中秋

久し振りに、ブログの主旨とはやや外れただ自分のために詩文のようなものを語ってみようと思う。

この時期の月はとても澄んでいて美しい。

私は毎日のように月を観ては自分を照らしてみるけれど、その姿が自らの心と体が一になるにはまだまだ清く明るく素直に誠の実践を積んでいきそのものに還っていかないといけない。

しかし、平常心とはなかなか難しく、事があれば一心不乱でもまた事がなければ元の煩悶となればそれは良知がいつも照らしているというわけではないのだから学ぶことをより一層大切にできる。

ある時、雲の上に言い知れないほどの霊妙な暁が顕れ、その揺れ動く様に心を奪われることもある。
その奥には、蒼く深い空と手前には流氷のような白く煌めく塊がある。

流れる雲に風を感じ、遠ざかる日暮れにより静かなさざ波と大海原の存在を実感する。

人は生きている以上、やりたいことをやるために生きなければ老いて死ぬのみ。

真にやりたいこととは、執着や煩悶の中ににはなく穏やかで静かな光明の粒子のままにある。

今、此処にいることを知り、今、其処にあることを観る。

彼岸に達して達し切るには、まだまだこの生と性が渾然とならなければ理を悟ることもない。
月を明るくし、その円満な姿に、自分の心をあるがままに染まらせていきたいと思う。

最後に、私がまた今年の月を偲び感応しで出逢った王陽明の詩文がある。

 「中秋」

『去年の中秋 陰また晴れ
今年の中秋 陰また陰
百年 良景 多くは遭わず
いわんや及ち白髪 相侵尋す
吾が心 自ら光明の月あり
千古団円 永えに欠くるなし
山河大地 清輝を擁す
賞心 何ぞ必ずしも中秋の節のみならんや』

月はいつも闇夜に欠けているようで欠けることはなく、その実は円く穏やかに傍にいる。
名月を観ようとしても雲がかかり、なかなか本当の明月に出逢えないうちに年を重ねる。
しかし、心には永遠に変わることのない円満な月がいつもほのかに照らしている。
その月の光が、全ての自然を抱擁しているのだから流れるままに楽しみたい。

静かに日が落ち、灯火の彼方にある深藍の中に至誠至大の一番星がある。

その一番星に感動する心を澄擁し、さらなる歓びを味わい尽くして未来の子どもたちを愛したい。

嗚呼、時が満ち、私の感謝邂逅はどれだけ天の恵みやあの偉大な自然の愛に抱かれているというのか。
すべての格物は良知に致れることを、秋の空とともに世の人々と分かち合いたい。