美徳

日本の神話には、この国の天孫降臨の話や八百万の神々の話など面白いものがたくさんある。

この国の先祖は、何よりも正直で素直であることを尊び、慈愛と思いやりと勇気と正義を重んじていたことはどのシーンでも感じることができる。

また澄んだ水のような清らかな美しい心で生活することを大事にし、邪でやましい心で生きることを戒めている。

色々な日常の中で、澄んだ眼差しで素直に正直に生きていれば自然に心が強く逞しくなってきて人は全てに優しくなってくる。その逆に、心が澱み斜に構えて邪に捻くれて生きていればこれも自然に心が弱く情けなくなり人は全てに冷たく厳しくなってくる。

人はその生き方を選ぶことができ、常に自らの今の心に尋ねて自分のありようを見つめながら自分の心を内外の調和を取りつつ成熟していくものだと思う。

そういう心のことを大事するというのは、何よりも魂で生きていく上では大切なことだと思う。

私が好きな日本の神話の詩に下記がある。

「赤玉は緒(を)さへ光れど白玉は君が装(よそひ)いし貴くありけり」

これは、「赤い宝玉はそれを繋げている緒までも光り輝いてとても美しいけれど、白い宝玉のようなあなたをとても貴く思っています」という意味になる。

私なりの解釈だけれど、見た眼に派手に飾っている様々な姿は眩いまでにそれ自体の全体が光輝くように見えるけれど、それ以上にその人の心が素直で清らかで美しく澄んだ貴さにはとてもかないはしないという感じだろうか。そしてそれを思う本人の心と相手にその澄んだ心を伝えることでいつもお互いが澄み渡っている関係があることがこの国の人たちの真善美によるかんながらのカタチではないだろうか。

たとえどんなことがあっても、心が澄んだ美しい人は謙虚に自らを慎み感謝しより善い未来と繋がりを広げていくことができる。しかしそうでない意地悪な人は、どんな境遇であったとしても傲慢になり自ら怠惰に様々な欲望に執着し過去に悔い繋がりが断絶されていく。

これはとても大事なことで、私自身こういう今の時代のような隔絶された孤独な不信と不安に満ちている欺瞞が蔓延る社会に於いて、何よりも心のありようを戒め、禊ぎをし、いつも清明心であるがままにいないといけないと心から思う。

今は本当に色々な情報が多すぎて、シンプルにならず困っている人がたくさんいる。

私の場合は自分で決めたことに対して自らが信じ、相手を思いやり、足るを知り、真実を守るために耐え忍ぶ心を磨くことこそ、子ども第一主義を貫くための基礎になっていく。

沢山の人たちと交わっても、その心が明鏡止水のような静かで穏やかで優しく包み込むような生き方をしていきたい。

よく考えれば、神話をひも解くとこの国の人たちは皆、正直であり、素直であり、思いやりがあり、助け合うことを美徳として手を取りあって生きてきた民族だった。

社会全体や皆が幸せになるようにどうすればいいかを、子どもの心で考え抜いて行動していきたい。全体か益するためにどうすればいいかを常に念頭に置き、かんがながらの道を歩んでいきたい。

一人ひとりが、どうあるべきか。

大切にしているものは知識ではなく、相手を思いやる美しい心。

私たちの民族の魂に訴えていけるように、まずは自ら実践を大事に日々を楽しんで過ごしていきたい。

涵育薫陶

GTサミット2日目が昨日、無事に終了することができた。全国各地から、子どもから保育を考えている方々とふれあうことは自分の人生の喜びでもある。

保育という仕事は、自らで立派になろうとする人々を感化し、平和な社会を導き、幸せな世界をともに創っていくことに参画できる素晴らしいものだと改めて実感する。

それを思うとき、一人ひとりの実践による感化発信がどれだけの力になるかと思うと昨日の様子を見ているとまだまだこの国には希望が満ち溢れていると実感でき感謝に満ちた。

サミットでは、陶冶についての話があった。

私は、教育というものの考え方の中で人は自然に育つものだと定義し、徳のある人に感化されて人間は成長していくものだと信じている。

何か結果ばかりを追うのではなく、何のために生きるのか、何のため行うのかを正しく思っている人たちが集まり、その中で仁義道徳を実践する人が真ん中にいれば人は次第に練り上げ磨き合うような立派な同志に変わってくるのだとも思っている。

私が尊敬する吉田松陰の書、「講孟箚記」にこうある。

「養の一字最も心を付けて看るべし。註に、養とは涵育薫陶して其の自ら化するを俟つを謂うなりと云う。涵はひたすなり、綿を水にてひたす意なり。育は小児を乳にてそだつる意なり。薫は香をふすべ込むなり。陶は土器をかまどにて焼き堅むるなり」

とある。

これは簡単に解釈すれば、「養う(保育)」というこの言葉の意味を深く味わうことだという。つまり養うというのは「涵育薫陶して其の自ら化するを俟つを謂う」(朱子)の言葉である。涵とは、綿を水でひたすようにしていくもので、育は幼児を乳で育てるという意味になる。陶は、土器をかまどで焼き上げることという。

人が育つ、育てるなどというものは普遍的なものがある。

すべての生命は、自ら育ち自ら育てようとする。

それはすべてに仁義道徳のある思いやりの実践が出来る人によって次第に人間は立派になろうとし、さらには世の中に有用な人になろうと目指すのだと思う。

私が尊敬する師匠も、自らがその実践により人々を感化していく。その恩恵を身近で受けていると、この「涵育薫陶」という言葉が当てはまる。

無理やりに何か正しいことを教えようとしても人は変わりはしない、そして何か厳しく無理に強引に導こうとしても人は育たない。やはりじっくりと永い時間をかけて涵育薫陶を続け、自らが変わりたいや立派になりたいと思うのを待つことこそ仁義道徳を実践する聖賢の道であり、それこそが人類の精神を思いやり助け合いの成熟なものへと導くチェンジングリーダーとしての素養であるのだと私は思う。

何か勘違いされているけれど、学者や研究者ではなく実践者に私が何よりも強く惹かれ、その人生を懸けられるのはこういう素養のある人の周囲に満ち溢れている気やその涵育薫陶の持つ人間を深く受容する懐の偉大さに感動しているからだとも思う。

これからもこの教育界にいて、企業としてお役に立つ以上、何よりも何のためにやるのか、それは子ども第一主義の理念に沿うものだとしさらなる皆様の貢献に尽力していきたいと思います。

役割分担

昨日、2010年のGTサミットが開催された。今年も全国から問題意識の高い方々が一堂に集まり、様々な課題を共有することができている。

状況が目まぐるしく変わる中、まずは自分たちから勇気を持って変わっていこうとし、今までの慣れ親しんだやり方を捨てようと代表からも話があった。

今までのやり方であっていた時代はそれで良かったけれどあわなくなったらどうするか、それを考える人はまだまだとても少ない。

やはり一人ひとりが自ら主体的に考えて生き、具体的に行動を変えていかなければば変わらないというのはどの時代でも同じことだと思う。

なぜすぐに変わらないかというと過去の貢献を否定されたと思いこみ、変わりたくない理由をつけているのもあるのだろう。しかしたとえ今まで貢献したからといって、それまでに経験したことをいつまでも変えないというのはおかしいことだと昨日の研修でも話があった。

今までは気づかずに良かれと思ってやってきたことも、あるときにはもうすでにそれは害があるもの変わっていることがある。

それを農業の例え話で諭していただいた。

例えば、曲がらないきゅうりが良いからと農薬や肥料などを調整してたくさん作って購入者に喜ばれた時代があった。けれど、残留農薬や添加物の蓄積毒が身体にも悪く、今では病気の原因になると言われ良くないと言われていることを知った。当然、今までの良いことよりも害を及ぼすと知ってしまったのだから止めればいいはずなのにそれをいつまでも止めようとはせず、上辺だけを誤魔化して変えたように見せ続けたりして一向に今までのやり方を止めようともしない。それでさらに害が広がっていき負の連鎖は増大していく。

保育や教育でも、今までの一斉に画一し、個性を蔑にし、大量生産大量消費の名のもとに子どもの権利を尊重しないやり方で、気がつくと今の社会でうつやひきこもり、自殺、その他、受身やコミュニケーションの欠如、自己肯定感や自信を持てないなど、様々に問題になってきているのを教育者や影響ある立場の人たちもそれを本心では知っていながら実践する一人ひとりすべてが今までのやり方をいつまでも止めようともしなければ、それがこの先ますます害を及ぼすと分かっていても続けていればそれはもはや罪を犯している領域まで入っているのではないかとも私は思う。

以前、ある医師が合法的に人を傷つけている仕事だからこそ何より正しいことのために自分を変え続けるとお話を聴いたけれど、人を育てるという仕事もやはり合法的に人を傷つけている仕事ではないか、だからこそ天に恥じないようにいつも正しいことかどうかを省み、そして温故知新に日々新たにしていくために修養し世界へ広く目を向けて見守る必要があるのではないか。

それなのに知らなかったではとても済まされない現実世界での悲惨な出来事が起きていることに憂慮もせず、一人ひとりが今までの楽で便利だからと保身保守のために変化しないということがあっていいのだろうか。

新しく生まれて来る者たちが、自分らしく安心して生きていける幸福な社会はいったい誰が譲るのかを思うとき、人は少しでも善いものを引き渡していこうとするのが今を生きる者たちすべての使命ではないか。

日本古来から受け継がれてきた和合の精神や、かんながらの心、または御縁を大事にする感謝の生活、お天道様に恥じない正しい行いなど、そういうものを守りながら自分たちが変わっていくということは何よりも未来を信じることにならないだろうか。

今までの社会や教育にどっぷり浸かってしまってなかなか変われないし急には変わろうともしないこともよく分かる。けれど、いつまでもこのままのらりくらりと誰か任せにしていたらもう手遅れになってしまう。

自分たちの分身であり、愛の化身でもあるあの子どもたちを中心に置いて、皆で役割を分担して社会を一人ひとりが責任を持って参画し形成していかなければいったい誰がこの問題を解決するというのか。

この国の人たちは、あまりにも物質的豊かさの中に依存し、誰かが何かをしてくれるはずと、自分たちの役割を放棄し、誰か任せに生きることで欲望に浸っている生活が長く刷り込まれてしまっていることがある。

制度改革も、政治家任せやある団体の幹部任せ、または官僚任せや暗黙の了解任せではとても本当の意味で皆が自覚し責任を持ち参画した社会とはならない。文句や責任転嫁は生まれても、新しい命がそこに生まれるはずはない。

今こそ、それぞれが自分たちの持ち場で立ち上がり、相対的に良し悪しではなく、絶対的に善いもののために自分を尽くして時代にあわせて変わっていく勇猛心が国民一人一人すべてに必要だと思う。

小さな働きかけでも積み上がれば必ず大きな訴求力になる。

かの草莽崛起とは、立場も人種もましては人間だけによらずすべての生命が力をあわせて一人ひとりが世界のために何ができるかを考えるという真理、tsまりは天体渾然とした自然の理法。

この自然界にある真実の理法を、自らで体現できるように役割分担を分度を定め真摯に取り組みたい。またこの今も同じ理念や志がある方々と語り合えること、何よりそういう機会が得られていることに何よりも本当に感謝しています。

強い意志

どの組織でも言えるけれど、理想を追い、理念を定め、それを堅持するということは難しい。巷ではカリキュラムなどのマニュアルばかりが横行しつつあるけれど、本来、何のためにがあっての理念なのだからその根源的なものを理解し解釈をみんなでできてはじめて具現化できるものになる。

カリキュラムやマニュアルは理屈や正論が在る。

しかし根源的なものとは、そうやって外側で正しいというものを内側で正しいということにはならない。

根源的な理念が人権尊重としている場所である人が、美味しいものは手間暇かけてとマニュアルで書いても、その対象にする相手が何かの理由で何かで急いでいるであれば手間暇かけても美味しくならない。大事なことは根源的なことを理解しておけば、その本質を維持するために柔軟性を持って対応することを言う。

上記で言えば、根源に沿うとおもてなしをしたいのだから手間暇をかけれないのでできないのではなく、すぐに食べれて持ち帰れるものや、心遣いや安心できるような配慮をすればいいということになる。

常に真理や根源を維持するには、外側の現象に対して本当は何かを考え行動することによる。

そういうものをどこに置くのか、そこから考えるように共通理解を持つために理念を持つ。共通理解というはただ皆が知っていればいいのではなく、何を知っていれば良いかということでもある。もっとも優先順位の高いものが何かを理解していることを共通理解というのだと思う。

そしてそうやって共通理解までを持った人たちが理念を第一に保持するためには外界の変化にあってもいつもルールが守れると言う自由な存在、つまりは集団の中での個々の自立が必要になる。

しかしそういうものをすぐに「できない」や「わからない」という相手のせいにできる理由など探そうとすればいくらでもある。そうではなくて、それぞれにそれぞれが自分で決めるという強い自覚と強烈な意志の力が必要になるのは言うまでもない。

皆と一緒に自分が信じていることを強く念じ、何よりも意思の力で取り組むことができることは自分を大事にするためには大切なこと。自分を大切にするとは、皆を大切にすることであり決して自分を守るために自分を殺すことではない。他を活かしている存在として自立しているからこそ、はじめて自分を大切に活かすことができるということ。

幼い時に、大人から選択肢を与えられずトラウマを持つ人たちもいる。しかし前進しなければいけないことがあるのに、それに浸っていては何も人生も変わることもできない。

皆が助け合うというのは皆も同じく向き合っているのだから自分もやれるという周囲の見守りを使うことも良い、しかし誰か一人でも依存し、自分本位に皆にすがり甘えたりすればもはやそれは協力をしようとすることをサボることになり、そのことで周りの人たちに多大な迷惑をかけてしまうこともある。

もっとも迷惑なのは、そういう甘えることを正しいと勘違いし、無自覚でいつもできないやわからないなどちょっと大変だと思うとそれ以上は意思の力で取り組まなくなるとその時点で周りを巻き込みできない理由の急先鋒となってしまうこともある。

人は、人間との関わりに於いて何より自分から声掛けしてお互いを尊重し合ったり、助け合ったり、支え合ったりせず、自分ばっかりや、自分のことばかりを考えていれば自分の殻に引き籠りそこから脱しようともしなくなるもの。

つい個人プレーで個人技に走ると、その個人技こそが周囲の疑惑や不信を生み、それで皆が協力しずらくなり最終的には孤立してしまうことで自分ばっかりこんな目にとなるのはお門違いな話であると思う。

人に求める前に、自分に矢印を向けて自分が勝手に進めているから問題なのだと気づくことが大事なのだ。

人は一人では生きていけないように、一人では大きなこともできはしない。完璧な人間などいるはずもなく、完璧であればそれは幸せではない。幸せであるとは、お互いの持ち味を生かしながらお互いがやりたいことを認め合い、お互いに尊重しながら共生していくことが幸せの本質になる。

だからこそ、お互いが足りないところをオープンにさらけ出したり、自分ができないところを皆に力を借りたりすることが何よりも協力するための姿勢ということになる。

保育の業界に限らず、この国の教育は責任と孤独とを押し付けてきた。だからこそ一人ひとりに負担と責任を押し付け完璧な職員を育てようとする風潮すらもある。しかし、保育を思うとき、子どもたちはどうなのだろうか、幸せではない保育者が子どもを幸せにすることもなく、仕事や使命を楽しむ喜んでいる人ではなければ、子どもも楽しみ喜べるはずもない、さらには、毎日が充実していない人から、充実をする方法を学べるはずもない。

大切なのは自分が何のためそれをやるのかを自らが決心し、それを実践することで周囲を感化することであり、周りに委ねて誰かが何とかしてくれると他透けてもらうことや認めてもらうこと、分かってもらうことばかりになり、イジケテ他人との関係を断絶することではない。

何かに甘えてやらないための理由を躍起になって探すのではなく、何のためにやるのかを見定め、それを最後まで遣り切ることが自ら周囲を尊重して自分を尽くしていくことになる。

色々な問題があるけれど、子どもたちが今創り上げている社会こそが未来なのだから、今起きている社会問題から課題を見つけた以上、何よりも理念を立ててその課題に向き合い皆で一丸となって一つ一つを取り組んでほしいと思います。

子どもたちのためにも強い意志を持ち、他を見守ることで自律し共生していけるような実践を築いていきたい。

中秋

久し振りに、ブログの主旨とはやや外れただ自分のために詩文のようなものを語ってみようと思う。

この時期の月はとても澄んでいて美しい。

私は毎日のように月を観ては自分を照らしてみるけれど、その姿が自らの心と体が一になるにはまだまだ清く明るく素直に誠の実践を積んでいきそのものに還っていかないといけない。

しかし、平常心とはなかなか難しく、事があれば一心不乱でもまた事がなければ元の煩悶となればそれは良知がいつも照らしているというわけではないのだから学ぶことをより一層大切にできる。

ある時、雲の上に言い知れないほどの霊妙な暁が顕れ、その揺れ動く様に心を奪われることもある。
その奥には、蒼く深い空と手前には流氷のような白く煌めく塊がある。

流れる雲に風を感じ、遠ざかる日暮れにより静かなさざ波と大海原の存在を実感する。

人は生きている以上、やりたいことをやるために生きなければ老いて死ぬのみ。

真にやりたいこととは、執着や煩悶の中ににはなく穏やかで静かな光明の粒子のままにある。

今、此処にいることを知り、今、其処にあることを観る。

彼岸に達して達し切るには、まだまだこの生と性が渾然とならなければ理を悟ることもない。
月を明るくし、その円満な姿に、自分の心をあるがままに染まらせていきたいと思う。

最後に、私がまた今年の月を偲び感応しで出逢った王陽明の詩文がある。

 「中秋」

『去年の中秋 陰また晴れ
今年の中秋 陰また陰
百年 良景 多くは遭わず
いわんや及ち白髪 相侵尋す
吾が心 自ら光明の月あり
千古団円 永えに欠くるなし
山河大地 清輝を擁す
賞心 何ぞ必ずしも中秋の節のみならんや』

月はいつも闇夜に欠けているようで欠けることはなく、その実は円く穏やかに傍にいる。
名月を観ようとしても雲がかかり、なかなか本当の明月に出逢えないうちに年を重ねる。
しかし、心には永遠に変わることのない円満な月がいつもほのかに照らしている。
その月の光が、全ての自然を抱擁しているのだから流れるままに楽しみたい。

静かに日が落ち、灯火の彼方にある深藍の中に至誠至大の一番星がある。

その一番星に感動する心を澄擁し、さらなる歓びを味わい尽くして未来の子どもたちを愛したい。

嗚呼、時が満ち、私の感謝邂逅はどれだけ天の恵みやあの偉大な自然の愛に抱かれているというのか。
すべての格物は良知に致れることを、秋の空とともに世の人々と分かち合いたい。

変化を楽しむ

カグヤの理念のひとつに「分かった気になるな」がある。

これは今まで身に付けた慣れ親しんだ楽なやり方という刷り込みの中で表面上でなぞるように理解するのではなく、そういうものを捨てて自分を新しいものに変えていくために不慣れでも挑戦し本質的なものに自分をあわせて深く気づき理解していこうとする行為をいう。

人間、いや生物は、一度便利で楽なやり方を覚えて習慣になってしまうとそれを変えることを嫌がる傾向がある。

日々、古来より地道に正しく精進することは大変なことだけれど大切なことを忘れず正しく続けているからこそ頭が刷り込まれずに本質であることができるものだ。

先日、ある園で職人芸の話をした。

ある体育教室で、職人芸まで達したある体育教師は子どもを一瞬で活き活きさせて何でもできるようにしていく。しかし、よく観察していたらその後その教師がいなくなると途端に子どもたちは何もできなくなってしまいどうしていいかわからず空虚感や無力感に苛まれて動けなくなってしまうこともある。

保育も同じく先生がいないと何もできない子ども達がいる。

これは、日ごろ何かと指示をされていてまたそれが考えずに習慣化されているから自分からどうしていいかが自分ではわからないからであることが多い。

職人芸で指導をすると、子どもたちは自分で考えることができなくなる。

子どもたちが主人公になるようにするには、それをできるようにしていくことは決して職人技で教えてやることではなく、本来は本人に「決心」したことを責任を持ってできるように見守っていくことだと思う。

職人が昔から頑固だと言われるのは、今までのやり方に固執しそれを捨てられないことをいう。本当のプロの職人はいつも柔軟性があり自分が変わっていくことでより善いものにするためにいつも挑戦しているものだと思う。

変化するというのは、慣れ親しんだ楽で便利な今までの癖を払拭していくことであり、新たに挑戦し自分自身が新たな習慣を身につけることを言う。

自分を変えることを嫌がり、いつも周囲にばかりに変化を要求し自分はなにもしないで自分で努力できる範疇で何かをやっている気になっていてもそれは何もやったということにはならないでただ同じことをやっているだけになる。

本当は、短絡的に頭で安易に分かった気にならずに新しいことに挑戦し実践することで何かここにも新たな深い意味があるはずだと、心の底で気づき自分を大切なもののためにあわせていくことが自分を成長させていくということだ。

成長が止まっている人とは、自分の都合でしか何もしない人を言い、成長し続ける人とは周囲の環境の変化に対して自分から本質的に自分を新たにしていくことに挑戦を続けている人をいう。

時代も変わり、環境も変わり、世界も変わっていくのだから、常に相手や外側にあわせることばかりになるのではなく、自分から分かった気にならないようにマンネリに甘んじず、便利さや楽なことを求めず、真摯に自らに気付き自らを変えていくように新しい習慣に取り組んでいくことだと思う。

脳が嫌がり今までの癖が取れないとし、また昔のように元に戻るのでは努力が自分都合の自己満足になってしまう。だからこそ本当の大切なもののために新しい方へ自分をあわせて自分の心からの実践で日々自分を刷新していくことが全体の中での調和と共生になるのだと思う。

変化に対してもっとも大切なことは自分が決めること。

決める、決めたはすべて心でするものです。

頭で決めたりすることもできないし、誰かから言われたからやるのは自分が決めているわけでもありません、決心することは自分が変わると決めること、心から自分で思い挑戦すると覚悟を決めることだと思う。

今まで誰かの指示で受身に生きてきた人には苦しいことかもしれませんが、自分の人生を自分で生きずに誰かにもたれかかればそれだけ迷惑をかけてしまうことになります。

やはり大人のモデルとして自立することこそ、周囲に感謝でき、周囲を活かし自分が貢献していけるのだとも思います。

自分で決めずに誰かや環境に迫られるからやらされるだけとなればその先にあるのはうまくやろうとすることばかりに躍起になる職人芸が身に着くだけです。まだ若く前途ある若さ漲る命が底にあるのだから、何よりも心で決めて心からやって変わってほしいと思います。きっと大丈夫です。

本当は変化することとは苦しいものではなく、好奇心を発動して新しい世界が開けると思えばワクワクドキドキ、楽しいことがたくさん待っているのです。憧れや夢と希望を持ち、どんどん自分を変えてやるんだと変わっていく自分のことを新しい習慣の実感により日々成長する自分を楽しんでいくことです。

便利さや慣れ親しんだ方にいつも負けるのは意志の弱さと甘えの体質の所以であり、それはすぐに心が刷り込みに気づけば向上心と好奇心により取りされるのです。

勇猛心を奮い立たせて一番大切なもののために今までの自分を捨てる新たな習慣を身につけて世界を立てて自分を主人公として変化を楽しんでいけると良いですね。

今は変化の時、チェンジはチャンスなのです。

うまくやろうとしてヘンテコなものになるより、正々堂々と誠実に取り組み真実のものになることが子ども達に示していくことだとカグヤはこれからも正直さ実直さ、素直さ、真面目さ、真剣さを優先していくクルーであることを優先していきたい。

理念の解釈

毎週月曜日の朝一番にカグヤの理念についての解釈を行う時間を取っていて、先日もそのことについて話し合う機会があった。

ルーツについて話をしたのだけれど、物事の解釈には本質的なものとそうでないものがある。

表面上をなぞって分析し、同じところを往ったり来たりとただ水面の上でバシャバシャと音を立てて泳いでいるだけのものと、同じところを深く潜り本質的で内容があるものを掴んでくる深層的で根に触れてくるものがある。

人は自分で決心するのも決意するのも、そして本質であることも全ては自分から発して自分に還るもの。

だからこそ、何より単に浅いところで分かった気になり頑なに正しいことかどうかばかりを気にするような反応的な努力では、本当に真理や心底、その根本から理解するような内省的な努力にはなりはしない、そこには柔軟性や正直さもすでになくただただ分からないことを永遠に繰り返す動作的で機械的な日々を送ることになる。

これは先日、空海の実践の足跡を調べているうちに拝読した高野山真言宗管長の松長有慶先生の著書「こだわらない」(PHP)の中で分かりやすく解説をしていただいていた。

「仏の教えの中には二通りの解釈の仕方が在る。ごくおおざっぱな表面的な理解ともいうべき「浅略趣」と、ものごとの本当の姿を見通した深い理解にあたる「秘密趣」とがあるという。

たとえば、われわれの身近に病人が出たとする。そこに医者が来て病人を前にするが、古く中国から伝えられた医学史をひもとき、病気の原因を論じたり、薬の効能をうんぬんするばかりで、一向に病人の脈をとろうともしない。それが顕教のやり方である。

それに対して、密教の立場は、病人を前にすれば、議論はあとまわしにして、まず病人を診察し、病気に最も適切な薬を調合して与え、治療に全力を傾注する。病原の詮索とか薬効のPRよりも、病そのものを治そうとする実行が大切、と大師は述べている。」

弘法大師は、高野聖と呼ばれる弟子をたくさん輩出し日本全国、いや世界に放ち、密教の実践を尊び、大勢の人たちを功徳で導きこの今もそのビジョンは光り輝き後人を照らしている。

理念や原点などを理解することは、自分で決意決心して豊かに生きるには必要なことであり、二度とない人生だからこそ遣りたいことを遣り抜くという強い意志が本質的に楽しくし幸せにしていくものだ。

幸せであるかどうかというのは、誰よりもその秘密趣の領域にて本当に何をやりたいのかを自らが掴んでいることであり、表面上で分かった気になっている浅略趣では現実に役に立たない議論ばかりしているうちに人生があっという間に過ぎ去り終わってしまうのではないかと私は思う。

ここで遣ろうとしていることは、浅略趣では分からない。
だからこそ、どれだけ潜ってその根を掴んだかはその人自身の問題となる。

理念の仕事をしていると、いつも結果に対しての責任がある。

その結果責任を正しくし、世直しや世界を易えようとするなら理念のルーツを知るだけではなく本質的に根を自らが張り巡らせなければそれは理念の浸透ではない。

自分の力で根を掴もうとはせず、表面を右往左往している人たちに理念の本質的な意味を理解することはできはしない、さらには根を張るのは自らである必要があるのに理念に根差そうとしないのではそういう人はもうお手上げでどうにもすることはできない。

常に自らが先に道を歩む者たちとして実践躬行を第一義に命をを懸けて取り組んでいきたい。

平安

吉田松陰の弟子に久坂玄瑞がある。

京都の禁門の変で自刃してこの世を去った志士の一人だけれど、その周囲を慮り、一途に決心したことを貫く生き方にはとても共感できる。

松蔭がその玄瑞の人柄をこう解釈する。

「実甫(玄瑞)は高らかに非ず。且つ切直に逼り、度量窄し。然れども自ずから人に愛せらるるは、潔烈の操、これを行るに美才を以ってし、且つ頑質なきが故なり」

これは私なりの解説になるけれど、皆とともにいても何か驕るわけでもなく、また何かあるとそれはいけないとしあまり周りに寛容な感じではない。しかし、人からとても愛され慕われるのはその自らを奮い立たせて立志立命しようとする潔い信念と、これを実行するのにとても叶う力量を持ち合わせ、さらに柔軟性をあわせもっているからだという。

吉田松陰の末妹と結婚し、師匠亡きあと、高杉晋作とともに師の志を引き継ぎ、国のために、過去の私たちの民族の未来のために、今に生き切った生涯を歩んでいく。

人は色々な人たちの遺志を受け継ぐことで、自分を超えて真の意志を持てる人物に変貌していく。その真心を正しく受け取るためには、その魂に心底共感し素直に純粋に師の言うことに感激したことで自分が変わっていくことを実感するものだけが身を捨ててでもというあの境地に出逢えるのだろうと思う。

その瞬間がいつなのかは、その人たちの死生観によりものだけれどそれは天が決めることなのだから人はやはり生きているのならば何よりも日々を真摯に生きることなのだろうと思う。

その久坂玄瑞が、あの坂本竜馬を決意させ、高杉晋作を動かし、さらには西郷隆盛を感動せしめたのだからやはり意志を継いだ者たちの命懸けの志が時代を揺り動かしたのだと思う。

結果だけを観れば、成功した人たちが何か事を為したように言われるけれど実際に事を為すには暗闇の中で光る星星の姿を感じることによる。

あの空に、満天の星空が見え、月が照らし、雲がなびく。
そして、宇宙の風が吹いてきて、海原の彼方から暁の空がまた出でてくる。

そうやって日夜私たちは時代の変わり目に美しく透明な世界を感じることができることが、記憶として今の自分たちを躍動する生命へ駆り立ててくる。

あの移り変わりの寂しさや哀しさ、そして愛しさや悲しさになぜ生き物は感動するのかはそこに何か透明な心が映し出されるからではないかといつも思う。

暁の空に観えるのは、悠久に光輝き終わることがない命の道標。

時はまだまだ来ないけれど、実践は已むことは知らない。

最後にこの久坂玄瑞が20歳の頃、自分を戒め啓発するために書いている言葉を紹介する。

「自分は意志が弱く、何かことをなすような人間ではない。
 しかしそこで自分を駄目だと思ってあえて何もしなければ、
 すなわちできることもできなくなってしまう。
 一時の平安に身を任せることを日また一日と重ねれば、
 ついには畳の上で老死するだけである。」

ここでの若き玄瑞の平安とは、甘えた心のままに日ごとに流され受身になることを言うのであり、そういうではなく甘えを断ち切り主体的に命を立てて尽力していくのだという発奮であると思う。

本当の平安とは、万物一体になりその天地創造の心と繋がり人として怠らず真摯に勤めることを言う。これはまさにこの時代の学問の主柱にあった朱熹にある、「少年易老学難成、一寸光陰不可軽」の心境でもある。

私自身、焦る心と憤る義にまだまだ真の平安までは程遠く、思えば思うほどにその師の背中と足跡から学びその脚下の実践を怠らず歩もうと誓う。

時空

人との関係に距離が在る。

距離は、一般的に物理的なものとそうではない時空のものなどがある。

離れていても心が通じていて、いつも同じようにまるですぐ傍にでもいるかのように感じている同志同友がいる。もしくは、離れてしまうとすぐに思い出しもしない人達もいる。

例えば日々の古典の学びで出逢う論語などの言葉達。

深く読み合いそのものを丸ごと噛み締めればまるでそこに一緒に一堂に仲間たちが集まりその師弟と論じているような語り調で、生き活きし学び問うという掛け替えのない無二の人生の醍醐味を至上に味わい幸せを感じることができる。

またその中で、歴史に顕れた様々な至誠の偉人の足跡を追っていくとその時その場所でその偉人の心と通じ合うことができ、感動と感謝が込み上げ、真心で天と渾然一体になっていく無常の歓びを分かち合い、身奮いしなんとも言えない心が湧きたち宙へ舞い上がってしまいそうな至福の時を得る。

そういう距離には時空がある。

そういう時空を超えて巡り会う奇跡が人には在る。

面白いことをしたい、面白くいたい、面白く生きていくことは出逢うということその距離を超えたものとの邂逅と、一期一会の覚悟の人生が巡り廻りこの場に訪れてくる。

そんな時こそせっかく出会いそしてまた別れるのだから、何を最も大切にするのかは一目瞭然である。

人がその時代に生きて同じ目的で同じ結果に責任を持つことの素晴らしさ、協力することの真の意味、そして其処までのプロセスに、この人と人の距離がなくなっていくのを感じると人間の持つフラットで平な繋がりの無限の可能性を感じてしまいワクワクしてくる。

この距離は単なる縦だけではなく、横もある。

その縦横が無尽に絹が張り巡らし紡ぎ合わせた一反の偉大な創造的反物で何を世界へ表現するのかが面白くすることの意味でありそのもののあるがままに生きている人間の本来の価値であると私は感じる。

どのような結果が出ても、最期まで遣り抜く決意と覚悟こそが魂の力。

私が共感している高杉晋作にこういう辞世の句がある。

『おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり』

これは「おもしろいことがないこのつまらない世界をおもしろくするのだ、そのような生きかたが出来るかどうかは本人の心がけ次第なのだ」という意味になる。

小さく生きるな、大きく生きろ。

吉田松陰が遺した彼への伝言に、死ぬべき時に死になさいがある。
それを忠実に守りとおした人生、先生にそれを伝えたかったのだろう。

この原動力こそ、変化の根源「草奔崛起」の原点であると確信する。草奔崛起とは. 志のある者が立場をこえて同じ目的を持って、いっせいに立ち上がることであり、道心が廃れ無責任になった世の中に於いて真に為さねばならないことではないかと思う。

つまらない単なる結果に甘んじて、本来遣らないといけないことから逃げるための言い訳のために小さくなって生きるくらいならば、いっそのこと逃げるのをやめて、大きなことのために命がけで本来の本懐のために捧げていくことが一番大事なものを守る大義・大志の生き方になる。

そういう人と出会ったからこそ、最期までそういう生き方を演じて欲しい。

そういう人が大義に目覚め、生きていくような世の中こそ志を持つ価値が在り世の中を面白くする価値になる。

まだまだ遣りたいことも遣れることもたくさん残っていることに深く感謝し、そしてそれだけ自分が引き受ける機会に恵まれていることに天機を覚えます。

一期一会

責任

何かを誰かとやろうと思えば、責任というものがついてくる。今の時代は、責任を取るということの意義を勘違いしている人がとても多い。

責任の持てる人はビジネスでも日常でも人から信頼される。またその反対に無責任とは、結果に対して他人や何かのせいにする人をいう。そうやって責任を持たないといつも周囲のせいにしているのだからそのうち誰からも信用されなくなる。

任されたというのは自分が引き受けることを言い、そこには一切の甘えないのところで自分が結果責任に対してその引き受けた約束を最後まで手放さず持ち続け遣り果たしますと相手に宣言するのを言う。

機械のように人に頼むのと、心遣って頼むのとでは意味が違う。

今は、全体が見えにくくなり、全体の一部としての自分ではなく、一部としてのただの自分になってしまっていることもある、社会が歪んだ個を生み出しているからこそ心と心の通じ合うことが仕事の醍醐味ではなく、何かをやったかどうかだけに焦点がいっている。

本来は、皆で取り組み皆で達成するからお互いに信頼しあう喜びを感じ、自分が遣り甲斐や生き甲斐を感じることができる。

それがまるで道具のように、モノのように単にそれぞれが頭でだけ判断し自分の中だけで進めると全体に対して迷惑をかけてしまうことになる。

責任を取らされるや責任を取って自殺したなどあるけれどこれは本当におかしいことで本末転倒であると思う。責任とはもっと楽しいものであり、責任を持たせていただけるということは自分が必要とされていると実感できるものである。追い込まれるといのは、無責任な周囲が擦り付けたいだけで本当は責任は一人ひとり皆が持っているからこそ本来の意味での引き受けるということが生まれる。

例えば、あの昆虫の蟻や蜜蜂でもそうだけれど、周囲がそれぞれに一生懸命に協力し合い、それぞれが甘えを断ち自らの力で責任を果たし、助けあっているからこそ、共生することができる。

もしも、これを自分だけはいいだろうと誰かが誰か任せにしていたらどうなるだろうか。みんなやらなくてもいいならばとなり、言われたらやってあげるとならないだろうか。

責任の本質とは自分が絶対的に引き受けるものでその責任を自分が果たせないからこそ果たそうとし最後まで誠意を尽くすために誰か任せではなく取り組むことだと思う。

これはよくビジネスの先達が言うところの「任せるけれど任せない」に通じている。つまりは、引き受けるということは本人の問題であり相手に転嫁はできず約束を守り自分が遣り切る関係ができることだということだと私は思う。

もしもそうではなく、引き受けた人が単なるサービス精神でできればいいけれど出来なかったら知らないよと、自分との約束や信頼を放置・放棄したら人と人、人と全体とが関わっているということを尊重しないでまるで自分勝手に作業や物を扱うように処理するようなことになり、やはりそうであれば心が入っておらず誰の協力も得られず最終的には遣らずに逃げるということになる。

そうやって放棄した責任の結果は、必ず周囲の誰かがその負担を背負うことになり、その自分の甘えが人と人との信頼や信用を壊していく。一度、そういう甘え癖がついてしまえば誰かすがれる人に依存するだけになり自分本来の力を使って真摯に取り組んでいるとは言い難くなってくる。

大切なことは、どんな商売上の取引であれ、組織の関係であれ、お互いに自らで約束したかどうか、自らが結果責任を引き受けたのかどうかをお互いの信頼関係で永続的に維持できるかどうかによる。

そうやって最後まで続けるには、約束を守り、誠心誠意、正々堂々と真面目に取り組むというように信用や信頼を守るための覚悟と決意が要る。そこに真摯に取り組む中で次第に御蔭さまの気持ちや、有難いや、もったいない、そして感謝していますという仕事の真の喜びがあるのではないかと私は思う。

ビジネスの鉄則は、約束を守ること、信頼を裏切らないこと、責任を果たすこと、などと以前の上司に教わった。これは今でも変わらない絶対的なもの。

その教えが正しいからこそその証明として今でもそれが会社存続の基礎であり、経営の基盤であるのは当然のことだと思う。

だからこそ任せる任せないの相対的な考えを捨てて、丸ごと自分が遣り切るということを今後も自分自身が徹底していきたい。責任転嫁し誰かのせいにして、自分が決めたことに嘘をついてしまうような生き方はせっかく生まれてきている役割や意義に反していて、何よりも見守ってくださっている御縁御恩ある皆様、それにお天道様に申し訳がない。

子どもたちのモデルとなるためにも、そういう大義や忠義、礼儀や孝行などといった引き受けたことに対して責任が取れるように実践を固守していきたい。

様々な学びの機会に心から感謝しています。