自燈

昨日は鞍馬寺の道場をお借りして、オランダのアースゲーム社のアナマイケさんが保育園の保護者や職員の方々に協働遊びのワークショップをしていただいた。

この協働遊びはいつやっても日本の楽しいお祭りのように互いを刷り込まず、また互いに寛容に協力し、そして歓びあう心持になる。これは元来、我々の民族精神に脈々とある大和の心を引き出されるようでなんともいえない懐かしさと幸せを実感できる。

今回も、ご参加いただいた沢山の方々から「幸せ」「協力」「平和」「楽しい」「調和」など人が人と心を通じ合わせ喜びを感じ合うときのキーワードを聴くことができた。

「楽しい」というのは何より素晴らしいことで、子どもが持っている童心の頃の見守られた社会を思いだすことや、人と人との繋がりの温かさに触れ合うことができることはその楽しさを本質的に実感することになる。

カグヤは仕事を通じて、様々な社会問題の改修改善や伝承文化の温故知新など日々に追われ本当に向き合っている変化の壁は大きいけれど、その繋がり合う世界において人々の持つ不思議な思いやる力を観るとき、自分がこの仕事をやらせていただけることが沢山あることに何より深い感謝の念が湧きあがります。

これからもこの体験からの気づきを活かし、日本人の一人ひとりが自らの意志を持ち、自分が何ができるかを世界へ向けて訴えかけていけるような大人の見守りあう社会を目指してまだまだ社業に邁進したいと思います。

本当に、素晴らしい機会と御縁、また出会いを有難うございました。

ご協力していただいた皆様の思いは、子どもたちの未来のためにしっかりと還元していきたいと思います。

また、話が本題に戻りますが今回も有難いことに鞍馬にいらっしゃる尊敬する方のお話をお伺いすることができた。

まだまだ私自身が前回お会いした際にいただいたテーマに対してそれが満足に修身したわけではなく、以前と同じことに対して異なる方法で改めてご指摘をいただくことができました。

いつもながらご指導に深く感謝しています。

どの世も、都会文明とネオン欲煌めく人工物の中で自分を見失っていく人たちがとても多い社会になっていると感じることがあり、自分が今、どう生きるのか、自分が此処でどうあるのかという、つまり「自分自身」のことが分からない人たちばかりになっている。

昼は活動し、夜は就寝する、当たり前の光と闇のバランスが崩れ自分と言うものを基点として物事を正しく感じることができにくくなっているのだろうとも思う。

自然の中で自分を照らしつつ、自然の中に自分を埋もれさせることなど、渾然一体に自然体になることはこの目ばかり肥えた時代ではとても難しい。自然と調和する自在観を持たなければ真実は観通すことはできない。

今回は教えに「主」の語源のお話をお伺いすることができた。
主の字は、王の上に灯火が一燈ついている姿を言うのだそうだ。

これは、自らが王道を実践し、そこに灯火を立てることでこの世の自在を悟ることなのだろうと私は解釈をした。

つまりはこのように主として観ると世界は自在になる、それにはまずは自ら主人公とし目覚めることがなければ自由に自分をこの世に発揮することはできないのではないか。常に自らに対して、主は自分、主体は自分という、誰にも惑わされず、何にも囚われない自由な境地を得てこそ、本物の個であり、本質的な自立であるのではないか。

人は、自分らしく生きるには自らが「主」にならなければ得れはしないのだと思う。

天知人を命で貫き、その上に光り輝く魂の灯火、これが「主」である自分。
自分に尋ねて自分になるというのは本当に大切なことだと思う。

自分の役割が一体どのようなものなのかを知るのもそして決心するのも自分自身の灯火をどう照らし続けるかによる。そしてそういう人が多くの人たちをどのように見守るかで世界はどのようにも変わっていくのだとも私は思う。

もしも周囲の御縁ある人たちが今にも消えそうなものになっていたとしても、必ず一人ひとりの心にその灯火は存在しているのだから深夜や暁前の暗い空に観えるあの光り輝く星星のようだとこちらがいつも気付いていたい。

そのためにも自分が自在な心を持つ人でいたいと真摯に思う。

まずは日々、生まれ死に往くこの身を省み、自ら人々の心の中の一燈を照らし、その照らしたものが明るく広がっていくような実践をこれからも大切にしていきたい。

これからも皆様のような素敵な灯火の光を観ている心のままに、子どもたちの一燈一燈を見守る大らかな夜空の中の円満な月、カグヤでありたい。

感謝再拝