ではなく心から自然に父母や先祖の存在そのものにあるがままに感謝できているということだと私は思う。
そもそも太陽や水や風、その他の生命も、自分に益があるから有難いや自分に害があるから厄介だとか、そういうものを自分が決めているという時点で大きな囚われの中にいることになる。
良いか悪いか、有るか無いかなどもそうだけれど、自分勝手にそういう偏った物の中でしか考えられない人は、相手からの好意や無償の愛に対してまで、感謝や恩を感じたりすることを本当の意味で感じることができない。
そしてその気持ちがそういう相手を深く傷つけていき、恩に報いることができず永遠に変わることができない。
例えば、父母であれば子どもに対しては外見上はどうであれば存在自体が無償の愛であるのにその子ども自体が刷り込まれて外見上ばかりに囚われそれを有償の愛で推し量ればその両親からすればとても辛い言葉を子どもから聴くことであり、その態度の子どもにそんなつもりではないと話せば話すほど泥沼に入り、竟には親子が不仲になってしまうことがある。これを親不孝ともいう。
もちろん、未熟である親にも教育上の何か問題があり愛着形成がうまくいかなかった理由があるにしても子ども自体が親孝行というものの本質を履き違えていればそれは関係を正しくすることが難しいものだと私は思う。
私は、西晋一郎という方が「父母の恩の有無厚薄を問わない。 父母即恩である。 」というこの「父母即恩」という言葉を聴いた。
これは、昔からの言葉で両親の恩恵は何ともくらべものにならないほど偉大なものだということでありそのものを観るに邪念邪心を一切持たないということ。そのままの存在として自分の命を創ってくださったほどの唯一無二な存在として命から尽くすこと。
そして、論語の忠と孝は同じ意味として自分の使える君子や今でも天皇など自分たちを心底愛し、労り慈しむ存在として恩に報い礼義を尽くすことでその愛を循環させることができるという実践を行ってきた。
それにこの国は、特に島国であるがゆえに、太古の伝統、つまりは神道にあるような引き継がれていくかんながらの伝統精神を重んじ、御恩と御縁を何よりも尊重してきたからこそ天の運行に寄り添い、日々精進し、共に助け合い、共に生かし合う和の国でいられたのだと思う。
二宮尊徳にも、「父母もその父母もわが身なり我を愛せよ我を敬せよ」という言葉がある。
自分が存在できているこの身体もその父母またその先祖の肉片を分けていただき、その真心にあった無償の愛を引き継いで今がある。それはそれは偉大すぎて畏敬だからこそその恩に報いるために自分を愛し、自分を敬い、大切にすることこそ親孝行であるということだと思う。
私の身のまわりでもその親子関係に苦しんでいる人をよくみかける。
しかし、親はそもそも親でありそれは即ち自然と同じで絶対なもの。
そこに対して評価を求めたり一方的に自分を優先し要求する前に、まずは自分を省み謙虚に遜ることだと思う。
仕事でもそうだけれど、親に対する孝行の心なくして人に正しく仕えることはできないし、御客様に対しても謙虚に感謝することができないはずだ。
何よりも、生き方を変えるということは父母即恩という真心と行動により親孝行をすることだと私は思う。
先祖代々、脈々と続いてきたその先にあるのは祖始の愛。
私もあなたたちと同じであるがゆえに、そういうものを大切にしていくモデルでいたいと思う。子どもたちには、自分がまずそういう手本になり、親孝行をさせていただくことに感謝の日々を送っていきたい。
私も師との約束やその存在があることに心から感謝し、自らそことの結い目は敬愛する自分があるように感じれることに何よりも恩恵を感じ心から報徳で仕えていこうと思います。