先日から引き続き、本日もオランダから来られたアナマイケさんと一緒に協働的な遊びについて話し合い学び合う時間を楽しんでいる。
今朝は、皆で明治神宮の杜の案内や代々木公園にてピクニックなど、外で共におもてなしを楽しみながら思想を深めることができた。
いつの時代もどんな時も、世界に一人しかいない人と一度しかない人生を重ね合わせ、同じ道、同じ志で共に助け合え交流できることは本当に有難いことだと思う。
世界には、常に本流や王道というものを守り続けたいと願っている仲間たちが沢山いる。その人たちと、日々の生活や仕事の丸ごとを通じて実響していくことは何よりも幸せを実感できる素晴らしい機会になる。
歩み続ける中にも、それぞれに信念があり、そしてその信念を貫きつつ出会いという素晴らしい御縁という導きを思うとき、感謝というものの本質に触れ道徳の持つ霊妙さに感動することがある。
今回は話の中で、様々な問題意識を得ることができた。
それをいくつか紹介すると、
・違いがあることが豊かであるということ、人は違うからこそ素晴らしい。
・子どもの個性がより引き立つことはそれ自体も素晴らしい、しかしそれぞれのシーンで様々な子どもたちが役割分担をすることを知ること。
・最初の段階で決め付けたり偏見を持つことは危険なこと。
・自分の偏見を取り除けるような体験をたくさんもつことで刷り込みを日ごろから取り除くことにする、そのために遊びがある。
・もともと人間には競争や排他的な部分がある、だからこそそうではないものもあるのだと人に選択できるように活動することが自分の使命。
・人は色々な協働的な出来事を通して、役割がかわっていくことが良い。
・常に人にはポジティブな言葉がけをすることが良い。
・人の甲乙などは必要なく、その時の瞬間で人を観るのではなくそれも成長のプロセスだとしていくこと。
・人は成長発達すれば自然に自ら発見するもの、それを早く固めようとは思ってはいけない。
などなど、一つ一つのクルーからの質問に対して人を尊重することや、人間をもっと丸ごと受容すること、そして信じることなどを基盤に色々な自らの言葉で語っていただくことができた。
いつも私たちが仕事を通じて行っていることを外国の実践を通じて体験できる心地よさは何事も変えがたく、時間が経つことがあっとういう間に感じて別れが名残惜しくなりました。
最後に、自尊感情と言うものが在る。
私はこれは自分の内面から自分と言うもの顕現し、自らの本心と出会うことにより信じることこそ人が自らを立て、天命に従って幸せに生きることであると思っている。
しかし今の社会は、常に競争をさせ一番であること以外がダメなこととし、一人のリーダーがそれ以外の人たちに単に担ぎあげられている期間だけが自尊感情を持つことができるというのでは悲しいものが在る。
以前、何かのカンフー映画で弟子に担ぎあげられた孤独な師匠が驕り高ぶり勘違いをし、弟子の口車に乗り責任を果たした後、それが弟子たちの思惑と知り騙されて取り返しのつかないことをしてしまった話を見たことがある。
誰もそうやって担ぎあげたからこそ、本当のことを言えなくなり、ただ着き従わせ利用され利用価値がなくなれば捨てられる。捨てる方も捨てられる方もお互いに自尊感情が育つわけではなく、自分よりも下で見ていたいからそのような行為をし集団や組織をつくっていく。
人は自分に自信がないからこそ、あるがままの自分をさらけだすこともできなくなりそこから表面上の偏った見方を持ち自分を守るために自他を蔑むようになる。
そして自分が選ばれた人間だと思うのではなく、皆で役割があるのだと思えないからそういう周りから孤立することになるのだと思う。そして無理をすることで、大切なものを見失い、一人孤独になるのでは何のための自尊感情なのかと思ってしまう。
もしもいつも一人勝ちでは、それ以外の皆は負けたことになる、しかし、皆で協力して一緒に勝とうとすれば誰も負けた人がいないことになるのではないか。そう思うとき、協働的であると言うのは一人ひとりが役割分担をすることで様々なシーンで助け合う社会を築くことが本当の意味での自尊感情を正しく持てていることになるのではないか。
私の師の実践も、みんなを引き立たせてそれぞれに役割を持たせ、皆がそれぞれに実践することを何よりも尊ぶ、そして自分は自分のままでいい、自分は無理はしなくても皆がいるから大丈夫とし、困ったら皆で助け合おうと仲間というものを素晴らしさを伝えてくれる。
こういう安心できる柔らかで豊かな社会は、思うことからはじまる。
お互いが受容されていることで人は本当の優しさを持つことができる。
何よりも、今、私を含めた私の周辺にそういう孤独にリーダーをし無理をして苦労している人たちがとても多い。不義不満、不安や不利など、自分と言うものを通して物事をあまりにも見すぎると相対的な感覚に大切なものを見失ってしまうこともあるだろう。
しかし、そういう時こそ、この協働的な体験を通じて刷り込みを取り除き、また新たに習慣づけていくなかで無理をせず自然体で幸せを感じれるように調和・調整をじっくりと丁寧に社業で努めていきたい。
子どもたちには、あるがままだからこそ美しい、そしてそのままだからこそ素晴らしいと丸ごと受け容れ、互いを尊重し見守りあう世界をずっと遺していきたいと思います。