調和

先日、見守るためのチームワークについてある園にて研修を行った。そこはもう深く関わり3年目になるけれど、とても変化が著しく見守っていくための環境や心構えなどの基礎ができてきているように思う。いつも思うけれど、仕事がこんなに豊かに感じるのはともに同じ目的を持ち、そのために楽しみながら信じあいながら進められることによる。

御縁とは素晴らしいもので、いつもそこに一期一会を感じることができる。
人は、出逢うことで新たな幸せや新たな豊かさを実感できる。
同じ場所、同じ時間、同じ空気を味わえることが無二の喜びとなり、それを子ども達を通じて共有できるとは本当に有難いことだと思います。

私はいつもコンサルティングで思うのは、今、もっとも何をやることが初心を忘れないことであり、全体を真に益するかを園長が理念で方向を示し、その方向に対して皆が共通理解を持ち、協力してしていくことが何よりも子どもたちの情緒の安定につながっていくし、周囲との穏やかで信頼できる関係を構築していくことができると信じている。

誰かが自分勝手に自分の価値観を優先し、皆との繋がりを断絶すればそれでは優先順位がつけられることもない。

また、全体での決定事項に於いて自らが選択して主体的に参画しようとしなければ責任は取れるはずもない。

そして、一人にさせないようにお互いが思いやり助け合おうとしなければ配慮や心配ができず信頼関係は築けない。

それに全部完璧にこなそうとして肩に力が入り頑なになってしまえば柔軟性を失い、余裕を持ち平常心で豊かさを味わうというような遊び心なども持てはしない。

結局は、一人では何もできないと思って皆を信頼し協力していこうと自分が決めなければ何をするにもその上辺の距離感では手伝うことも喜びも感じ合うこともできないということに気付くことだと思う。

本音本心の距離感とは上記したように、相手を尊重し合うために自分から心を開き素直に正直に信じるための具体的な実践が必要になる。

それは仕事や作業に跳びつき、そこにしがみ付いているうちに何とか変わるだとうと考えないことではなく、もっと全体のために自分を活かそうとする努力、つまりは聴いたり話したり、味わったりというコミュニケーションをすることを言う。

コミュニケーションとは、心で行うものであり口や頭で行うものではない。

本当のコミュニケーションは、人間として相互に伝え理解し合うというお互いを尊重することを言う。

つまり「あなたはどうしたい?」という声と、「自分はこうしたい」という声、その話し合いによってこそ本当の対話が行うことができる。

その人がどうしたいかを聴かないことだったり、その人がどうしたいかを言わないことでは対話ができない。一斉画一教育が最も私が善くないと信じているのは、自分で考えさせず誰かの意見に従っていれば安全だと楽を選んで自分の人生を自分で持とうとしないことに依存体質の刷り込みがあったのではと感じている。

もしも軍隊や何か大集団で動かしたいのなら、意見を言わせず周りがそうだや一部の権力者の言いなりになるようにするのだけれど、個々の人間の幸福が全体の幸福と思うとき、決してこの一斉画一は人を幸せにはしないと私は思う。

人は自分と言う世界で無二の存在を受け容れる権利は、生命そのものの中にあるがままの光が証明している、私のかんながらでも八百万の神々とあるようにすべての無限の価値がそのものに宿るという考えによるものである。

だからこそ、一斉画一で自分で決めずやらされてきたし、それでいいとし便利に従ったことを此処で見直し、本来、自分の生き方の在り方を自らで見つめ自分がどうしたいかを決めることで役割を持ち自立することが大事であると思う。

世界はこれからは、それぞれの志のある人たちが持ち場持ち場で強く優しい実践で人々を平和に導く成熟した時代に入っていくと私は思う。

だからこそ、何より子どもたちにはそういう大人の背中を見せ、自らが自分で決めて迷わずに自分の意志で決めて豊かに楽しく生きられるような心地よい社会を切り開いていくために見守る保育を広げていかなければならない。

子どもたちには、そういう自分で決めた大人たちが自分で決める子どもたちを見守る環境が必要となっている。何かやりたいことがあって生まれてきているし、自分の役割を掴んで幸せに生きたいと思って産まれてくる。

そういう子どもたちに明るい未来を遺していきたい。常に調和とは、そういう個々の無限の価値の繋がりにおいてのみ見出だすことができる。

私自身、見守るということを信じ自らの内面にあるあらゆる心と向き合いまだまだ子どもにできることで正直に純粋なままの自分でお役にたっていきたいと思います。

愛着

人間は子どものころに必要とされていると感じることで愛を感じ、その愛を心に抱けば安心して生きていく力を感じることができる。

例えば、何をやっても許されたり、どうしていたとしても無条件で認められればそれを心に刻み、親というものの中に絶対的に与えてくれている存在、いわばそれが自然や神と私たちが呼ぶ偉大な存在をこの世界でも知ることができる。

そういう愛着が在る人たちが、情緒が安定し、さらに友人や兄弟、隣人からの援助や繋がりの中で自分を役立てていこうとする。そのために、自分のことを誰のために活かしていくか、どれだけ心で決めて他と共生していくかなどを思い自立して社会を形成していくものだと私は思う。

しかし、今の時代、いや、いつの時代も、差別という人間を平等に扱うことをせず、様々な制度や肩書きなどで人に上下をつけることをし、または全ての存在の価値をあるがままに認めることをせず、その価値を見た目や便利だからと安易に結果で評価すればそれは相手を尊重しないことになり、人はそこで自分が不必要であるのではないかと孤独を感じる。

人間は誰しも、いや全ての生命は必要だから生み出されているものであり、不必要と思えばその価値を誰かによって決められたことになる、昨今の絶滅する種も、すべての動植物も、誰かが要らないと言えばもうそこで共生は止まる。

命は繋がり、すべての価値は平等とすれば如何にお互いを尊重しあい生きていくかというのは人道の極みであると思う。

今、何よりも病気なのは身体のことだけではない。

今まで本物の医者が手をつけてきたけれど、まだ完治できない本当の病。

それは人間の間違った身分制度を正すこと。

必要不必要で命を分別するなどは、何よりも孤独と不安、そして迷いと復讐を生み出してしまう。

あなたなんて要らないと言われていると感じている人は、それは誰からも自分を認めてもらっていないと思っている人である。そういう人は、認めてもらいたいから必死になるけれど認めているという声を一向に聴きいれることはせず頑なに自分の価値観に閉じこもってひきこもる。

心の扉を閉ざしている人が、どうやって心の扉を開くのかは、それを誰かの愛を持って認めて耕していくしか仕様がない。そして、本人が自分に価値があると自ら認め必要とされているのだという安心する気持ちを持つためにもその人は同じく価値がある仲間にまたは周囲に心を開きもっと自分から繋がっていくための努力を実践していくしか仕様がないと思う。

大切なことは、その人にどんな過去がありどんなトラウマがあったにせよ、人は必ず出会いや御縁により変わることができる生き物であるのだからいつまでもふて腐り頑なになるのではなく自分で決めて勇気を持って挑戦することだと思う。

世の中が何回も自分の立っているその心の場所が変われば、観えている世界もまったく異なるものに変わるとしたら、悲観した未来は本当は素晴らしい世界に変わると思うとワクワクするのではないか、易経に、陰極まれば陽になるとあるように、すでに新しい扉が開いていることに目を向けて欲しいと思う。

自分がどうしたいのかを決める権利は、それは誰にも束縛されない場所に自分が持っている。

子どもたちには、無条件で価値を認め、愛する実践、見守るを持ち、それを日々の生活の中で磨き繋がり合い差別のない平和な社会の実現を目指していくために環境を私が遺していきたい。

両変具有

常に繋がり続ける世界では、地球の進化とともにそこに居る全ての生命も同じく進化により順応していくのだと思う。そして私の選択したITという情報技術という付加価値の中でも、進化は目まぐるしく起こり常に新しいものが古きを払拭していく日々は続いていく。

今、脚下師の生き方に感動し古典を学び王道を還るということをしつつもそれは決して私的な潔癖や単なる徳義ばかりを重んじているのではない。師も常に新しいものに感応するために様々な努力を怠ることはない。私はそういう意味では、好き勝手にしているけれど好奇心旺盛なので目が言ってしまうことが多いけれどもっと大切にしていかなければと厳しく思う。

もちろん人は何かの大事を思えば変わらないものに魂を傾けていくことはもっとも自分を大事に自分にしかできないことを行うために不可欠だけれど、そのためには時と共に変わるものにたいしてどのように自らを進化させ柔軟に新しいものを吸収するかはその人の志の如何による。

変われる人は志を持ち、昔から変われない人は志を見失っているものが多い。

そして特にこの島国は狭い領土の中で、狭い自分の世界に閉じこもり、広大な世界に目を向けず、常に自分たちの小さな村の中の掟ばかりを優先すればいいという偏った恵まれた風土がある。もともと小さな島国は動植物も、均衡が保たれ、比較的安全な中で生活できるようにできている。

以前、奄美のクロウサギの話でハブと共生していたりした話を聴いたことがあるけれど今はそのハブを倒すために輸入された外来種マングースによって絶滅寸前になっている。マングースにとっては危険なハブと共倒れするよりは安全で捕食できるクロウサギを食べた方が理に適っているということだ。

今、この国は外国の文化に晒され、様々な人たちによりマングースのような外来種が島国に入ってきている。それまで大切にしていたものや、循環し共生していたものが絶滅の危機にさらされていても一向に対策を打とうとしない。

そして、それを何とかしようとするのが民族の持つ精神性を引き継いだ宗教者であったり、聖職者と言われる教育者だったりと、社会そのものや地域そのものに影響を与える人たちの存在だと思う。

しかし、その方々も、私的に潔癖ばかりで現実を受け容れようともせず、もしくは偏った徳義を振り回し討ち死にでもしようとするのは無責任ではないかと私は思う。

本来、そういう真理に寄り添い、現実を受け容れる人物たる人間は、世界の新しいものに対して自分の信念でそれを身に修め、その修めた新しい技術によって古き善き普遍的なものを守るために調和を取るものではないか。

それが年だからや、自分には関係ないからと殻に閉じこもるというのは世界の流れや進化を避ける行為であり決して世人をリードする立場の取る行動ではないと思う。

私がITやコンサルタントにこだわるのは、そういう新しいものを常に吸収しこの日本が世界にとって揺るぎない最先端の技術を持ち、そしてその技術がこの日本の持つ徳義、神道のかんながらを実現させることによる。

もともと全ての生命は同じく等しい存在であり、本を辿れば全ての命は同じ処から来ているという差別なき平で尊重される存在であることは明白なもの。

それが今のように自らの利権や保身が優先され、命が軽んじられ差別なき世界が遠ざかれば次第に刷り込みが偏りになり大いなる失敗を招くことになる。

人類の歴史は、失敗に学びそれを活かしてきたから今があるのだと思う。

今までの教訓をどう活かし、子子孫孫がそれを守るかでこの先の未来の平和と調和が維持されていくのは万物の理であり、それが本来の自然の姿でもある。

今は急速な進化の中で正しいことを行える人物が世界に求められている。

私の周辺から鑑みれば、これからの子どもたちはきっと、多様な価値観を受容でき全てをあるがままに信じることができ、自ら生命を他と同じく等しく存在し尊重することができ、世界の中での自分の役割を自覚し自らが社会の一員として志を持って豊かに生きていくことができる人物が求められている気がする。

だからこそ、変わるものと変わらないものを正しく持てる、両性具有の美のような両変具有の理、つまりはあるがままの万物と一円融合した自然体の存在を皆皆で持てるような見守る社会を築く必要があるのではないか。

大切なことは、志を持ち、自分の才能や能力を存分に社会のお役に立てること。

私も、まだまだ努力精進が足りず新しい進歩に関する時間を割くことが日々の些事に囚われできないでいる、誰でもできることは誰かがやればいいのであれば、自分にしかできないことは自分がやらなければ誰もやりはしない。

自分をどのように制限するかというのは、その変不変の間にこそ見いだせる極内にある。だとして、子どものために本当になることを見つめ常に自分自身に尋ねていきたい。

子どもたちには、私たちがどのような失敗をしそれを教訓にするのかを善く見てもらい、もう二度と心が貧しくならないような世界をそれぞれで大切にすることをこの厳しい現状への志の貫徹を持って伝えていきたい。

寧静致遠

自分と言うものを大事にするというのは、自分の持って生まれたあるがままの性に従い天命を全うすることにある。

しかし人は、この雑多な喧騒に鳴りやまない世界に於いて自分の道を定め命を運ぶと言うのはとても難しい。欲に塗れてしまえば、本懐を忘れ、事に乗じては初心を失くす、これではとても真実の人生を遂げることはできない。

光陰矢のごとく過ぎ去り、そして好機は二度ないからこそ一期一会。

その縁を本当に活かす人生を歩むのならば、人生に戒律を持たねばならない。
私が幼少期から尊敬する人物に諸葛亮孔明がある。

私は名が近いこともあり、昔から自分探しの度に紐解くことをしていた人物の一人になる。その諸葛亮孔明が子孫へ言い遺し伝承した「誡子書」に下記が在る。

「それ君子の行ひは、静以て身を修め、倹以て徳を養ふ。淡泊にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。滔慢なれば則ち精を励ます能はず、険躁なれば則ち性を治むること能はず。年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、遂に枯落を成し、多く世に接せず。窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。」

私の解釈だけれど、「立派な人は静かに慎み身を修め、質素倹約にしてその徳を養っていくのがいい。寡欲でなければ志が明確にはならず、穏やかで静でなければ遠大な理想に至ることはない。学ぶということはすべて自ら静謐であることから、そして才能を活かすのも同じくそうやって学ぶもの。このように学ばなければ才能を広く世界へ活かす機会も得られないし、もしも志がなければ本当の学問は決してすることはできない。怠慢になれば精励し継続することもできず、険しくざわつき焦っていたら自らを正しく修めることもできはしない。年月の過ぎ去るのは駆けるようにあまりにも疾く、ついにはその大切な機会も失われてしまい何もしないうちに気力も枯れてしまう。そうしているうちについには年老いてしまい、世の中に接する機会もほとんどなくなってしまう。そうなると、色々と貧窮や困窮の中で悲しみに暮れるようになってしまう。決してこのようににならないため、どうすればよいかよく考えて励むべきです。」とした。

これは、橋本左内など維新の時の志士たちが立志し学問を実践する際に自らを奮い立たせるために書き記したものに似ている。

人は最初に初志を立てることにあり、そのことで無欲になる。

そしてその初志を貫徹するまでのプロセスに、揺るぎない自らを見出だし、その静かで穏やかな日々の中で様々な天を感じることができる。

融通無碍に円満静謐に、悠久の流れに身を置くことができるのだと思う。

常に立志立命というものは、学を志すにある。

そして静かで穏やかであるからこそ、偉大な流れが感じられ其処に在る自らの真の命に触れることができるのだと私は思う。

子どもたちにも、そういう静かであることや穏やかであることはその志の本からあるものとし、その動の中にある静かに安寧があり、その静かの中にある動に安心があることを自らの実践を通じて体現していきたいと思う。いつまでもつまらない誰でもできるような些事に身を任せては臥竜も天に昇ることもない。本来の志に帰り、志に根差して創意工夫と克己修練に研磨して一期一会に感応し続けること。

本当の静かであるというのは、どのような事態においても動でもなく静でもなく、常に「穏やかで安らか」ということがもっとも人生に於の道で偉大なところまでいけるのだとし、まず私は日々平常心を育むような生き方を目指していきたい。

前に進む

昨日、GTのリーダー研修が開催された。

毎年開催していく中で、年々、はっきりとしてくるものがある。

私たちは大切なもののためにまず自分から勇猛心を持ち変化を恐れずに自分を変えていこうとするから様々なものを守ることができる。

日々や時は過ぎ去っていき、そして環境は次第に変わってくる。

その中でうすうす気づいているのにやろうともせず、そして常に本質であることを怠り、自分の内外の変化に気付かず、その変化自体を恐れるようになればマンネリ化する。

もしもその中で本当に大切だったものも日々の業務に跳び付いているうちに忘れてしまえば、本当は一体何のためにやっているのかすらも分からなくなってしまう。つまりは初心を忘れる。

そうなった状態で盲目に間違った努力を正当化しいつまでもだらだらとやっていたら、後退することがあっても前進することは決してない。私たちは自分一人で成り立っていないのだから、大いなる流れに沿わないでそういうものの中で様々な事件を受け容れ人間を磨き立てていこうとしないのならば道から外れることになる。

変化があるのは、天と地と人のように繋がっている偉大なものがあると感じるからこそ私たちは本来の調和という正しい努力を知ることができると私は思う。

昨日の藤森代表の講演で発心するものがあった。

「皆さんが言うことは分かります。しかしそれぞれの価値観が異なる中で色々な話をしていても、それはどうしようもないし何も言うことはありません。しかし、環境問題と同じように子どもにとって善くない兆候がたくさんでてきているのにこのままでいいはずがない。だからこそ私たちが議論するのはどう変えるのかについてだけでいいのです。」

とあった。変わるものと変わらないものはいつの時代も問いかけてくる。その中で真実は、普遍的な正しいと言われるものを受け継ぐからこそそうであるために私たちはその時代時代に通訳や翻訳をしつつ、それを守るために自分を変えていくのだろうと思う。かつての仏陀や孔子の教えであれ、今を生きる人が正しく解釈を実践と道と教えで子子孫孫へ伝えてきたから人の世がその本筋から外れない道徳に根差した精神性で調和をはかってきたのだとも思う。

簡単に言えば、企業組織でもそうだけれど社員が話し合いばかりするのに一向に前進せず、反省と言う名ばかりの後悔ばかりして後退し続けたり、停滞するのは変わるための議論ではなく、お互いが違うから違うからという議論ばかりしているからいつまでも何も決まることがない。そんなのは疲れるだけでそのうち議論すらも嫌になってくる。

しかしそうしているうちに嫌になるだけではなく事態は好転せず次第にどんどん悪くなるのなら、いつまでだらだらとその議論をするのだろうかと私は思う。

皆が何とかしたいのならば、誇りを持って前に進むために何を具体的にどうするかを決めなければ本当に大切なものを守れるはずもない。その目的の本懐、つまりは理念の共通理解がないところで何を話してもそれはただの時間の無駄使いになってしまう。

皆と分かり合うのは、違いを認め合っていい状態でいることであり、チームとはそれぞれの持ち味を活かすことを言う。そういう普遍的な志を主軸にそれを何よりも優先していなければその仕事にその日々に誇りや遣り甲斐を感じるはずもない。

ここでの誇りとは自らの言行一致に誠を尽くし、志を持ち一歩一歩前進していく自分に周囲に高い価値とその意義を感じていることでもある。

子どものためにと働く私たちがそういう変わることを恐れていて何が子どものモデルであるのかと私はいつも思う。背中で教えていく大人が、いくら見せかけを取り繕っても子どもの純粋な眼差しは騙せはしない。自分の生き方そのものが子どもに涵育薫陶するのだからまず人は自分が将来もずっとそのままでいいのかを見つめないといけない。

時代は変わっていくし、その都度常に変化する。

大切なものがたくさん失われそうなこのような時代、何よりも私たち一人ひとりが勇気をもって前に進まなければ誰かが世界を変えてくれることはない。

昨今の環境問題のこと、生物多様性などのこと、もうずいぶん前から善くないと言われ続けているのに動こうとはしない、それでは私たちが生かされている何ものかの偉大な全てへの冒涜になりそういうものから離れて生きれるはずもない。水や空気、自然や生命、様々なものによって生かされている自分。

それを忘れているうちに善くないことがたくさん起きると分かっているのに自分はこうだからと議論するのはもうばかげている。

今はもう、強い意志を抱き、子どものためにも皆で前へ進むとき。

誰かがやらなければならないならば、まずは自分がそれをやるという一人ひとりの勇猛心での行動がこの世の中を子どもたちを見守っていけるような無為自然を取り戻す鍵になると思う。

私自身、誰かの価値観がどうかなどはもう議論にはせず、子どもを相手にする心は天に通じていると信じて天を相手に自分の真心であるかんながらの道を邁進していきたい。

日々初心

仕事をしていきながら子ども第一主義の理念を掲げ、同じ思いを共有できる理念を持つ方々と子どもたちが幸せになれる社会を共に築き上げるということは世の中の刷り込みというものを取り除きつつ刷り込まれないということでもある。

理念を本質的に実践するには何のためにやるのかを理解していることであり、それはそのために自分をどうするかということを決めている使命がある。

理念を理解し自分の使命を自覚することで本当に自分にしか出来ないことが次第に分かってくる。

しかし自分の命を何処へと定め、そこに使っていくと言うのはとても難しい。よく周りを見ても人は本当の意味で自分がやりたいことを心底やろうとしている人は少ない。現在も、様々な方々との仕事の中でも日々の喧騒に優先順位をつけられず些事に囚われ、自分の本来やろうとしたことや何のためにやるべきかをお座なりにし、世界に一人の自分を一度きりのその人生を誰のためにどう活かせばもっとも自立し豊かになるのかを考え抜き勇気を持って自らを制限することは並大抵のことではない。

好き勝手にやっても真面目すぎても趣味になる。公私混同しないという本質は、全てが公になっている中に私が収まっているということであり、それは常に自分の命を正しく使えているかどうかによる。

例えば、理念を掲げていくとはっきりと自分が本当にやりたいことが分かってくる。しかし、それが分かっていてもぶれたり流されたりするのが人間でもある、どれだけ強烈な意思を維持できるかはその覚悟による。

特に理念のオーナーである発信者をどのように制限するかは、こちら側がどれだけ相手のことを深く正しく理解し本気で寄り添い、本質的にその人にしかできないことをやってもらうということで全体の調和が生きてくるとしなければならない。

つまりはここでの理念とはその人にしかできない社会的使命であり、それを正しく存分にやるためにその人その人が自らの使命とその役割を自覚させ、それぞれの立場、その立ち位置で自分にしかできないことにこだわるということの積み上げということになる。

他を本当に活かすには、何よりも自分を活かす必要があるのだ。

それをやらないことは無責任無自覚であり、それは単に理念よりも使命よりも自分の枠内での単なるエゴの塊である価値観を優先し、偏りマジメに何かの業務ばかりをあれもこれもと増やし没頭していくと周囲の使命までを阻害していくことになる。

そしてそういう時、その本人は自分の本当の使命を自覚することもなくそして理念に対して責任を取ろうとも思っていない。そういうことを一人でもすれば、理念を掲げた組織はまったく為りたたなくなる。

本当にやりたいのかを決心させ、本当に自分が何のために此処にいるのかを自覚させることによる。

毎回そういうことをしていると、その都度周囲に迷惑がかかる。影響力が在る人であればあるほどそういうことは自分で自重し慎む必要が在る。だからこそ何よりも意識していくことは、刷り込まれないために「初心」や「原点」を決して忘れず、何のためにやるのか、そして本当に自分にしかできないことは何なのかを考え抜き行動し気付くということを繰り返し正しく実践することであると私は思う。

これを私たちの会社でいえば、子ども第一主義とは子どもを丸ごと受容し、子どもを丸ごと信じて、子どものために何ができるかを真剣に考えることでもある。

当然、それをやるために集まってきたのだからそれをやることに専念し、それ以外の仕事はそうでない人や会社に頼むのがいい。つまり自分でなくてもできるものは信用できる人に任せ、自分にしかできないものにこそ真摯に取り組むことが会社のミッションでもある。それが他を活かし全体との調和を生む。

そういうことができるように何よりも理念に徹底的にこだわり、周囲と関わり合い、そういうことがやり続けられるように刷り込まれない環境を整えていくものもまた大切な要素であると現場から感じる。

子どもたちのことを同じく思えば、子どもたちが本当にやりたいことができるようにそういう関係性と環境を築くことも見守る保育の一つであると思う。

子どもたち皆がそれぞれに自分の使命を理解し自治を行い、世の中に正しく自分を使っていけばその無二の存在価値を実感できることになる。そして幸せを感じ繋がり合う素晴らしい社会ができあがってくるのだと思う。

まずはカグヤは、その体現する会社として私自身自らを自覚するために日々初心を大事に理念に専念し、子ども達のモデルになるように努めていきたい。

何よりもそれをすることを使命と自覚し、常に自らを慎み歩んでいきたい。

自燈

昨日は鞍馬寺の道場をお借りして、オランダのアースゲーム社のアナマイケさんが保育園の保護者や職員の方々に協働遊びのワークショップをしていただいた。

この協働遊びはいつやっても日本の楽しいお祭りのように互いを刷り込まず、また互いに寛容に協力し、そして歓びあう心持になる。これは元来、我々の民族精神に脈々とある大和の心を引き出されるようでなんともいえない懐かしさと幸せを実感できる。

今回も、ご参加いただいた沢山の方々から「幸せ」「協力」「平和」「楽しい」「調和」など人が人と心を通じ合わせ喜びを感じ合うときのキーワードを聴くことができた。

「楽しい」というのは何より素晴らしいことで、子どもが持っている童心の頃の見守られた社会を思いだすことや、人と人との繋がりの温かさに触れ合うことができることはその楽しさを本質的に実感することになる。

カグヤは仕事を通じて、様々な社会問題の改修改善や伝承文化の温故知新など日々に追われ本当に向き合っている変化の壁は大きいけれど、その繋がり合う世界において人々の持つ不思議な思いやる力を観るとき、自分がこの仕事をやらせていただけることが沢山あることに何より深い感謝の念が湧きあがります。

これからもこの体験からの気づきを活かし、日本人の一人ひとりが自らの意志を持ち、自分が何ができるかを世界へ向けて訴えかけていけるような大人の見守りあう社会を目指してまだまだ社業に邁進したいと思います。

本当に、素晴らしい機会と御縁、また出会いを有難うございました。

ご協力していただいた皆様の思いは、子どもたちの未来のためにしっかりと還元していきたいと思います。

また、話が本題に戻りますが今回も有難いことに鞍馬にいらっしゃる尊敬する方のお話をお伺いすることができた。

まだまだ私自身が前回お会いした際にいただいたテーマに対してそれが満足に修身したわけではなく、以前と同じことに対して異なる方法で改めてご指摘をいただくことができました。

いつもながらご指導に深く感謝しています。

どの世も、都会文明とネオン欲煌めく人工物の中で自分を見失っていく人たちがとても多い社会になっていると感じることがあり、自分が今、どう生きるのか、自分が此処でどうあるのかという、つまり「自分自身」のことが分からない人たちばかりになっている。

昼は活動し、夜は就寝する、当たり前の光と闇のバランスが崩れ自分と言うものを基点として物事を正しく感じることができにくくなっているのだろうとも思う。

自然の中で自分を照らしつつ、自然の中に自分を埋もれさせることなど、渾然一体に自然体になることはこの目ばかり肥えた時代ではとても難しい。自然と調和する自在観を持たなければ真実は観通すことはできない。

今回は教えに「主」の語源のお話をお伺いすることができた。
主の字は、王の上に灯火が一燈ついている姿を言うのだそうだ。

これは、自らが王道を実践し、そこに灯火を立てることでこの世の自在を悟ることなのだろうと私は解釈をした。

つまりはこのように主として観ると世界は自在になる、それにはまずは自ら主人公とし目覚めることがなければ自由に自分をこの世に発揮することはできないのではないか。常に自らに対して、主は自分、主体は自分という、誰にも惑わされず、何にも囚われない自由な境地を得てこそ、本物の個であり、本質的な自立であるのではないか。

人は、自分らしく生きるには自らが「主」にならなければ得れはしないのだと思う。

天知人を命で貫き、その上に光り輝く魂の灯火、これが「主」である自分。
自分に尋ねて自分になるというのは本当に大切なことだと思う。

自分の役割が一体どのようなものなのかを知るのもそして決心するのも自分自身の灯火をどう照らし続けるかによる。そしてそういう人が多くの人たちをどのように見守るかで世界はどのようにも変わっていくのだとも私は思う。

もしも周囲の御縁ある人たちが今にも消えそうなものになっていたとしても、必ず一人ひとりの心にその灯火は存在しているのだから深夜や暁前の暗い空に観えるあの光り輝く星星のようだとこちらがいつも気付いていたい。

そのためにも自分が自在な心を持つ人でいたいと真摯に思う。

まずは日々、生まれ死に往くこの身を省み、自ら人々の心の中の一燈を照らし、その照らしたものが明るく広がっていくような実践をこれからも大切にしていきたい。

これからも皆様のような素敵な灯火の光を観ている心のままに、子どもたちの一燈一燈を見守る大らかな夜空の中の円満な月、カグヤでありたい。

感謝再拝

士魂商才

オランダのアナマイケさんが協働遊びを鞍馬にて実践するために昨日より京都入りしている。この時期の冷たい雨は、色々な気持ちを澄ませてくれるようでひんやりとしつつも心地よい朝霧の中に季節の移り変わりを感じることができる。

協働でいるということをもう少しだけ書いてみる。

もともと何かを協力するや、協働するには、丸ごと信じると言うこととあわせて、如何に全体に対して益するかというのを無私無我の立場で考えているかということも求められる。

商売という字の語源、中国の商の国の物々交換からはじまりお互いにとって善いと思えるように思いやりをもって交わりあい絆を紡ぐというところから人々のはじめた営みを観ることもできる。

日本では、商売と道徳の一致を説いた「士魂商才」の渋沢栄一がいる。これは、武士の精神性を持つ恥じない生き方を根本に、その商いするところに才気を存分に発揮して全体を益していこうとすることを言うのだと私は思う。

経営者というものは、会社を経営するためにたくさんの資源を活かし、それを全体が如何に益するようにと正しく道徳を持ち使えるかでその商才が分かる。それを単に私利私欲のために使えば、すでに自分に益することばかりになりその時がよくても永い時間を総合的に鑑がみれば損を生み出していくことにもなる。

よく「貧すれば鈍する」というのではないけれど、常に心のありように余裕を持ち正しくあるために勤労に励み、分度を定め蓄えを持ち、次世代や全体に活かし続けていくことがその身を商売の道で潔くしていくことだとも思う。

そして協働ということにここで還るけれど、皆が全体が善くなるようなビジョンを掲げ、そこに向かって力をあわせていけば自然にその働きは協力となる。

つい人は二択でものを考え、では競争か協働かではなく、真に全体が善くなることを中庸に捉えていけばそういうものを超えた人々の営みと命の共生、つまりは個々がそのままでも活き活きと幸せに生きられる世界と社会ができてくるのだろうと私は思う。

しかし、今は繋がりが途絶えてきて忙しさから余裕がなくなり、その絆が薄れて疑いや不安が生まれ続け、孤立孤独になって自分ばっかりと自分のことばかりに目を向けている人がとても多くなっている。

全体のことを思うよりも、このようになり如何に自分だけがと皆が思えば次第に協働することが難しくなってしまうのはどこでも同じなのだと思う。

物理的にモノが溢れている時代に、なくしたものはそうではない心の絆。その心に余裕を持ち、心が豊かになるにはその人と人の絆を如何に大切にしていくかという心の在り方と持ち方によるのだと思う。

私が好きな言葉の一つに、「受けたる恩は石に刻み、施した恩は水に流すべし。 」がある。

これも大切なことで、人はつい我執があるとやってあげたややってもらったということの良し悪しの感情で自分勝手に偏った見方で相手をみてしまうことがある。

しかし、よく考えてみればそうしたかったからやっているだけでそれは自分が歓びであり、させていただくのであり、また、いただいた御恩は自分が困っていたところを助けていただいたという思いやりを受けた有難い豊かで幸福な大切な記憶でもある。

こういう気持ちを忘れず常に謙虚に生きれば、自然に人は思いやりを持ち全体に対して益する人になっていくのだろうし、そこに必ず心が活き活きと繋がりと絆を正直に感じることができる人になるのだとも思う。

つまり協働とは、自分を勘定に入れずに相手や全体のために使っていくことをいうのだと思う。

そして商才も育才も、こういうものを考え抜く先にこそあるものではないか。

士魂があるから商才があるのだとすれば、いつの時代も教育や商売や政治など関係なく、仁義道徳の実践を尊重し人としての生き方を大切にして子どもたちの未来に背中を通して伝えていきたい。

自尊感情

先日から引き続き、本日もオランダから来られたアナマイケさんと一緒に協働的な遊びについて話し合い学び合う時間を楽しんでいる。

今朝は、皆で明治神宮の杜の案内や代々木公園にてピクニックなど、外で共におもてなしを楽しみながら思想を深めることができた。

いつの時代もどんな時も、世界に一人しかいない人と一度しかない人生を重ね合わせ、同じ道、同じ志で共に助け合え交流できることは本当に有難いことだと思う。

世界には、常に本流や王道というものを守り続けたいと願っている仲間たちが沢山いる。その人たちと、日々の生活や仕事の丸ごとを通じて実響していくことは何よりも幸せを実感できる素晴らしい機会になる。

歩み続ける中にも、それぞれに信念があり、そしてその信念を貫きつつ出会いという素晴らしい御縁という導きを思うとき、感謝というものの本質に触れ道徳の持つ霊妙さに感動することがある。

今回は話の中で、様々な問題意識を得ることができた。
それをいくつか紹介すると、

・違いがあることが豊かであるということ、人は違うからこそ素晴らしい。
・子どもの個性がより引き立つことはそれ自体も素晴らしい、しかしそれぞれのシーンで様々な子どもたちが役割分担をすることを知ること。
・最初の段階で決め付けたり偏見を持つことは危険なこと。
・自分の偏見を取り除けるような体験をたくさんもつことで刷り込みを日ごろから取り除くことにする、そのために遊びがある。
・もともと人間には競争や排他的な部分がある、だからこそそうではないものもあるのだと人に選択できるように活動することが自分の使命。
・人は色々な協働的な出来事を通して、役割がかわっていくことが良い。
・常に人にはポジティブな言葉がけをすることが良い。
・人の甲乙などは必要なく、その時の瞬間で人を観るのではなくそれも成長のプロセスだとしていくこと。
・人は成長発達すれば自然に自ら発見するもの、それを早く固めようとは思ってはいけない。

などなど、一つ一つのクルーからの質問に対して人を尊重することや、人間をもっと丸ごと受容すること、そして信じることなどを基盤に色々な自らの言葉で語っていただくことができた。

いつも私たちが仕事を通じて行っていることを外国の実践を通じて体験できる心地よさは何事も変えがたく、時間が経つことがあっとういう間に感じて別れが名残惜しくなりました。

最後に、自尊感情と言うものが在る。

私はこれは自分の内面から自分と言うもの顕現し、自らの本心と出会うことにより信じることこそ人が自らを立て、天命に従って幸せに生きることであると思っている。

しかし今の社会は、常に競争をさせ一番であること以外がダメなこととし、一人のリーダーがそれ以外の人たちに単に担ぎあげられている期間だけが自尊感情を持つことができるというのでは悲しいものが在る。

以前、何かのカンフー映画で弟子に担ぎあげられた孤独な師匠が驕り高ぶり勘違いをし、弟子の口車に乗り責任を果たした後、それが弟子たちの思惑と知り騙されて取り返しのつかないことをしてしまった話を見たことがある。

誰もそうやって担ぎあげたからこそ、本当のことを言えなくなり、ただ着き従わせ利用され利用価値がなくなれば捨てられる。捨てる方も捨てられる方もお互いに自尊感情が育つわけではなく、自分よりも下で見ていたいからそのような行為をし集団や組織をつくっていく。

人は自分に自信がないからこそ、あるがままの自分をさらけだすこともできなくなりそこから表面上の偏った見方を持ち自分を守るために自他を蔑むようになる。

そして自分が選ばれた人間だと思うのではなく、皆で役割があるのだと思えないからそういう周りから孤立することになるのだと思う。そして無理をすることで、大切なものを見失い、一人孤独になるのでは何のための自尊感情なのかと思ってしまう。

もしもいつも一人勝ちでは、それ以外の皆は負けたことになる、しかし、皆で協力して一緒に勝とうとすれば誰も負けた人がいないことになるのではないか。そう思うとき、協働的であると言うのは一人ひとりが役割分担をすることで様々なシーンで助け合う社会を築くことが本当の意味での自尊感情を正しく持てていることになるのではないか。

私の師の実践も、みんなを引き立たせてそれぞれに役割を持たせ、皆がそれぞれに実践することを何よりも尊ぶ、そして自分は自分のままでいい、自分は無理はしなくても皆がいるから大丈夫とし、困ったら皆で助け合おうと仲間というものを素晴らしさを伝えてくれる。

こういう安心できる柔らかで豊かな社会は、思うことからはじまる。
お互いが受容されていることで人は本当の優しさを持つことができる。

何よりも、今、私を含めた私の周辺にそういう孤独にリーダーをし無理をして苦労している人たちがとても多い。不義不満、不安や不利など、自分と言うものを通して物事をあまりにも見すぎると相対的な感覚に大切なものを見失ってしまうこともあるだろう。

しかし、そういう時こそ、この協働的な体験を通じて刷り込みを取り除き、また新たに習慣づけていくなかで無理をせず自然体で幸せを感じれるように調和・調整をじっくりと丁寧に社業で努めていきたい。

子どもたちには、あるがままだからこそ美しい、そしてそのままだからこそ素晴らしいと丸ごと受け容れ、互いを尊重し見守りあう世界をずっと遺していきたいと思います。

青天白日

昨日、オランダからアースゲームのアナマイケさんが来日されて保育園にてワークショップをしていただいた。

言葉も通じず、文化も異なるものに対して、その思想と実践を照らし、日本の子どもたちと協働的に遊ぶことを通してたくさんの気づきを発していただくことができた。

どんなに表面上のものがあったとしても、人はその内実したものがなければ真に人を感化していくことはできないと私は思う。そういう意味で、自分の人生そのもので挑戦されている方は派手ではないけれど確かに其処に考えた信念を感じることができる。

先日、ハンガリーのわらべ唄を使った保育のコダーイというものにお仕事を通じている園の取り組みを通して縁があった。わらべ唄には、民族性を伝えていくための様々な関わりを唄で表現していたのが感じられた。

日本にも伝承遊びやまた伝統の様々なわらべ唄などが遺されている。

昔、興味深く学んだ野口雨情などもその人生の本質を童心で唄いきっているからこそ、その詩に子どもたちの心に通じ合うものがあったのだろうと私は思う。こういう真の情緒性というものは言葉では表面上を解説しても分かることはない。

感じることであり、それは自らを尋ねて本心に出逢うようなものであると思う。

昨日は、一つ一つの眼差しを遊びを通して学ぶことができ、私たちのクルーもみんなで協働的に関われていることに本当に感謝できる一日になった。

「みんなで一緒に」というのは本当に素晴らしいことだと私は思う。
みんながいなければ幸せも倍増しないし、みんなで一緒でなければ力をあわせて大きなことをやり遂げた人生の充実も分かち合うこともできない。

一人では生きてはいけないのではなく、一人だと実際つまらないと思っているのが生命なのだから、無理に孤独になるのはそれは心がまだ澱み晴れ渡った素直さを発揮していないからになる。

私が好きな言葉に、程明道の青天白日が在る。

「心静かにして方に能く白日を知り、眼明らかにして始めて青天を識るを会す」

これを佐藤一斎がこうひも解く、青天白日は常に我にありと。つまり心が静かであれば、よく太陽の恩恵を知り、眼が明らかであれば、初めて真っ青に澄み切った空の広さを知ることができる。青天白日とは常に自分の中にあって外にあるのではない。自戒の言葉とすればよい、とした。(佐藤一斎一日一言より

常に自分がどのように感じているかで本物の空も、本物の海も知ることができる。本当の智慧とは、心を澄まして物事をあるがままに受け容れることでありそういう心眼を開いているからこそ天の機縁などを感じることもできる。

人は、様々な機会を通してそれを繋ぎ新しいものに出逢っていく。

素晴らしい機会があったこと、心から改めて感謝しています。