日本の神話には、この国の天孫降臨の話や八百万の神々の話など面白いものがたくさんある。
この国の先祖は、何よりも正直で素直であることを尊び、慈愛と思いやりと勇気と正義を重んじていたことはどのシーンでも感じることができる。
また澄んだ水のような清らかな美しい心で生活することを大事にし、邪でやましい心で生きることを戒めている。
色々な日常の中で、澄んだ眼差しで素直に正直に生きていれば自然に心が強く逞しくなってきて人は全てに優しくなってくる。その逆に、心が澱み斜に構えて邪に捻くれて生きていればこれも自然に心が弱く情けなくなり人は全てに冷たく厳しくなってくる。
人はその生き方を選ぶことができ、常に自らの今の心に尋ねて自分のありようを見つめながら自分の心を内外の調和を取りつつ成熟していくものだと思う。
そういう心のことを大事するというのは、何よりも魂で生きていく上では大切なことだと思う。
私が好きな日本の神話の詩に下記がある。
「赤玉は緒(を)さへ光れど白玉は君が装(よそひ)いし貴くありけり」
これは、「赤い宝玉はそれを繋げている緒までも光り輝いてとても美しいけれど、白い宝玉のようなあなたをとても貴く思っています」という意味になる。
私なりの解釈だけれど、見た眼に派手に飾っている様々な姿は眩いまでにそれ自体の全体が光輝くように見えるけれど、それ以上にその人の心が素直で清らかで美しく澄んだ貴さにはとてもかないはしないという感じだろうか。そしてそれを思う本人の心と相手にその澄んだ心を伝えることでいつもお互いが澄み渡っている関係があることがこの国の人たちの真善美によるかんながらのカタチではないだろうか。
たとえどんなことがあっても、心が澄んだ美しい人は謙虚に自らを慎み感謝しより善い未来と繋がりを広げていくことができる。しかしそうでない意地悪な人は、どんな境遇であったとしても傲慢になり自ら怠惰に様々な欲望に執着し過去に悔い繋がりが断絶されていく。
これはとても大事なことで、私自身こういう今の時代のような隔絶された孤独な不信と不安に満ちている欺瞞が蔓延る社会に於いて、何よりも心のありようを戒め、禊ぎをし、いつも清明心であるがままにいないといけないと心から思う。
今は本当に色々な情報が多すぎて、シンプルにならず困っている人がたくさんいる。
私の場合は自分で決めたことに対して自らが信じ、相手を思いやり、足るを知り、真実を守るために耐え忍ぶ心を磨くことこそ、子ども第一主義を貫くための基礎になっていく。
沢山の人たちと交わっても、その心が明鏡止水のような静かで穏やかで優しく包み込むような生き方をしていきたい。
よく考えれば、神話をひも解くとこの国の人たちは皆、正直であり、素直であり、思いやりがあり、助け合うことを美徳として手を取りあって生きてきた民族だった。
社会全体や皆が幸せになるようにどうすればいいかを、子どもの心で考え抜いて行動していきたい。全体か益するためにどうすればいいかを常に念頭に置き、かんがながらの道を歩んでいきたい。
一人ひとりが、どうあるべきか。
大切にしているものは知識ではなく、相手を思いやる美しい心。
私たちの民族の魂に訴えていけるように、まずは自ら実践を大事に日々を楽しんで過ごしていきたい。