何かを誰かとやろうと思えば、責任というものがついてくる。今の時代は、責任を取るということの意義を勘違いしている人がとても多い。
責任の持てる人はビジネスでも日常でも人から信頼される。またその反対に無責任とは、結果に対して他人や何かのせいにする人をいう。そうやって責任を持たないといつも周囲のせいにしているのだからそのうち誰からも信用されなくなる。
任されたというのは自分が引き受けることを言い、そこには一切の甘えないのところで自分が結果責任に対してその引き受けた約束を最後まで手放さず持ち続け遣り果たしますと相手に宣言するのを言う。
機械のように人に頼むのと、心遣って頼むのとでは意味が違う。
今は、全体が見えにくくなり、全体の一部としての自分ではなく、一部としてのただの自分になってしまっていることもある、社会が歪んだ個を生み出しているからこそ心と心の通じ合うことが仕事の醍醐味ではなく、何かをやったかどうかだけに焦点がいっている。
本来は、皆で取り組み皆で達成するからお互いに信頼しあう喜びを感じ、自分が遣り甲斐や生き甲斐を感じることができる。
それがまるで道具のように、モノのように単にそれぞれが頭でだけ判断し自分の中だけで進めると全体に対して迷惑をかけてしまうことになる。
責任を取らされるや責任を取って自殺したなどあるけれどこれは本当におかしいことで本末転倒であると思う。責任とはもっと楽しいものであり、責任を持たせていただけるということは自分が必要とされていると実感できるものである。追い込まれるといのは、無責任な周囲が擦り付けたいだけで本当は責任は一人ひとり皆が持っているからこそ本来の意味での引き受けるということが生まれる。
例えば、あの昆虫の蟻や蜜蜂でもそうだけれど、周囲がそれぞれに一生懸命に協力し合い、それぞれが甘えを断ち自らの力で責任を果たし、助けあっているからこそ、共生することができる。
もしも、これを自分だけはいいだろうと誰かが誰か任せにしていたらどうなるだろうか。みんなやらなくてもいいならばとなり、言われたらやってあげるとならないだろうか。
責任の本質とは自分が絶対的に引き受けるものでその責任を自分が果たせないからこそ果たそうとし最後まで誠意を尽くすために誰か任せではなく取り組むことだと思う。
これはよくビジネスの先達が言うところの「任せるけれど任せない」に通じている。つまりは、引き受けるということは本人の問題であり相手に転嫁はできず約束を守り自分が遣り切る関係ができることだということだと私は思う。
もしもそうではなく、引き受けた人が単なるサービス精神でできればいいけれど出来なかったら知らないよと、自分との約束や信頼を放置・放棄したら人と人、人と全体とが関わっているということを尊重しないでまるで自分勝手に作業や物を扱うように処理するようなことになり、やはりそうであれば心が入っておらず誰の協力も得られず最終的には遣らずに逃げるということになる。
そうやって放棄した責任の結果は、必ず周囲の誰かがその負担を背負うことになり、その自分の甘えが人と人との信頼や信用を壊していく。一度、そういう甘え癖がついてしまえば誰かすがれる人に依存するだけになり自分本来の力を使って真摯に取り組んでいるとは言い難くなってくる。
大切なことは、どんな商売上の取引であれ、組織の関係であれ、お互いに自らで約束したかどうか、自らが結果責任を引き受けたのかどうかをお互いの信頼関係で永続的に維持できるかどうかによる。
そうやって最後まで続けるには、約束を守り、誠心誠意、正々堂々と真面目に取り組むというように信用や信頼を守るための覚悟と決意が要る。そこに真摯に取り組む中で次第に御蔭さまの気持ちや、有難いや、もったいない、そして感謝していますという仕事の真の喜びがあるのではないかと私は思う。
ビジネスの鉄則は、約束を守ること、信頼を裏切らないこと、責任を果たすこと、などと以前の上司に教わった。これは今でも変わらない絶対的なもの。
その教えが正しいからこそその証明として今でもそれが会社存続の基礎であり、経営の基盤であるのは当然のことだと思う。
だからこそ任せる任せないの相対的な考えを捨てて、丸ごと自分が遣り切るということを今後も自分自身が徹底していきたい。責任転嫁し誰かのせいにして、自分が決めたことに嘘をついてしまうような生き方はせっかく生まれてきている役割や意義に反していて、何よりも見守ってくださっている御縁御恩ある皆様、それにお天道様に申し訳がない。
子どもたちのモデルとなるためにも、そういう大義や忠義、礼儀や孝行などといった引き受けたことに対して責任が取れるように実践を固守していきたい。
様々な学びの機会に心から感謝しています。