仕事をしていく中で様々な人たちと働くことがある。
強烈なリーダーシップに魅せられてついてくる人たち、または自分でリーダーと決めてついていく人たち、人は様々な自分の在り方によりそのリーダーとのかかわりを決めているようにも思う。
リーダーを選ぶにも自分で何事も決めている人たちは、主体的に積極的に自立してプロジェクトに関わってくる傾向がある。そうではない人たちは、受動的に消極的に依存しプロジェクトに関わってくる傾向がある。
そしてその分かれ目をよく観察していると、そこに誇りや自尊心、プライドなどが見え隠れする。
これは自然に育てばそういうことはないのだろうけれど、過去に受けた様々な教育や刷り込みからの発達の歪みにより起きてくるものだろうとも思う。修復に長い時間かかる人もいればあっという間に切り替わる人もいるのはタイミングであると思うと、善く辛抱強く待ち、その時を逃さない機を見守るというのは本当に心胆の為せる技だとも思う。
人は色々な自分の歪みに向き合いながらそれを自ら正すことで乗り越える強さを持つことができる。いつまでも弱さを受け容れず逃げていたら歪みは塊のようになりいよいよ変わることができなくなってしまう。
完璧な人間を目指し孤独に浸り、気がつくと自分が分からなくなり崩壊するというような人生を歩みたくなければまず自分から原点に還りそこからもう一度全てをやり直す勇気が必要であると私は思う。
人は、自分を大切にしていく人ほど自尊心が高く、自分を粗末にしていく人ほど自尊心が低い。簡単に言えば、自信がある人は自分を大切にし、自信がない人は自分を粗末にしているということになる。
自尊心とはどのように得ているのかというと例えば運命で考えてみると、人間は様々な運命的な出来事の中で艱難辛苦あり、また歓喜ありと感情の波を持ちながら生きていく。その出来事に対して、自分が流された人と流されなかった人がいる。つまりは、出来事に対して自分で考え抜き何かを決めて納得した運命を送る人、もしくは相手のせいや出来事のせいにしていつまでも自分で決めたり納得しようともせず後悔を繰り返し運命から逃げる人がある。
自分を大切にしない人はよくその口癖に、「自分は幸せにはなってはいけない人だからや、自分なんてどうしようもないので」などと自分を粗末にしていることをあえて何度も大事な場面で発言する。反対に自分を大切にする人は、「自分が決めたことだからや自分で納得しているので」と言う風にいつも自分の心で決心して判断した自分を尊重した発言がでてくる。
自尊心とは、どんな小さな出来事ですら他人のせいにはせず自分の人生なのだから自分を大切にし、自分で決心し納得するということで得るものであると私は思う。
今の社会教育では、画一教育の中で集団に埋没させたり一斉画一に絶対命令を強いたりと悲しいまでに子どもたちの自尊感情を蔑む傾向がある。
世界中の人間は人生がどんな境遇であろうとも、運命がどんなものであろうとも、そのたびに自分自身で選び、そして自分自身で決める権利が誰にもある。
世界子ども人権宣言にもそのことが触れてあるし、誰もが幸せになるとは自分が納得できた人生を送れたかという自分のモノサシで生きることを言うことも皆も知っているのにそれが安心してできないというのは残念なことだと思う。時間を味わえず、ゆとりに満たされず、気忙しい寛容のない経済優先の社会には本当にがっかりしてしまうことが多い。子どもの成長や植物の成長など、生命はいつも悠久の流れのゆったりした中で育まれるものだけれどそれもきっと盲目に分からなくなっているから早期教育の類が流行っていくのだろうと思う。
話を戻せば、先程の自尊心が低い人は不思議なことにそのうち「プライドが高く」なっていく。これは、自分なんて駄目だと言っているうちに、周りからの評価を異常に気にするようになったりする。なぜなら自分と言うものを見えないように覆い隠すうちに人へ心を開くことを避けるようになり、隠者のように臆病にびくびくしながら責任転嫁することばかりに躍起になり、竟には自分をありのままに見せず架空の自我自分を周りに押し付けていくようになるからだ。
そして他人から見える本当の弱い自分を認めたくないために自分を誤魔化し、いかしな格好つけを装い、自分を大きく見せようとしたりとし、結果がまったくついてこないのでいよいよ悪循環になってたくさんの人たちに嫌われてしまうことがある。
つまり弱い自分を隠すという高いプライドを持てば、どんなに仲間ができてもそれは単に過去の後悔という傷を舐め合うことだけになり、自分自身の弱さをオープンにさらけ出し弱さを他人に見せないように無理をして一人に引き籠るようになる。そうなると孤独になり前進することもない。
プライドが高くなると言うのと誇りを持つというのは根本的に異なる。
同じ言葉でも、誇り高い人とプライドが高い人とは違って使われる。
プライドが高い人とは、そういう完璧主義の人や自虐的自暴自棄の人をいうのだろうけれど、誇り高き人とは崇高な理念を持っている人や、自分を超えたところで高い理想を抱きその原点を見失わない人のことを言う。
誇りとは、自分が何のためにこれをやろうとするのかという理念に沿ったものになるし、それを決めた自分自身に対する尊重の念と感動の心を常に抱きすべての行動に妥協せずに自分の誇りに忠実に自分を尽くしていくことをいうのではないか。
錦を飾るというのも、誇り高き生き方をして生まれ故郷に返ってきたことを言い、決して見た眼の成功や派手な着物で誤魔化すことをいうのではない、自分の信じて決心した高い理想の実現という一念を守りとおして結果を出してきましたということだろう。
誇りを持って働くと言うのは、自分が一体何のために働くのかと言う初志や初心を大切にし、自分を尊重して理想の実現に向けて妥協せずに居ることを言う。
最近、何かの仕事をしては作業に没頭し誇りまで見失っている人がとても多い、そのうち言い訳と建前ばかりを並べては格好悪いプライドと傷の舐め合いクラブのようなものを形成しそこに浸っていこうとする人もいる。
しかし、本当は崇高な理念で具体的な実践と方法でその仕事をさせていただいているのだからこそ何よりも「誇り」を自覚して働くことが自分を大切にし自分を信じられることに繋がっていくのだと思う。
自信があるないからと仕事ができないのではなく、誇りを持っていればそれはどこ吹く風として本気でやり遂げることを楽しみながら歩むことができるもの。
カグヤという会社は世界に一社しかなく、クルーは選ばれた人たちでしか働くことはできない、本気で子どもたちの幸せを願い、1000年後の未来までを貫くストーリーという理想を描いているのだからこそ誇りを持って取り組むようにしていきたい。
これからも、子どもたちには自分を丸ごと見守り受け容れてくれる存在があることを伝えつつ、自分の弱さも強さもあるがままにさらけだせる強く優しい存在であれるよう自分の変化を楽しんでいきたいと思う。