一流の定義

色々な古典を読み取り、思想を感受感応するうちにある一つの共通点を観ることができる。

そこには、太古から脈々と悠久に引き継がれているている時間が在り生命の営みが新旧今と存在しているように思う。

そしてそこに偉人というものや、もしくは自分の天命を全うしたものの生き方や思想を鑑がみることもできる。

そう思うと、人がこの世で納得し幸福であるとは調和というものをどれだけ内包できる器を持てるに至ったかというのはとても重要なことだと思う。

儒教でも、仁義礼智心をはじめ人としての在り方、道徳が問われる。そして神道では真心、仏教でも同じく様々な戒律により道徳が示される、他のどんな宗教であれ四苦八苦を受け容れるために本筋にあわせて生きる方法を顕わしている。

そして、神道などにあるように天や自然というものを神とし畏れ奉り感じてそれにあわせていく生活としての調和、儒教では仁や恕とし、仏教では曼荼羅などでも伝えられている。

そう考えていくと、天人合一された人間がこの世で天命を果たすことが宇宙創成の意志だとするとその空や無、結い目であるがままというのは自然と道徳が渾然一体となったものではないかとも私は思う。

つまり、人が人であり一流というこは、まさに自然と道徳を併せ持つ人こそだということにならないだろうか。

今の時代は、何か有名であればや人気があれば、もしくは偏っていたり派手だったり、世間では成功者と呼ばれる富豪だったりと、何が一流なのかがわからなくなってきているように思う。

年齢を重ね、仁義に欠けたり、礼儀がなかったり、自己中心的に他を排斥しようとばかりになっていたり、嫉妬や乱暴などの大人に一流などとは思うことは誰しもがない。

やはり、自然であるということは自然界の戒律をよく厳守しあるがままで自分の生命を存分に生かしつつも、人間的な思いやりと理知理性に添った道徳の風紀溢れる人がたくさんの人たちから親しまれるのだと思う。

自然と同じだけでいいのであれば、自分の好き勝手にやって自分の内面の声だけに従えばそれでいいのかもしれない、しかしこの世は人間界で自分を立てていくのだから社会が在る。

社会があるということは、そこに学問を通して習い真似び、それを繰り返す中で自ら社会で周囲に恩徳共生を享受できるような実践をし修身する必要が在る。

学問とは、自らの身を人間社会で修めるために存在し、またその学問を使い大いなる畏れと敬いを持って生きていくことが大切だからこそ生まれたのではないかとも私は思う。

こういう時代、人間社会は乱れ、自然との調和は蔑にされ、二流や三流でいることが楽して生きたり、便利で利得を貪ったりする中で、大変な思いをしている人たちや子どもたちがたくさんでてきるのを感じる。

自分は此処でこの時代に個の命を使って本当に何を為すべきか。

どんな小さな波紋であれ、それが未来と繋がり子ども達の切り開く希望となるならば身を捨て心を磨き、知行合一天人合一こそを本命とし、何よりも一流を目指して学問を深めていきたい。

まだまだできることがたくさんあることに感謝し、次の時代に備えていきたい。