病気

今、風邪をひいていて長引いているのでせっかくの機会なので周囲の方々のこともあるのでこの病気ということの本質を考えてみることにする。

病気とは気が病むと書いて病気と書く。

もともとこの気というものは、流れているものであるし陰陽無双原理ではないけれどそもそもこの自然界は全てに水に然り、風に然り、気温に然り、万物全てが調和の中で躍動し流れて止まらないという性質を持っている。

その気が何かによって滞ることにより、そこに沈殿したり累積したものが溜まってしまいそれが凝り固まってくるからそれをまた元通りに流そうとして病気になるのだとも思う。

どこかに無理をしているものを治そうするために病気は起こる。
そしてそのプロセスを経ているうちに調和を探していこうとする。

私の場合などは、気が前に出過ぎていて無理をするので余計に長引いてしまうのだろう。色々な意味の中で、どうやったら無理のない休みが取れるのかと言うのは私の場合は責任感と真面目さ、潔癖さもあるので本当に難しい。

ともかく病気は現代人とこの不調和に偏る世界に於いて自然現象であるからして、これを自然治癒するとは陰陽の大極にてバランスを取っていくことを言う。

そうやって心も体もそして気の流れも時代時代にあわせて、どのように自分を運ぶのか合わせるのかがその時々の自らの在りようであり生き方なのだと思う。

科学的には日々の生活の中で私たちは自律神経により統合され、その中でも大きく二つの司令塔である交感神経や副交感神経というものがあると言われている。

まず交感神経は、昼の神経と呼ばれ起きているときやハードに働いている際にに頭で全体を管理し自らを周囲に順応させていこうとする理性の力、そして副交感神経は夜の神経と呼ばれ寝ている時やリラックスする際にも全体を管理し自ずから周囲に順応させていこうとする本能の力とでもいうのだろうか。

人はその理性と本能の境目にあわせながら周囲の変化に対して自らの身体やその心を調整することで、自分と言うものを環境に順応させていくのだと思う。つまりは環境や周囲の中で生きていて生かされるから自律する必要がある。

これが自律していないとなっていると、チームワークでもそうだけれど無茶苦茶になりバランスも取れず病巣に悪玉菌やウィルスなどが溜まっていき、身体では癌などになってしまう。体内も体外での出来事も本質的には同じで、病気にもならないような人というのはどこかバランスが壊れていて危険な状況になりやすいというのはそういうことも言える。

そしてこれは個々だけの問題だけではなく例えば世の中も閉塞感の時代は、「楽しむや遊ぼう」などの言葉が主流になり、逆に世の中が開放的になると「真剣にや本気で」などという言葉も出てくる。

これは世間の風潮に心を順応させていこうとするバランスを保とうとする一つのニーズを捉えている方法だとも思う。しかしそれも時代時代に於いて、気の流れによって全体と調和するためにそれは変わっていくのものだ。

しかし本質や大極を観れば、いつの時代もそれと調和するには偏らず柔らか素直に受け容れるということだと思う。素直にいるということは大切なことだというのはここでもいえる。

すべての出来事を受容するというのは、本当に難しいバランスの布置点であり純粋であることが必要になる。天真一体でいるとはその点より新しい世界へ転換していくことをその都度行っているということであり心と頭との転換があり、心が頭になり、頭が心になるという、中庸の流れと一体となった場所に自分をそのまま据え置きゆらゆらとしていることが必要になる。

そういうゆらゆらするには、竹のように根はしっかりとはりつつ、風に吹かれても元通りというような、しなやかな生き方が必要なのだとも思う。

カグヤでは竹をモチーフに、ロゴマークを展開しているけれどこのようなしなやかさとタフさ、そのバランスの素晴らしさに感動したものからでもある。

この辺で今回はまとめるけれど、病気の時こそよく自分のことが客観視することができる。無理をすることも無理をしないこともなく、健やかにしなやかに流されるけれど流されずいつも元通りというバランスを保つような心と体のことを覚えていきたい。

大切な子どもたちを見守るれるように、私はこれからも強くて優しい竹のような生き方をしていきたい。

見守るほいくプラスの意義

世界に一人の自分を活かすというのは今の時代は本当に難しい。

幼少期から周囲の大人をはじめ「うまく生きる」ことと「らしく生きる」ことを混同され刷り込まれてくると今、生きているあり方は自分がどちらなのかと困惑してしまうこともある。

上手く生きるというのは、世間では常識というものに縛られ、その範疇で周りとやり繰りしながら適当にあわせて自分と言うものを存在させていくことであると思い、らしく生きるというのは、世間では如何に非常識だと言われても自分を貫き、自分のモノサシで周りを理解させながら自分を言うものを存在させていくこともあると私は思う。

自分が当たり前と思っていても世間からは当たり前ではないと思われることはたくさんある。しかし、その世間の当たり前に自分をあわせて自分を殺したり自分を偽ることを覚えたら、自分が本当にやりたいことをやらないという選択肢をしてしまうこともある。

世界では同じ場所で同じことを同じようにやる人をもともと求めてはいない。大量生産大量消費というグローバリゼーションの征服戦略の線上のひかれたレールが一斉画一であり、そもそも人間をはじめ全ての生命はみんな違うからこそ、お互いを尊重し合い、そしてお互いを活かし合うようにできているのだと私は思う。

生物多様性なども最近、ニュースになっているけれど、もともと本来、多種多様であることは信じあい生きていく地球の仲間として誇りを持ち生きている証であるのだと思う。

今は世間の常識では、私のような偏っているという人は変人のように思われたりする、しかし本人は普通だと思っているけれどそのせいで色々なところで誤解され生き難くなっていく。

しかし時代をよく省みると、どの時代も自分らしく生きていくという本来のあるべきようという道に根差して志し、生きた先人たちはたくさんいてその偉業は今でも色あせない。

自分らしく生きていけば、自分が必ず世界や人々のお役に立てる場所があると謙虚のままに自分を立てていく精進を怠らないことが大切なことだと今でも思える。

私は社業に、「見守るほいくプラス」という気になる子という世間では障害と言われている人たちが気にならなくなるソフトを開発し、それを広げている。

何が気になるのかは、その子ではなく世間の常識に目を向けるべきだとし、自分にしかできないことをもともと持っている子どもを見守ろうとする変革の一手でもある。

私もそういう意味では、かなりの障害を持った変人なのかもしれない。しかし大切なことは常に誰からの評価を気にすることではなく、「自分らしく」生きていくことだと思う。同情されたり憐れまれることがあったとしても、それにいちいち抗ったり、そのせいで自分を蔑んだりする必要はない。

もっとも大切なことは、そういうものにいちいち勝たなくてもいい、決して最期まで負けなければいいことであると思う。

上手く生きて一生に一度しかないこの人生を棒にふるより、自分らしく生きて人生が二度とないことを知り、何より一期一会に生きていく方がきっと幸せで豊かなものになると思う。

子どもたちには、あまり世間での常識に縛られるよりも自分たちが縛られない実践、つまり自分らしく生きていくことで証明していきたい。

本当に人間を尊重するとは、自分が自分を尊重するところからはじまることを伝えていきたい。社業をより一つにまとめ、何をやっているのかを明確にしていこうと思う。

大切な思いのために

一昔前まではたくさんの園を訪問し、たくさんの園長にお会いし一体何がしたいのか、何が手伝えるのかということばかりを考えている時期があった。

それはそれで何かしらの課題があり、それを解決するためにおカネや人材を使ってそれぞれに悩みながら生活をしているのはよく分かった。しかし辿りつくと変化したくないから悩んでいるということが大半だった。

最初は知らなかったことがたくさんあった、そして誤魔化されていた事実もたくさんあった、理想と建前というものも分からず鵜呑みに言われたところから考えてしまっていつまでも納得できない成果に悩むこともあった。しかしそれもやはり変化というものを受け容れられずそれを今までのやり方の延長でなんとかできないかという相談がほとんどだった。

何でもそうだけれど、当たり前に以前あったものがいつまでも変わらずにそのまま存在するはずがない。生きていれば変化するのが世の中の常なのだから、その変化のために私たちは日々を努力精進して自分を修め、自分を易えていくことを続けていかなければいけないのだと思う。

業界別に分かりやすく今の時代の様相を例えてみる。

例えば、今は医者でも昔ほど暗黙の了解で権威があり信頼されているわけではない。面白くないかもしれないけれど、セカンドオピニオンを立ててもらい患者に選択してもらいながら信頼関係を築くのも今の時代の在り方だと思う。

それをいつまでたっても昔あったはずの権威にしがみ付き、それを感情的にいけないことだと一方的に否定したって、新しい時代の流れに対して外側を強引に力技で周囲を押さえ込もうとしてもそんなことくらいで変化の波に勝てるはずがない。

政治家だってそうだろう、昔は自分たちは国民に選ばれたと思っているのだろうけれど昔以上に国民の真の声を真摯に聴き、丁寧に説明責任を果たしていかなければ時代に着いてきているとはいわない。昨今の事件を見ても、逆行することばかりをやってさらに反感を買ってしまっている。昔の権威で強引にやろうとしているから説明責任を果たすこともなく支持率も下がっていく、これも単に変化できなかったということだ。

そして教育者ではどうか、教育者だって多くの人に昔ほど尊敬されている職業ではない。今はもっと授業を面白くしたり、子どもたちの立場で工夫を凝らし、楽しいものにしていったり、保護者と一緒に豊かな遊び心で学び合いをしたりとやっていく時代なのに、いつまでも自分は教師なのだからとそこで胡坐をかいて権威にしがみつけば変化できず周囲の反感をかってしまうこともある。

会社や施設の経営者であっても、今の時代はどうやったら社員や職員が満足して納得の上で働いてもらえるかを大事にし、環境を工夫し整え、自発性を重んじて楽しく豊かに働けるようにしていかなければ変化に対応しているとはいわない。昔のように社長だからと役員だからと肩書きにしがみ付き偉そうにしていたらそのうち時代に取り残されて変化できず会社も施設もまるごど衰退してしまうものだ。それは自分が変化していないからだということだ。

しかし、これだけ時代とあっていないと思うのになぜか人はその変化をいつまでも怖がり、変化しようとはしていかない、これはなぜなのかを考えてみる。

見ているとそのほとんどが今までせっかく大変な思いをしてここまできたのに、それを今さらリセットして手放したくないという執着や欲望があるからだとも思う。そもそも何のためにやるのか、何のために働くのかと感じてもそれをやろうとする理想と、実際はこのままでいたいという願望に打ち克つ意志が足りず建前ばかりを並べては議論をし、落とし所は「変わった風に見せようではないか」というところで着地点を探そうとする心があるからだと思う。

それは誰にでもある、自分にもある。このままでいてほしい、ずっとこのままで続いてくれればいいと思っているものだと思う。今までのままで・・と。

しかし、無常にも時は流れ変わらないものというものはない。それは、世界が生きているからであり生きとし生けるものすべては必ず循環していくものだからだ。

始めも終わりもないこの世界に突然やってきて、戸惑うけれど道はいつまでも続いていくものだ。道に安心と立命を求めるのも、そういうところからきているからだ、正しい変化をしようとするなら必ず「道を志す」必要があるのだと私は思う。

今、この保育や教育業界もはじめすべての業界で変化の波が来ているのはよくわかる。もう昔のままではないということは誰もが気付いている事実でもある。しかし実際は、気付いているけれど何とか以前のものを手放さず変えようとするからいつまでも今までのものを捨てて新しいものを得ようとはしない。

いつも有識者会議などでの経過と結果を観察していて感じるけれど、ちょっとツールを変えただけややり方を少しだけ変更しただけに留まり、何か抜本的に根本にあわせて変えたわけではない。そういうのを変化ではなく、帳尻合わせといい、新しくしたのではなく、補填しただけということになぜ気付かないのだろうか。

ではそのツケを先延ばした先に何が在るのだろうか、それは自分では変われませんでしたと公言し、新しく生まれてくるものや子ども達に先送りしてやってもらろうとするだけではないか。そして変な話はまだ続き、先送りしたくせに自分が年老いて過去を否定されたくないから若い人たちの邪魔をするとはどういうことだろうか。

人は知識や経験を得ているから偉いのではなく、変化に順応できているから立派であるというのにそれができずに凝り固まってしまっては仲間を集め新しい力を押さえこもうとすることで派閥はできても、それで本心は本当に子どもたちのことを愛しているのだろうかと思ってしまう。

どの時代も本物とは変化できる存在であり、変化こそ本物であるために必要なものだ。本物とは、利他の心で自分を捨ててでもと思いやりと勇気を持って挑戦する人たちでなければできはしない。

日々、大切な変化を優先せずに怠ればもともと何よりも一番大切だったものが塵や埃などによって埋まっていきどこにいったのかすら分からなくなっていく。

最初はそうでなかったものが時間が経つことにより見た眼の形は変わっていくものだ。だからこそ見た眼ではなく、変化を捉えて自分を変化させることが本当に変わるということに共通理解を持たなければならない。

だからこそ、いつの時代も大切な思いのためにいつも自分の全てを丸ごと新しい変化のために使っていこうとすることなのだと思う。私もまだまだできてはないからこそ、大変な方のお気持ちは本当によく分かります。

しかし、真心と子どもたちを愛する心を持って、今やらねばならないこと、つまり変化というものを勇気を持って伝えていけるように自分をあわせていきたい。変化するということは、何よりも大切なもののそばに寄り添い自分が初心や原点でいるということであるとすれば何よりも優先するのはその大切で純粋な思いそのもの。

どの時代も維新が必要であるのだと実感し、子どものために勇気を出して取り組んでいきたい。

皆のものなのだから、皆で大切にしていければ善いなと切に思います。

保育の本質

保育の本質は、「見守る」ということ。

そろそろその定義について私なりに到達しているところまで書いてみようと思います。

私が最初にこの言葉に出会ったとき、師に私は「まるでお地蔵さんのようだ」という感動を伝えたことを覚えています。

それは常日頃から自分たちのことをそっと見守り続けている存在の代表として私はそこに感謝の念を忘れたことがないために感じたのです。今でも月に一度は必ず参拝をしその真心を感じない日はありません。

この命を天地一体の中で自ずからこの性を立てつ、正しく生きていくということは絶対的にあるがままという存在価値そのもので全て丸ごと信じることが必要となる。なぜなら、自分は生かされているからである。

つまりその生かされているからこその命を保育するとは、天地自然の無限の恩恵を受けながら自ら育とうとする不思議で神秘的な命の輝きをその同じ心を持って見守ることである。

慈雲尊者という先師にこうある。

『天地長育して殺さず、萬物あたへてうばはず、陰陽その功あり、月白く風清し、文華の徳を害するを知る、山たかく海ふかし、憎愛の性に戻るをしる、足ることを知る者は常に富み、いからざる者は壽也。』

理解しやすいように意訳するけれど、「天地自然はすべてを育み伸ばそうとして決して殺そうとはしない、そして万物すべてに与えてはそれを奪おうともしない、陰陽にもそこに無限の恩恵がある、月が白いことも風が清いこともそれである。山も壮大で海も深大である、人間の心に戻ってみると、足ることを知っている人はいつまでも富み、怒ることのない人は穏やかに長く生きることができる。」

『善悪報あり、神祇霊あり、日月下土を照臨してみづから其の功にほこらず、山川衆生を保育して亦みづから有せず、経に曰く、今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子』

「善悪に報いがあるように、天地の神は霊妙である、太陽も月も大地を照らすけれどその自らの恩恵を誇ることもなく、分け隔てなくすべての命、大自然を保育してそれを自分のものにしようともしない。これは真理の教えにもこうあるようなものだ。今このすべての世界は自分の中に在り、その中にある全てのものは皆我が子どもである。」

特に大事なのは、「山川衆生を保育して亦みづから有せず」の一文。

保育とは決して見返りを求めるものではないということ。

そして私の師匠の言霊である「見守る」という真髄に、「天が与え続けるように自らが与え続ける」と仰られたことがある。

これは本業のギビングツリーという会も同じくして、「保育」をするということの本質を其処に記しているように思う。

つまりは我が子を愛して見返りを求めない天地自然と一体になった父母の恩をそのままに、全ての物事を自らの心に観照しつつその慈愛心に丸ごと包み込みすべての命を我が子どもと思う実践をすることをいう。

この「見守る」ということは仏教でいう如来を示し、神道でいう天照を示し、儒教でいう父母を意味すると同じくし、保育するということの本質は、我々こそがすべて子どものままなのだということを意味する。

言語化されたオトナやコドモではなく、大極すると私たちは永遠に子どもなのだということだ。

人間は決して驕ってはいけないし偉そうになってはいけない、その反省を促す人間の叡智がこの保育という道には存在する。

私は「保育」という言葉を決してなくしてはいけないと思っている。天が導く命の胎動としての子どもたちとしての自分たちを霊妙期と言われる満10歳までに体験せずして如何に安心立命することができようか。

教育とはその後のものであり、教えによって導くのはその先に人間として人間が勝手に創った理性的な社会、この人間界の倫理道徳がどうあるべきかを先人の往きざまにより涵育薫陶し養うことが「教育」ではないのか。

私は師に出会いこの人生で命を懸けて「保育」にこだわる理由は其処にある。

天地自然の真心に対し、人として至誠を尽くす。その至誠が必ず天に通じる。この天と人、つまり天人はそもそも一つのものだろうことだろうと私は思う。

これがこの世界の本質であり、そこに一本の道があり、何より今の心がある。
楽しみながら生きていくことができるのもきっとこの保育によるものである。

私は社業を通じて、仲間を増やし、今しかできないことをやるためにも、常に保育の本質とは何か?をこの業界からすべての人々へ説いていきたい。

今は有難いことにまだまだ気付ける自然と寄り添う人たちが沢山いる。
自然の神秘に語りかけつつかんながらの道を子どもたちと表現していきたい。

その運命を協働する人たちと共に、実践を通じて真実を示していきたい。

感謝

誇り

仕事をしていく中で様々な人たちと働くことがある。

強烈なリーダーシップに魅せられてついてくる人たち、または自分でリーダーと決めてついていく人たち、人は様々な自分の在り方によりそのリーダーとのかかわりを決めているようにも思う。

リーダーを選ぶにも自分で何事も決めている人たちは、主体的に積極的に自立してプロジェクトに関わってくる傾向がある。そうではない人たちは、受動的に消極的に依存しプロジェクトに関わってくる傾向がある。

そしてその分かれ目をよく観察していると、そこに誇りや自尊心、プライドなどが見え隠れする。

これは自然に育てばそういうことはないのだろうけれど、過去に受けた様々な教育や刷り込みからの発達の歪みにより起きてくるものだろうとも思う。修復に長い時間かかる人もいればあっという間に切り替わる人もいるのはタイミングであると思うと、善く辛抱強く待ち、その時を逃さない機を見守るというのは本当に心胆の為せる技だとも思う。

人は色々な自分の歪みに向き合いながらそれを自ら正すことで乗り越える強さを持つことができる。いつまでも弱さを受け容れず逃げていたら歪みは塊のようになりいよいよ変わることができなくなってしまう。

完璧な人間を目指し孤独に浸り、気がつくと自分が分からなくなり崩壊するというような人生を歩みたくなければまず自分から原点に還りそこからもう一度全てをやり直す勇気が必要であると私は思う。

人は、自分を大切にしていく人ほど自尊心が高く、自分を粗末にしていく人ほど自尊心が低い。簡単に言えば、自信がある人は自分を大切にし、自信がない人は自分を粗末にしているということになる。

自尊心とはどのように得ているのかというと例えば運命で考えてみると、人間は様々な運命的な出来事の中で艱難辛苦あり、また歓喜ありと感情の波を持ちながら生きていく。その出来事に対して、自分が流された人と流されなかった人がいる。つまりは、出来事に対して自分で考え抜き何かを決めて納得した運命を送る人、もしくは相手のせいや出来事のせいにしていつまでも自分で決めたり納得しようともせず後悔を繰り返し運命から逃げる人がある。

自分を大切にしない人はよくその口癖に、「自分は幸せにはなってはいけない人だからや、自分なんてどうしようもないので」などと自分を粗末にしていることをあえて何度も大事な場面で発言する。反対に自分を大切にする人は、「自分が決めたことだからや自分で納得しているので」と言う風にいつも自分の心で決心して判断した自分を尊重した発言がでてくる。

自尊心とは、どんな小さな出来事ですら他人のせいにはせず自分の人生なのだから自分を大切にし、自分で決心し納得するということで得るものであると私は思う。

今の社会教育では、画一教育の中で集団に埋没させたり一斉画一に絶対命令を強いたりと悲しいまでに子どもたちの自尊感情を蔑む傾向がある。

世界中の人間は人生がどんな境遇であろうとも、運命がどんなものであろうとも、そのたびに自分自身で選び、そして自分自身で決める権利が誰にもある。

世界子ども人権宣言にもそのことが触れてあるし、誰もが幸せになるとは自分が納得できた人生を送れたかという自分のモノサシで生きることを言うことも皆も知っているのにそれが安心してできないというのは残念なことだと思う。時間を味わえず、ゆとりに満たされず、気忙しい寛容のない経済優先の社会には本当にがっかりしてしまうことが多い。子どもの成長や植物の成長など、生命はいつも悠久の流れのゆったりした中で育まれるものだけれどそれもきっと盲目に分からなくなっているから早期教育の類が流行っていくのだろうと思う。

話を戻せば、先程の自尊心が低い人は不思議なことにそのうち「プライドが高く」なっていく。これは、自分なんて駄目だと言っているうちに、周りからの評価を異常に気にするようになったりする。なぜなら自分と言うものを見えないように覆い隠すうちに人へ心を開くことを避けるようになり、隠者のように臆病にびくびくしながら責任転嫁することばかりに躍起になり、竟には自分をありのままに見せず架空の自我自分を周りに押し付けていくようになるからだ。

そして他人から見える本当の弱い自分を認めたくないために自分を誤魔化し、いかしな格好つけを装い、自分を大きく見せようとしたりとし、結果がまったくついてこないのでいよいよ悪循環になってたくさんの人たちに嫌われてしまうことがある。

つまり弱い自分を隠すという高いプライドを持てば、どんなに仲間ができてもそれは単に過去の後悔という傷を舐め合うことだけになり、自分自身の弱さをオープンにさらけ出し弱さを他人に見せないように無理をして一人に引き籠るようになる。そうなると孤独になり前進することもない。

プライドが高くなると言うのと誇りを持つというのは根本的に異なる。

同じ言葉でも、誇り高い人とプライドが高い人とは違って使われる。

プライドが高い人とは、そういう完璧主義の人や自虐的自暴自棄の人をいうのだろうけれど、誇り高き人とは崇高な理念を持っている人や、自分を超えたところで高い理想を抱きその原点を見失わない人のことを言う。

誇りとは、自分が何のためにこれをやろうとするのかという理念に沿ったものになるし、それを決めた自分自身に対する尊重の念と感動の心を常に抱きすべての行動に妥協せずに自分の誇りに忠実に自分を尽くしていくことをいうのではないか。

錦を飾るというのも、誇り高き生き方をして生まれ故郷に返ってきたことを言い、決して見た眼の成功や派手な着物で誤魔化すことをいうのではない、自分の信じて決心した高い理想の実現という一念を守りとおして結果を出してきましたということだろう。

誇りを持って働くと言うのは、自分が一体何のために働くのかと言う初志や初心を大切にし、自分を尊重して理想の実現に向けて妥協せずに居ることを言う。

最近、何かの仕事をしては作業に没頭し誇りまで見失っている人がとても多い、そのうち言い訳と建前ばかりを並べては格好悪いプライドと傷の舐め合いクラブのようなものを形成しそこに浸っていこうとする人もいる。

しかし、本当は崇高な理念で具体的な実践と方法でその仕事をさせていただいているのだからこそ何よりも「誇り」を自覚して働くことが自分を大切にし自分を信じられることに繋がっていくのだと思う。

自信があるないからと仕事ができないのではなく、誇りを持っていればそれはどこ吹く風として本気でやり遂げることを楽しみながら歩むことができるもの。

カグヤという会社は世界に一社しかなく、クルーは選ばれた人たちでしか働くことはできない、本気で子どもたちの幸せを願い、1000年後の未来までを貫くストーリーという理想を描いているのだからこそ誇りを持って取り組むようにしていきたい。

これからも、子どもたちには自分を丸ごと見守り受け容れてくれる存在があることを伝えつつ、自分の弱さも強さもあるがままにさらけだせる強く優しい存在であれるよう自分の変化を楽しんでいきたいと思う。

ひらめき

私は生きてきてたくさんの閃きに出会い感動しながら歩み続けてきた。
それは、様々な自分との発見でもあるし子どもの心との邂逅でもあった。

なぜ今、こうしているのかを感じてもそれはインスピレーションとシンクロニシティとの一期一会でしかなく、またこれからどうなるのかを感じても同じくそれは出会いという縁で繋がり導かれていくのだから一期一会でしかない。

その縁には、必ず未知の発見と自分の発掘がある。

人間は相手を知ろうとするばかりに目を向けるけれど、本当は自分自身にこそ目を向けなければ何も知りはしないし理解することもできない。

人間を深く理解し、人間に為ったものが徳を積み君子になるように人は自分自身との対話を楽しみつつ歩むことが人生の旅路なのかもしれないと最近よく思う。

私の師がよく自分自身の中で自問自答し習い学ぶとあるように相手のことを深く理解し共感するには自分自身との邂逅が必要なのだと私も思う。

そしてそういう自分に出会うには、この世の中の全てを受け容れつつ自分と言うものが顕れるほどの鏡のような澄んだ心が必要になる。

全てのものをあるがままにありのままに映すには、不自然かつ不安定なこの社会と世界に於いて流されるけれど流されないような自分という自然の姿になるために日々の研磨と研鑽など削り取っていく必要がある。

私は幼い頃エジソンに憧れ、エジソンのように発明家になりたいと思っていた。その前は動物園の飼育係だったけれど、これは親に反対され代わりに優先順位が2番目だったのがこの発明家だった。

そして何をしたかったというと、不老不死の薬を発明することだった。たくさんのその辺の雑草を抜いては混ぜてみて不老不死の薬だと語り時折自分で試し飲んでお腹を壊すことがった。

しかし、その後、身近な死に直面することでその考えも変わってきた。本当の不老不死というものは、普遍的な真理に沿うことではないかとも感じるようになった。時間と言う感覚と光という透明なものというものは異なるのではないか、透明な光の一瞬に時間と言うものを超えた「今」というものが存在するのではないか、その瞬間を捉えると不思議な感覚になる。

「ひらめき」とはそのような瞬間にふと感じる驚きであり揺らぎのようなものだと思う。その瞬間は何か得体の知れない何かに触れている感じのことだ。こういう話を書くと変に感じるかもしれないけれど、人間には必ず言語化される前にあった自然との共生や安心して謳歌した歓びの季節があったのではないかと私は思う。

それが文明により、人工的な世界を別で生み出したことで様々な歪みが生まれてきたのだとも思う。あの虫たちや鳥たち、植物もすべてそれは捨てずにもっているからより理解できる。

一期一会は、ひらめきの最中にこそ存在する。

ひらめきに出会いそのひらめきを形にした人たち、アインシュタインはこう言う、

『 I only trace the lines that flow from God. 』

(ただ、私は神の方から流れてくるその糸を辿るだけである)

そしてエジソンはこう言う、

『 Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration. 』

(天才は1パーセントのインスピレーションを信じるために、99パーセントの努力する)

観点をひらめきに布置するとして私ならこう意訳する。

そしてそのエジソンは、何から学び何を発明してこの世の人間に貢献したか、それは以下の言葉の中にも詰まっている。

「私の処世信条は、自然界の神秘を究明して、これを人類の幸せに資せんとする仕事だ。万物を明るく、人の幸せの視点から眺める仕事だ。」

私が幼い頃に感じたあの白昼夢のひらめき、「来てみたら何かが違う」というもののズレを修正することができるのか。そこには、調和とは程遠い人工物に溢れた不自然な世界が存在していた。

もっと人間らしく、そして地球の生命としての在り方を子どもたちに学んでいきたい。私たちがなすべきは、子どもたちにそのままの自然を譲り渡すことではないだろうか。

当たり前とどう思われても、このひらめきを感じ、この今も不思議な意味を感じ尽くして産霊を正直に素直に辿っていきたい。このかんながらの道の上にある仕事が子どもたちのひらめきを見守るものになることを信じて。

ハーモニー

人は人との間には様々な壁をつくって距離を持とうとする。先日のコンサルティングの組織もお互いに遠慮し本当のことをオープンに話し合おうともしない。同じ日本語を使っている日本人同士なのに、いつまでもコミュニケーションの壁は取り除けない。

そのほとんどは自分の弱さを受け容れることができない部分を頑なに自分が守っていることが多く、そこから相手を恐れ感情的になり何かを自分が先に決め付けてしまうことでさらに分かり合えないケースが多い。

たとえビジネスライクに何でもない表面上の仲良くはうまくできても、お互いの垣根を乗り越えた本音・本心で語り合い助け合うというのは心を許し合える友や仲間でなければできはしない。一緒に考え一緒に悩み一緒に解決するというのは、お互いが力をあわせて協力する関係ができていなければできはしない。

自分だけでいつも解決しようと自分の中に引き籠っていては本当の解決はしない。人は人と関係の中で自分を役立たせることで仕事は存在しているからだ。一人でできていると思うのは錯覚で必ずそこには関わり合う人や対象者によってはじめてそれは存在している。

まずは自分がダメなのだから自分で解決しようではなく、自分ができないのも受け容れて助け合い皆で協力しあい一緒に一つ一つ解決しようとするのが本当の社会の中での個人の在り方なのだと思う。

人は頭で脳でいくら考えたって一緒にやろうとあわせたり調和しようとしたりすることはできない、自然界のように見習って調和するというのはもっと本質的で本能的なものだと思う。

例えば、音楽に乗せて皆で楽しく踊ったり歌ったりするように、または秋の豊かな実りを歓び手をたたいてお祭りをしているときのように、「楽しい」と思う気持ちや、遊びのような「ワクワク」と好奇心が発揮されているときにこそ、皆が自然界の動植物のように調和していくのだと思う。

自分らしく生きることを心底それぞれが楽しんでいるのが自然界だからだ。

人間は理性的になることで、自然に仲良く共生することを忘れ周囲を信じず疑い、不自然に防御し自分らしくいなくいることで周りに調整しようとしてしまった。人工的に創られた調和というのは調和ではない、それはそこだけに切り取られた架空の建造物でしかない。それを信じさせられたって、自然界ではそれは不自然に観えているはず。

あの自然の森の中のビル群や、山にあるダムや、海にある防波堤など、そもそもそこには様々な生物が様々に共生し合った調和があったのにいまではないし当たり前になっていること、その刷り込みにこそ気付かないといけない。

私は人工物が悪や善などと言いたいのではなく、何が自然なのかを自分で考えないといけないと思っている。でなければ信じていて違うと思うことばかりに気をつけて生きているとより調和できなくなってしまうからだ。

自然界のように自分の周囲を信頼し信じると言うのはもっと心地よく素晴らしいことであるし、自分が信じた周囲によって自分らしくいられることを歓びみんな一緒に人生を謳歌しようよと自分から光り輝きあっているのが個性の本質でもあると私は思う。

仕事として作業を沢山真面目にやるのはいいけれど、忙しさのあまり余裕とゆとりがなくなり楽しくなくなっているのなら皆で協力したりするための自然に肩の力を抜いて協力しあうことは難しい。

何もしなくても自分がワクワクできるというのは、自然を感じつつもいつも心にゆとりを持ち、人の温かさ、人の親切さ、人の心の美しさ、人の存在の有難さ、人の偉大さをあるがままに受け容れているということをいうのではないか。

そうやって様々なものと繋がり合い、自分から結んでいくことが自分を存分に発揮し道縁を楽しみ幸せを玩味し歓びあうことではないか。

今は、保育や教育業界は様々な効率化のために余裕とゆとりがなくなり先生も保護者もみんな悪い方ばかりが見えやすくなり、不安や不信ばかりの問題が起きてしまい楽しみ力や遊び力がとても劣化してきているように思う。

子どもたちがあんなに楽しそうに自然に周囲を信じているのに、なぜその周囲の大人が大人たちを信じようとしないのか、本当に大人げない大人が増えたなと思う、どっちがコドモなのかと思ってしまう。

人は信じあうことでしか楽しいと思えることはない。
信じあうことは、すべての物事を全肯定して受け容れているということ。

すべての生命の価値をそのままに平等に感じる力。
お互いを尊重して生きていると言うことであると私は思う。

人の一部が観えるのは、そこから宇宙が全体が感じられる。
一部がその人なのではない、本来生命はそこから全繋がりが観えるものだ。

自分のことをそうやってみれば自分そのものを受け容れられるはず。
もっと子どもたちの見守る方は、信じるということを優先してほしい。

今、起きている問題や課題をどれだけ楽しむ力で面白いものに変換していけるか、それが本来の生きる力であると思う。待つことは楽しい、できないことも楽しい、分かり合えないことも楽しい、すぐに手に入らないことも楽しいと言えるような心のゆとりこそを大事にしていくことが自分らしく生きていくための知恵だと思う。

まずはカグヤも私たち子どもに関わる人たちは自分から周囲を信じて心を開いていくことで、仲間をたくさん創り広げることをしていきたい。そういう信じあう和の中にこそ本当のハーモニーがあることを実践で示していきたい。

コンサルタントとは

人間の心の荒蕪を耕すとあっても、それをすることは尋常ではない。人はそれぞれに役割が在り、コンサルタントといったとしてもそこには道と術がある。

武道、茶道、華道、医道をはじめ様々な道があるように、武術、茶術、華術と医術と様々な術もある。道術は本来、渾然一体となっているものが本質だろうけれど今は専門的に分化しとても分かりにくくなってきている。しかし本当は道は心、術は物であり、そのもの自体は決して分かれているものではない。

本来、道を志せば道に通じる技術を得てそれを体に身につけるという心技体の一体化こそが人間を正しい方向へと導くのだろうけれどなかなかそれを他人に伝播していくというのは難しい。

二宮尊徳は農業という営みの中で生活を通じ道と術を伝えて心を養うことで報徳をし世界を創造した一人だけれど、教育や保育の世界でも私の師も同じくこの徳の実践をすることで新たに開き創造しようとしている。

その中で大人たちが自らの心の扉を開き、自然に真心の種子を引き出していくと言うのは時代は変われどもその本質は変わらずに今の時代もやり方はそのままだと感じている。

仏教の教えに、菩薩道としての四摂事がある。

まずは、1つ目に「布施」。これは相手が望むものを与えることを言う。そして次に「愛語」。これは相手に温かく思いやりのある優しい言葉をかけること。そして次に「利行」。これは相手に具体的なお手伝いをするなどの実践を持って手本を示すこと。最後に、もっとも大切な意味を持つ「同事」。これは相手の立場になってその困難を自分のものとし受け容れて同時に自他一体となりまず自分がそれを解決してみせることで相手を導くということ。

この「布施」「愛語」「利行」「同時」がその人と人との機縁や御縁という繋がりのところにある心構えや心の姿勢ということになる。

人は出逢うことで人生が別れ、出会うことから人生が合う一期一会である。

本来、人間の子どもは最初から様々なことができる可能性が溢れた存在としてこの世に生まれてくる。しかし人生の経過の中で様々な刷り込みによってその可能性が閉ざされ、気がつくとこの現実と言う名の柵に囚われ、様々な執着によりその本懐を忘れていき次第に流され朽ちていくようにも思う。

しかし人は、出会いがあり本来自由自在に生きている人たちから感化されることで気付くことができさらには人々の苦しみを取り除きたいと言う大欲を誓願するものたちによって道を正す御縁と機会に巡り合う奇跡もある。

大切なのは、何のために生きるのか、そして何のために死ぬのかを思い、その間にある邂逅に感謝できるか、つまりは幸せかどうかということになる。

ここでの幸せとは、納得がいく人生であるかどうか、つまりは自分と言うものを世界で立てて安心して命を尽くしきったかということをいう。

生きていると様々なものを持つことで執着が強くなっていくもの、最初はなかったものまで時間が経つと増えていき、そのことから様々なトラブルに巻き込まれることになる。私たちの傍でも時には、子どもたちのためにと誓願したけれどそれができずに苦しみ、時には、自分の過去のトラウマに向き合えずさらなる困難に伏せってしまっている人もいる。

そういう人々をまた本来のあるべきようへと橋渡しをするのもコンサルタントの仕事ではないか、コンサルタントとは橋渡しなのであると私は思う。どこへ橋渡しをするかはその人の生き方によるもの。

しかし何よりも大切なことは、自分がもしも機縁と機会で善い師、善い徳業を人生で得られたならばそれを一人でも多くの人々へどう還元していけるかを考えることからが始まりだと私は思う。

どう刷り込まれた人たちを刷り込みから取り除くのか、そしてどう塞がっているひとたちの扉を開いていくのか、それは全てに人間の持つ「かわいそう」だと思う心、憐れみではなく「情け」に基づいた真心の実践が肝心であるのだと思う。

子どもたちのためにと誓願すれば、次第にその道に入っていくのは誰でも同じこと。目指す世界があるのだから、沢山の人たちを巻き込んで子どもたちの望む未来を譲れるように今を努めていきたいと思う。

コンサルタントの道はこの菩薩の教えの「同時」による橋渡しであることを忘れてはいけない。カグヤのクルーは、単なる修行に甘んじず自分自らの命を燦然と燃やして子どもたちとともに悠久の河の端に生きていこうと思う。

まず自ズカラ

会社や組織、集団やチームで働く中で自分から参画するものと、受身で従事するものがある。大きな会社や大きな組織では参画というよりも与えられたものをやればいいという自分の範囲を自分で制限して働くことを歯車になるやネジになるというように言われることもある。

しかし中小企業や創業まもない組織ではそうやって自分の役割や役目など持てるほどの余裕もなく、それぞれが協力して手伝い働くことで一緒に問題を解決し、一緒に悩みを共有し、一緒に課題を乗り越える勇気を出して一緒に働くことが優先される。

それが在る程度、落ち着いてくると自分の仕事を自分勝手に決めることがある。
そうすると、それぞれがバラバラになり集団や会社、チームに対して自分が何ができるのかを考え行動するのではなく、相手に自分が何をしてもらおうかとばかりを考えるようになる。

よくチームが機能しないものを客観的に見ていたり、どうしても和を乱したり、集団に自分を埋没させて依存する人たちの特徴とは、自分が集団に何かを期待し、チームに期待し、会社に期待し、上司に期待し、自分がどうしてもらおうかとばかりに躍起になっているように思う。

そんな受身な態度では何もできはしない。

会社が組織が集団や国家が何かを自分にしてもらおうとするのではなく、自分が会社や組織や集団、または国家に対して「何ができるか」を考え自分から参画することこそ本来の自分らしい自分を埋没させない協力の姿勢であると私は思う。

いつも自分が何かをしてもらおうとすると、人は決して動かない。
その人の私利私欲のために協力するのは権力者に従うものだけだと思う。

その人の私利私欲ばかりに自分をあわせるのではなく、自分から何ができるかを考えて相手に求めるよりも自分を与えようとすることこそ本来のチームワークを発揮するのだと私は思う。

今の社会もそうだけれど、誰かのせいにしたり、結局は最後は誰か任せというのは本当に無責任なことだと思う。

そういう無責任な自分の姿勢が社会をさらに依存するものにし、より社会が停滞し依頼心の負の連鎖が広がっていくのだと思う。

自分で決めるということは、そういう自分ばかりが何かをしてもらおうとする依頼心を断ちきり、自分が一体何ができるかを本気で考え取り組むことでもある。

責任を履き違えているけれど、責任は与えてもらうものではなく自分が取るものだと言うことを最初に考えないといけない。

与えられようとするから取らされるのであり、自分が取ることであれば任されたということにならないだろうか。信頼関係とは、そうやって与えあう関係とともに協力し合い互いに助け合う中で生まれてくるもの。

本質として、そうやって信頼関係を築けないのはきっと過去のトラウマか何かがあるのだろうけれど大事なのは一度きりの人生、一度きりの自分、その花を実を立派につけようとするのは自分の強烈な意志によるものだと私は思う。

チームというものを考えるとき、やはり私は自分に矢印であるので求めるよりも与える側、そして自分が世界に何ができるかを真剣に考えて自分の至誠を貫いていくことを優先していきたい。

子どもたちには、自分の人生、依頼心や依存心で生きるのではなくまずはカグヤの背中を通して、自分で甘えを断ち切り、自分が世界に子どもたちに会社に上司に社会に何ができるかを発信できる人物であるように見せていきたい。

今はもう時が来ていてこれ以上は流されたままぶらさがることはできないのだから覚悟と自覚を持ち自立することを楽しめるようにあればと願う。

感受性

幼い頃、様々な自然を通して奇跡を見つめてきた。

動物や植物、そして光や水の持つ透明さ霊妙さなど本当に様々なことに興味を持ち感受してきた。そしてそれは今ではすべての出会いへの関心になりそこから座右の一期一会が生まれている。

私は自然から生まれ、自然に深く強く魅せられている。

そしてだからこそ人間の持つ善悪を超えた生命の神秘に心をあわせて生きとし生けるすべてのものたちを励まし生命の躍動に心を震わせている。

星たちや宇宙の広大さ、そして海や空にあるような包容観、さらには言霊や祈りなどという神秘さ、そのすべてが縦横無尽に繋がりあうことで価値が存在することに何とも言い表せない無為自然の叡智を感じる。

子どもたちが感じる不思議な心は、自然と繋がっているように私は思う。

あの好奇心、あのワクワクドキドキとする不思議さとの邂逅、そこにこの一期一会の醍醐味がある。

今、毎日を過ごすとき何よりも感謝や感動というかけがえのない時間と悠久の流れに身を置く自分の心の澄んだ命が語りかけてくるのを感じる。

子どもの心がそうさせてくれる。

大人が何かができる存在だとは思えない、子どもには最初からこのセンスオブワンダーという何よりもかえがたい不思議なものへと交信しそこから新しいものを生み出していくと言う創造力、そして破壊力が合さって備わっている。

教育や保育の世界は、何か知識を大人が持つことで勘違いしているようだけれど子どもは何もできない存在でだから何か大人が一方的に教えるというような存在ではない。

だからこそ子どものことを丸ごと信じて、子どものそういう不思議な心を引き出して見守ってこそ私たちが学び続けるという意味にもなっているのではないかと思う。

常に不思議さと出逢う感受性に、私たちの生きている世界があることを決して忘れてはいけない。子どもたちのためにも自らの生き方が背中になるようにセンスオブワンダーの人生を楽しみ尽くしていきたい。