今、風邪をひいていて長引いているのでせっかくの機会なので周囲の方々のこともあるのでこの病気ということの本質を考えてみることにする。
病気とは気が病むと書いて病気と書く。
もともとこの気というものは、流れているものであるし陰陽無双原理ではないけれどそもそもこの自然界は全てに水に然り、風に然り、気温に然り、万物全てが調和の中で躍動し流れて止まらないという性質を持っている。
その気が何かによって滞ることにより、そこに沈殿したり累積したものが溜まってしまいそれが凝り固まってくるからそれをまた元通りに流そうとして病気になるのだとも思う。
どこかに無理をしているものを治そうするために病気は起こる。
そしてそのプロセスを経ているうちに調和を探していこうとする。
私の場合などは、気が前に出過ぎていて無理をするので余計に長引いてしまうのだろう。色々な意味の中で、どうやったら無理のない休みが取れるのかと言うのは私の場合は責任感と真面目さ、潔癖さもあるので本当に難しい。
ともかく病気は現代人とこの不調和に偏る世界に於いて自然現象であるからして、これを自然治癒するとは陰陽の大極にてバランスを取っていくことを言う。
そうやって心も体もそして気の流れも時代時代にあわせて、どのように自分を運ぶのか合わせるのかがその時々の自らの在りようであり生き方なのだと思う。
科学的には日々の生活の中で私たちは自律神経により統合され、その中でも大きく二つの司令塔である交感神経や副交感神経というものがあると言われている。
まず交感神経は、昼の神経と呼ばれ起きているときやハードに働いている際にに頭で全体を管理し自らを周囲に順応させていこうとする理性の力、そして副交感神経は夜の神経と呼ばれ寝ている時やリラックスする際にも全体を管理し自ずから周囲に順応させていこうとする本能の力とでもいうのだろうか。
人はその理性と本能の境目にあわせながら周囲の変化に対して自らの身体やその心を調整することで、自分と言うものを環境に順応させていくのだと思う。つまりは環境や周囲の中で生きていて生かされるから自律する必要がある。
これが自律していないとなっていると、チームワークでもそうだけれど無茶苦茶になりバランスも取れず病巣に悪玉菌やウィルスなどが溜まっていき、身体では癌などになってしまう。体内も体外での出来事も本質的には同じで、病気にもならないような人というのはどこかバランスが壊れていて危険な状況になりやすいというのはそういうことも言える。
そしてこれは個々だけの問題だけではなく例えば世の中も閉塞感の時代は、「楽しむや遊ぼう」などの言葉が主流になり、逆に世の中が開放的になると「真剣にや本気で」などという言葉も出てくる。
これは世間の風潮に心を順応させていこうとするバランスを保とうとする一つのニーズを捉えている方法だとも思う。しかしそれも時代時代に於いて、気の流れによって全体と調和するためにそれは変わっていくのものだ。
しかし本質や大極を観れば、いつの時代もそれと調和するには偏らず柔らか素直に受け容れるということだと思う。素直にいるということは大切なことだというのはここでもいえる。
すべての出来事を受容するというのは、本当に難しいバランスの布置点であり純粋であることが必要になる。天真一体でいるとはその点より新しい世界へ転換していくことをその都度行っているということであり心と頭との転換があり、心が頭になり、頭が心になるという、中庸の流れと一体となった場所に自分をそのまま据え置きゆらゆらとしていることが必要になる。
そういうゆらゆらするには、竹のように根はしっかりとはりつつ、風に吹かれても元通りというような、しなやかな生き方が必要なのだとも思う。
カグヤでは竹をモチーフに、ロゴマークを展開しているけれどこのようなしなやかさとタフさ、そのバランスの素晴らしさに感動したものからでもある。
この辺で今回はまとめるけれど、病気の時こそよく自分のことが客観視することができる。無理をすることも無理をしないこともなく、健やかにしなやかに流されるけれど流されずいつも元通りというバランスを保つような心と体のことを覚えていきたい。
大切な子どもたちを見守るれるように、私はこれからも強くて優しい竹のような生き方をしていきたい。