保育の本質は、「見守る」ということ。
そろそろその定義について私なりに到達しているところまで書いてみようと思います。
私が最初にこの言葉に出会ったとき、師に私は「まるでお地蔵さんのようだ」という感動を伝えたことを覚えています。
それは常日頃から自分たちのことをそっと見守り続けている存在の代表として私はそこに感謝の念を忘れたことがないために感じたのです。今でも月に一度は必ず参拝をしその真心を感じない日はありません。
この命を天地一体の中で自ずからこの性を立てつ、正しく生きていくということは絶対的にあるがままという存在価値そのもので全て丸ごと信じることが必要となる。なぜなら、自分は生かされているからである。
つまりその生かされているからこその命を保育するとは、天地自然の無限の恩恵を受けながら自ら育とうとする不思議で神秘的な命の輝きをその同じ心を持って見守ることである。
慈雲尊者という先師にこうある。
『天地長育して殺さず、萬物あたへてうばはず、陰陽その功あり、月白く風清し、文華の徳を害するを知る、山たかく海ふかし、憎愛の性に戻るをしる、足ることを知る者は常に富み、いからざる者は壽也。』
理解しやすいように意訳するけれど、「天地自然はすべてを育み伸ばそうとして決して殺そうとはしない、そして万物すべてに与えてはそれを奪おうともしない、陰陽にもそこに無限の恩恵がある、月が白いことも風が清いこともそれである。山も壮大で海も深大である、人間の心に戻ってみると、足ることを知っている人はいつまでも富み、怒ることのない人は穏やかに長く生きることができる。」
『善悪報あり、神祇霊あり、日月下土を照臨してみづから其の功にほこらず、山川衆生を保育して亦みづから有せず、経に曰く、今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子』
「善悪に報いがあるように、天地の神は霊妙である、太陽も月も大地を照らすけれどその自らの恩恵を誇ることもなく、分け隔てなくすべての命、大自然を保育してそれを自分のものにしようともしない。これは真理の教えにもこうあるようなものだ。今このすべての世界は自分の中に在り、その中にある全てのものは皆我が子どもである。」
特に大事なのは、「山川衆生を保育して亦みづから有せず」の一文。
保育とは決して見返りを求めるものではないということ。
そして私の師匠の言霊である「見守る」という真髄に、「天が与え続けるように自らが与え続ける」と仰られたことがある。
これは本業のギビングツリーという会も同じくして、「保育」をするということの本質を其処に記しているように思う。
つまりは我が子を愛して見返りを求めない天地自然と一体になった父母の恩をそのままに、全ての物事を自らの心に観照しつつその慈愛心に丸ごと包み込みすべての命を我が子どもと思う実践をすることをいう。
この「見守る」ということは仏教でいう如来を示し、神道でいう天照を示し、儒教でいう父母を意味すると同じくし、保育するということの本質は、我々こそがすべて子どものままなのだということを意味する。
言語化されたオトナやコドモではなく、大極すると私たちは永遠に子どもなのだということだ。
人間は決して驕ってはいけないし偉そうになってはいけない、その反省を促す人間の叡智がこの保育という道には存在する。
私は「保育」という言葉を決してなくしてはいけないと思っている。天が導く命の胎動としての子どもたちとしての自分たちを霊妙期と言われる満10歳までに体験せずして如何に安心立命することができようか。
教育とはその後のものであり、教えによって導くのはその先に人間として人間が勝手に創った理性的な社会、この人間界の倫理道徳がどうあるべきかを先人の往きざまにより涵育薫陶し養うことが「教育」ではないのか。
私は師に出会いこの人生で命を懸けて「保育」にこだわる理由は其処にある。
天地自然の真心に対し、人として至誠を尽くす。その至誠が必ず天に通じる。この天と人、つまり天人はそもそも一つのものだろうことだろうと私は思う。
これがこの世界の本質であり、そこに一本の道があり、何より今の心がある。
楽しみながら生きていくことができるのもきっとこの保育によるものである。
私は社業を通じて、仲間を増やし、今しかできないことをやるためにも、常に保育の本質とは何か?をこの業界からすべての人々へ説いていきたい。
今は有難いことにまだまだ気付ける自然と寄り添う人たちが沢山いる。
自然の神秘に語りかけつつかんながらの道を子どもたちと表現していきたい。
その運命を協働する人たちと共に、実践を通じて真実を示していきたい。
感謝