私は生きてきてたくさんの閃きに出会い感動しながら歩み続けてきた。
それは、様々な自分との発見でもあるし子どもの心との邂逅でもあった。
なぜ今、こうしているのかを感じてもそれはインスピレーションとシンクロニシティとの一期一会でしかなく、またこれからどうなるのかを感じても同じくそれは出会いという縁で繋がり導かれていくのだから一期一会でしかない。
その縁には、必ず未知の発見と自分の発掘がある。
人間は相手を知ろうとするばかりに目を向けるけれど、本当は自分自身にこそ目を向けなければ何も知りはしないし理解することもできない。
人間を深く理解し、人間に為ったものが徳を積み君子になるように人は自分自身との対話を楽しみつつ歩むことが人生の旅路なのかもしれないと最近よく思う。
私の師がよく自分自身の中で自問自答し習い学ぶとあるように相手のことを深く理解し共感するには自分自身との邂逅が必要なのだと私も思う。
そしてそういう自分に出会うには、この世の中の全てを受け容れつつ自分と言うものが顕れるほどの鏡のような澄んだ心が必要になる。
全てのものをあるがままにありのままに映すには、不自然かつ不安定なこの社会と世界に於いて流されるけれど流されないような自分という自然の姿になるために日々の研磨と研鑽など削り取っていく必要がある。
私は幼い頃エジソンに憧れ、エジソンのように発明家になりたいと思っていた。その前は動物園の飼育係だったけれど、これは親に反対され代わりに優先順位が2番目だったのがこの発明家だった。
そして何をしたかったというと、不老不死の薬を発明することだった。たくさんのその辺の雑草を抜いては混ぜてみて不老不死の薬だと語り時折自分で試し飲んでお腹を壊すことがった。
しかし、その後、身近な死に直面することでその考えも変わってきた。本当の不老不死というものは、普遍的な真理に沿うことではないかとも感じるようになった。時間と言う感覚と光という透明なものというものは異なるのではないか、透明な光の一瞬に時間と言うものを超えた「今」というものが存在するのではないか、その瞬間を捉えると不思議な感覚になる。
「ひらめき」とはそのような瞬間にふと感じる驚きであり揺らぎのようなものだと思う。その瞬間は何か得体の知れない何かに触れている感じのことだ。こういう話を書くと変に感じるかもしれないけれど、人間には必ず言語化される前にあった自然との共生や安心して謳歌した歓びの季節があったのではないかと私は思う。
それが文明により、人工的な世界を別で生み出したことで様々な歪みが生まれてきたのだとも思う。あの虫たちや鳥たち、植物もすべてそれは捨てずにもっているからより理解できる。
一期一会は、ひらめきの最中にこそ存在する。
ひらめきに出会いそのひらめきを形にした人たち、アインシュタインはこう言う、
『 I only trace the lines that flow from God. 』
(ただ、私は神の方から流れてくるその糸を辿るだけである)
そしてエジソンはこう言う、
『 Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration. 』
(天才は1パーセントのインスピレーションを信じるために、99パーセントの努力する)
観点をひらめきに布置するとして私ならこう意訳する。
そしてそのエジソンは、何から学び何を発明してこの世の人間に貢献したか、それは以下の言葉の中にも詰まっている。
「私の処世信条は、自然界の神秘を究明して、これを人類の幸せに資せんとする仕事だ。万物を明るく、人の幸せの視点から眺める仕事だ。」
私が幼い頃に感じたあの白昼夢のひらめき、「来てみたら何かが違う」というもののズレを修正することができるのか。そこには、調和とは程遠い人工物に溢れた不自然な世界が存在していた。
もっと人間らしく、そして地球の生命としての在り方を子どもたちに学んでいきたい。私たちがなすべきは、子どもたちにそのままの自然を譲り渡すことではないだろうか。
当たり前とどう思われても、このひらめきを感じ、この今も不思議な意味を感じ尽くして産霊を正直に素直に辿っていきたい。このかんながらの道の上にある仕事が子どもたちのひらめきを見守るものになることを信じて。