留魂の志

今年も無事に萩の松下村塾へ参拝することができ、その志に触れることができた。道を歩めば必ず通る人たちの足跡を訪ねるのはその楽しみを感じることであり、様々な艱難辛苦を天からの贈り物として正しく受け取ることができるに至る。

何よりも天という気を自らの心に悠然と放ち、人の性を尽くすにはその志が根ざす元気によるものであると私は思う。私は多くの方々や師によく「元気が善い」と言われることがあるけれどそれは根源にある志から無限の気が滾々と湧き上がってくるからである。

橋本佐内の啓発録にこうある。

「志のなき者は、魂なき蟲に同じ、何時迄立ち候ても、丈ののぶる事なし」

啓発という意味ではとても力強い自己への発奮であると思う。志がない人は魂がはいっていない虫のようなもので、いつまでまっても何も変わらないということであろう。生き物に魂があり、その魂に気が篭ることで人は体を成長させ世の中で活躍していくのだ。

そして志とは努力と忍耐により根気強く育もうとしなければ内外ともに姿形を顕すに至らない。たとえ誰でもどんな能力があろうがなかろうが志を持って日々に凄めば必ず大器晩成し、そこから万物の変化の魂になりこの世に進化の兆しを刻むことができる。

生死の証は今を照らす漆黒の宇宙にある星のようである。

今年もふり返れば様々な出来事から志を醸成する機会に恵まれたことに深く感謝している。何事もなきことの中に確かな何事かがあり、何事かがあった中に何事もなきことがある。つまりは、万物一切空であるとはそういう透明な存在でありその透明なものでいるということである。

それを魂というのではないか。

その水のような存在が澄んでいれば自然に天の気に流れが近づいていくのだろう、そしてそれを実践することに至誠がある。

その生き方を示してくれた先人の生き方や生きざまこそが私の魂を揺さぶりそして新たにしようとする志を育んで生きる。子どもたちのことを思へば思うほどに、未来に譲れるものとはその魂を留めておくことでありそこに確かな道程を刻むことであるように思う。

勇気を一歩を踏み出し、挑戦し遣り切るような充実した人生を子どもたちにも歩んでほしい。私が師から自然から学んだ心は、この天の気であり、そして人の道を愛するということであることを伝えていきたい。

今年も本当に沢山の出逢いと得難い出逢いに巡り逢いました。皆様との一期一会に心から感謝して、来年も変わらず一緒に歩める道中の心健やかで安らかであることを祈念しています。

勘違い

田舎と都会と違いではないけれど、自然から離れて人間だけで生きていると様々な勘違いをしてしまうことがある。

たとえば、自然はとても厳しく、助け合わなければ生きてはいけない。雪国でもそうだし、砂漠でもそう、または高山でもそうだし海の周辺でもそうだ。本来、厳しい大自然の懐に戴かれ保育されつつ周囲に生かされている自分を感じながら私たちは発達し自立していく生き物であるのだと思う。

しかし、これが自然から離れて人間社会の中にだけ埋没しているとお金さえあれば一人で生きていけると勘違いしだし、コンビニから医療福祉機関、その他さまざまな安全な環境があるから助け合わなくても一人で生きているのだから一人でなんでもできるとさえ思っている人たちもいる。

今の都市化の問題は、一人で生きていると勘違いしていることでありどこまでも甘えられる環境の中で自分ひとりでやろうとして助け合おうとしないでいることが問題なのだと思う。

何かの仕事でもそうだけれど、自分ひとりでできているという勘違いはかなりおかしい。そんなに甘えた中でいるのでは、何でも周囲にお金と権利さえあれば保障されていると大きく勘違いしているだけになる。

そうなってしまうと、結果も一人で出すものだとし大事なことは誰にも頼らず自分ひとりでやろうとして失敗を繰り返し、仲間を創ろうとするのではなくまず自分はとやっているうちに孤立化しお互いが協力しあうことを困難にする。

先日仕事でもあったのだけれど、最初から一人で自分勝手にやっているのに最後にできませんということは一人でやった方が楽だからと思ってしまっているのだけれどそれは大きな勘違いで必ず後で帳尻あわせがやってくる。

たとえば、皆で旅行をするときの車の運転でもそうだけれど眠いのならばすぐに交代するか休むかを相談してやればいいのに一人でできると真面目に過信すれば居眠り運転をし事故を起こし周囲に多大な迷惑をかけてしまうことのようなものだ。

会社でも数字や目標なども自分だけでしなければと過信して勘違いしているけれどそんなことは絶対に一人ではできはしない、会社の様々な人たちがかかわる経営資源を使わせていただき自分がはじめて成果を出すことができるのだ。

それをわかっていないと、いつまでも甘えたまま依存する中で迷惑をかけどおしなのだから自分が貢献していることも組織や集団で自立していることも実感できはしない。むしろ危険なことはその根底に考えが間違った個人主義があり迷惑をかけている自覚がなくなる事であり、そうなれば傲慢になり恥ということを感じなくなることで礼儀を怠ることになる。

配慮とは最後に迷惑をかけないためにもみんなと一緒に最初から助け合って取り組むことである。それは一人でできるなんていう甘ったれた幼稚な考えを捨て去ることである。

そしてそれがもっとも豊かで楽しいことだと感じることだと私は思う。一人でヒーローになっても面白くもない、みんなで一緒に達成するから結果が豊かになるしそのプロセスにたくさんの素敵な物語を味わい幸福を感じることができる。

今は、一人でやれることを目標にしている人が多いけれどそうではなく助けあって生きていくことが皆の中で大切な一人を大事にできたとする方がいい。

いつまでも孤独や孤立の中で完璧主義者を目指すのは、過去の教育の刷り込みや愛の循環が素直でなかったこともあるかもしれないけれど、本来の自然なかかわり、自然な姿を思い出し、過酷な厳しい環境の中でも愛があり、信じ合って幸せを掴んでいたことを今の時代もそのままに進化成長させていきたい。

子どもたちには、一人で生きていくことは一人でやれることだと勘違いさせない皆大切な仲間であるということを生き方で示し、みんなで一緒に協力して愛結び生きていくことが一人で生きていることなのだと社業で取り組んでいきたい。

未来の子どもたちにバトンとしっかりと渡せるように私は大切な絆、大事な繋がりの中での一人としてこの循環の世界の中で橋渡しをしていける大いなる大自然の生命として役割を果たしていきたいと思う。。

弱さという強さ

生きていれば人は成長するために様々なことを体験する。

その中で、それぞれが自分の人生と向き合い、自分の人生でもっとも大切なものは何かというものを知り学び活かしていくのだとも私は思う。

みんなそれぞれ自分のことを知り尽くしている人はとても少ない。他人のことはよく知っているのに自分のことはほとんど知らない。

自分の見ている目が主観的だからであり、客観的に自分を見ている中にも主観的な自分がいつまでも残り、それがあるから正しく自分を理解することができないのであろうと思う。

しかし、志を持って生きていくならいつまでも逃げるわけにはいかないしその全ての現実を受け容れて次の一歩を踏み出していかなければ納得のいく人生を歩めたとはいえなくなる。

人間には、長所もあり短所もある。だから強みもあれば弱みもある。そのことをどう自分が受け容れることができるかというのは、本当の自分のことを知っている必要がある。

本当の自分の姿と憧れている姿があり、そのギャップが埋まらずに苦しんでいる人はたくさんいる。もともと自分にはそれはないのに求めていたらずっと苦しむに違いはない。

たとえば、仮に西洋人のように背が高くスマートで理論的なイメージを持っていたとしても自分がどんな遺伝子で今ができているかをみればいくら表面上は何か靴や服で補ったとしても、しゃべり方を変えてみても本当にそうであるわけではないのでどこかで無理が生じ本物には勝ることはない。背が小さな人が大きな背の人になることはない。

私の同窓に野球部でとても背が小さな友達が野球部の時はあまり良いポジションにはつけなかったが、卒業後競艇選手になって大成功しているという。

誰もが損だと思っていた自分の長所を、それを活かせる環境を自分で見出しそれを存分に発揮することで社会のお役に立つことができる。もしもその彼が、いつまでも背が高くなろうと背伸びをして無理をしたってきっと今の彼が手に入れている自分の本当の強みを生かすことはできなかったのではないかと思う。

そう考えると、弱さとは受け容れないことをいう。

自分の弱さを受け容れないことこそ本当の弱さであり、それができる人こそ自分の本当の強さを知り活かせる人なのだろうとも思う。

私は強みに、最期まで諦めないという強さがある。だからこそ、途中であきらめることや妥協することはその強みを阻害するものであると勘違いしたりすることもある。しかし、最期まで諦めないためにはたくさんのことを捨ててでもやり続けているという実行こその積み重ねで得ていることが多い。

何に絞り、何をやることがいつまでも永続してやり続けられることなのかということもそれを求道していくなかから築きあげてきた自分の強みでもある。

今は、一斉画一の平均教育の環境の中でいつまでも弱さを受け容れらない人がたくさんいる。それを認められずに、自暴自棄になってしまう人たちもたくさんいる。

しかし反対からものを観れば、それこそが素晴らしさであることを体験できるような機会もたくさんえられるほど自分で決めて行動すれば人生を豊かに自然体で楽しく生きていくことができるのだ。

子どもたちには、自分がそれをどこまで示せるかまだまだ頼りない自分だけれど真摯に自分一人ではないことを語り、助け合い、信じあえる社会、見守る実践を深めていきたい。

長い時間かかったとしても、弱さを受け容れることができるような素直な自分の人生をいつまでも前向きに大切にしていこうと思う。

素直に感じる

生きていく中で、自然から学んでいくものに原理原則というものがある。それは「与えるものが与えられる」や、「めんどくさいことを進んで行うことで感謝が増える」や、「自分がしてほしいことを相手にする」など、数えればきりがないほどこの世は目には観えないけれど偉大な法則のなかで私たちは生かされているといっていい。

原理原則とは、そういうこの世の中の絶対的な法則でありその中で私たちは悠久の流れと循環の中で自然とともに生きている。

私も日々の仕事の中で、教えようとすることはその知識や認識の方ではなく素直に自然から学び体得したことを自分の実践を通じて感化できればと思ってしまうことで不自然になりつい原理原則を語っていることを忘れてしまうことがある。

それは考えるということと感じることということの違いでもある。

気が付くと、あいさつも掃除も、また生活のことも祈ることも、受け手が頭でばかり理解しようとされると考えるばかりになり原理原則には気づかれはしない。深い愛情も、そして感謝も、または得難い機会などもすべては素直に感じることで受け取ることができるもの。

つまり原理原則は素直に感じて学ぶことであり、それを頭であれこれとするものではない。まず素直になることで原理原則を教えてくださっているのだと感謝し、素直にそれを実践し守り続けることで本質であることや本物であることを理解することができる。

真似をするといっても、表面上の真似は空マネでありそれは自分に都合の良い解釈をただしているだけであり、本当に真似をするというのは素直にきっと何かあるのだと信じて同じようにやってみながら差異を掴み取り学び抜くことでもある。

頭でっかちに認識することや何か知識を詰め込めばいいと勘違いしてそういう原理原則を学んでいても、どうせ長続きせず途中であきらめてしまい結局は何も原理原則を体得できずにわかった気になって気づくことがない。

これでは、知識だけは膨大に増えても結局は一つのことも悟れなかったとなってしまう。そういう人の教えに触れられないというのは、真理が傍にあっても永遠に理解できないということになってしまうのだろうと思う。

人生とは、何か不自然だったのではないかと感じるところが大人の刷り込みを取り除く出発点であり、原理原則の中に必ずバランスの悪いところがでているのだからそれを修正するのは自分自身でないとどうにも本懐を遂げる道理を身に着けることはできない。

論語にこうある。

「冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而廃、今女画」

冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を説ばざる(よろこばざる)には非ず(あらず)。力足らざるなり。子曰く、力足らざる者は中道にして廃む(やむ)、今汝(なんじ)は画れり(かぎれり)。

これを訳せば、弟子の冉求がいうには、「先生の道や教えを学ぶことを喜んでいないのではありません。私が学ぶ力が不足しているから困っているのです。」それに対して孔子が言う、「力不足のものは、途中まで進んで力尽きていつもそれを途中でやめてしまうものだ。今の君は初めから、見切りをつけてあきらめてしまっている。」という意味になる。

素直でないから、最初から見切っているのであり、素直でないからいつも途中でやめてしまうのだと思う。素直に感じるとは、道を学ぶことを心底喜んでいくことであり、学ぶ力が不足していると思うのではなく、受け取る側が素直に聴こう学ぼうとしないだけであると私は思う。

会社でも、何度原理原則がそうだからと話をしても最初から見切りをつけている人が多い。どうせやっても特に何も変わらないし見返りもないと思うのかもしれないけれど、素直に感謝していれば自分のために教えてくださったのだからものになるまでやり切ろう、やり抜こうとするのが本来の自然の姿である。

学びというのは、何のためにあるのかといえば、心を澄ませ感じる力を伸ばしより周囲の様々な変化に柔軟に対応し豊かに悠然とあるがままに道を歩んでいくためのものでもある。

それが自分のつまらないエゴのためだったり、目先の損得のために学ぶのでは最初から素直な気持ちになることはできはしない。

まず素直であることは、原理原則を学ぶために丸ごと受け取りやり続けることからはじまることであり、自分から先に見切りをつけてあきらめてしまうことでは決してないと自覚することが大事なことだと思う。

いつまでも同じことを繰り返すのは、素直でないからであり、いつまでも無力感を感じて困っているのは力不足ではなくはじめからあきらめているからであると思う。

以前、ある人になぜいつも自分から先にあきらめるのかと尋ねたけれどこれはきっと素直にあるがままで受け取るための素直さがまだ引き出されていないからであるともいえる。

私は、子どもを思えば能力があるなしやできるできないなどとし無理に教えることはやはり決して良いことにはならないと気づいた。

相手がどうであれ、原理原則にそって自分が素直にいることが大事であり、それができないのなら自然に素直に学べればいいなと祈るような気持ちでこういうやり方もあると伝えていけるような感覚を持っていたい。

なぜ分からないのだろうと思って何度も教えてしまうのをやめ、ただ素直でいればそのうちにできるようになると素直な自分の学びの姿勢を伝えていきたい。

自分と異なるのは、ただ異なるだけとし、子どもたちにも素直であれば違いはないとし道理に対して誠実に生きていきる模範を示していきたいと思う。

循環の理

今の時代は、知識欲旺盛な人たちが情報という分野で誰でもいつでもどこででも様々な人たちが自由に発信するものを享受することができる時代になった。

ある意味では便利になり、ある意味では不便にもなった。

便利な情報は人を惑わし、すぐに手に入る分形式的になり長持ちしなくなってきた。そして何度も何度も厭きては捨てという風に、枝葉末節委的で非合理なものになってきた。

全体を観て本当にそれがどのように循環するのかなどをよく自然を観察して合理的にシンプルにしているものは、長く大事にして使えば恒久的に使えるようになる。

しかし一部分を切り取り、安易に目先の利害や便利さに飛びつけば循環できなくなり切り捨てたり付け足したりしているうちにモノばかりが増えてすぐにゴミになって使えないようになる。

ゴミにしないというのは、循環することが前提でいるということである。
情報も同じことがいえる。

私たちの身のまわりの情報も生命もそして全ての物体も大いなる循環の中で脈々と流れて変化している存在であり、それが悠久の流れの中で壮大な時間をかけてめぐりめぐっているものであると思う。

一つの石ころをとっても、あの森の木々を見ても、または私のこの打ち込むパソコンの部品ひとつとってもすべては循環の中で生かされたものであり、それがまた自然に帰り、自然から訪れるというように繰り返しの中で私たちとともに繋がりの中で相互に関係しあっているのだと思う。

そう考えてみると、循環しているということを理解しその循環をいつも善いものにしようとするのは私たちの存在そのものを正しく自分が理解しているということでもある。同じく出会いを大切にするのは、循環するからであり一期一会でいるというのはそういう流転の理に沿って歩んでいくことが大切だと理解しているからできているということでもある。

循環することを知れば、何でも捨てるものもなくもったいないとし大切にしていこうとするのは当然のことであると思う。

地球がくるくる周るのも、月がぐるぐる回るのも、太陽が明々と照らすのもすべては循環の理の中にあり、常に捨てるものではなく次世代に譲り渡していくものであることを語る。なぜなら、今の私たちの使っている道具のすべては今までによって譲られたものだからであると思う。

この世のすべては借り物であり、またお返しをしないといけないものだとしたら自分勝手に自分本位に好き勝手に使うなどということが果たして自然の原理原則に沿っているのだろうかと思う。

本来、借りているのだから使わせていただく側として迷惑をかけないように丁寧に慎重に大事にしつつよりそのものの特性を活かし、循環する世界の一部としてそのものの命を輝かせていこうとするのが本来のあるべき道理ではないかと私は思う。

次世代と思うとき、まず私たちが今、ここで有難く得ているすべてのものが循環するものだとし借りたものを返すためにどれだけもったいなく使わせていただいているかということを忘れてはいけない。この命も然り、出会いも然り、そしてめぐりあうすべてのものも然りである。

資源を今の時代の人たちが全部使い切り、ごみのように捨てるという行動や行為は、自分本位に今さえよければいいとし、それまでの循環を冒涜し今までの流れをせき止めたり変えてしまうことになる。

全部使い切れば、なくなるだけであり、流れを変えればそれは子孫へ流れないだけである。どのようにめぐりめぐっているのかをもう一度考えなおした方がいい時期にきている。

より価値のあるもののために活かし、より少しでもお役に立てるものになりたいと思うことこそ他人の道であり循環の中で貢献したいと願う活かされるものの本質がある。

子どもたちには、すべての世界は循環するのだと私の実践と模範を持って示していきたい。

差別と区別

差物というものがある、例えば相手を自分と同じと思ったり、自分ができることを相手ができないことを蔑んだりする。それを差別という。

極端なことを言えば、早く走れるチーターからみれば亀は鈍く遅いとして馬鹿にする、しかし亀からすれば甲羅もなく水の中も自由ではないチーターのことは馬鹿にする。こういうおかしなことが人間界ではよく起きる。

頭の良く成績が常にトップの人がそうではない人を馬鹿にする。そしてスポーツができる人ができない人を馬鹿にする。よく見てみると、人には一長一短は必ずあり、それは相手が持っているものでこちら側の偏見で相手を決めつけて蔑むことがおかしな話であるのはすぐ分かる。

自分の得意なところや自分にはできるからと、誰かの相手を下に見るということが差別であり人はそういう差別心により自信を失っていくのだと思う。

これが学校教育の一斉画一でもそうだけれど、一つの価値観で一つの長所だけにフォーカスしそれを競争させていることに一体何の意味があるのだろうかと思う。戦争時代に、強くて足が速く忠誠心が強い兵隊というテーマで教え込めば、弱くて足も遅く自分らしく生きている兵隊はどうしようもないダメな存在となるのは明白である。

そういう一つの価値観で奴隷のように生きることを迫られる時代もあると思うけれど、その中でも限られた選択肢に希望を持ち生き抜いた誇らしい人たちもいた。それはもっと崇高なもののために自分を使おうとしたこともあったであろう。一部のエリートが何かを成したように思うけれど、そうではなくエリートをそうではない人たちが信頼して身を任せて大きなことをやったのであろう。

しかし今は自分の意志で自由な環境の中、自立して生きているのだから当然、自分らしく生きていくためには自分の長所や短所を理解し、それを併せて協力し周囲と大きなことを取り組んでいかなければ多様な価値観の中で自分というものを社会で活かしていくことは難しい。

そのためにはまず捨てるべきは差別心であろうと思う。
みんな違ってみんないいというのは、当たり前でありそれは人にはそれぞれで比べようのない特性をどこか必ず一つは持っているのだからそれをを尊重することこそ差別しないということであるという意味になる。

違いとは区別のことであり差別ではないのだ。

区別とは、鳥は鳥、魚は魚というように違いを区別することは世界はそうやってある近い種類のところで分類できるのだからあってもいい。男と女もそうだし、植物と動物だってそれは単に区別ということである。

タイプがあるのだから、それで区別すれば理解しやすいというだけだと思う。それをいちいち上下をつけたり甲乙をつけるから世の中は協力しにくくなり、いつまでも不安と恐怖が社会からなくならないのだとも私は思う。

こういうものをいつまでも教育でやり続けるのはどういうことだろうか、子ども心に比較され差別されれば一生そのトラウマに囚われてしまわないだろうか?職業差別もしかり、男尊女卑もしかり、全部、底辺にあるのはそういう一つの価値観がもっとも善いとしてしまう社会制度と思想にこそ問題がある。

どんな人でもみんなそれぞれに唯一無二の価値があり、それを周囲が活かせばいいということだ。平等であるとは、そういう価値が何も比較されないということであり、公平であるとはいつも与えて手にそういう差別心がない無私の状態であることを言う。

区別というのは相手の弱みや強みを知るためには必要である、そしてそれはみんなで助け合って生きるためであるのだ。

これからも私の心の中にあるトラウマである差別ということも見つめ、子どもたちのためにもそういう自分本位な考えにとらわれないように人間愛を優先し、常に敬天愛人の真心をもって人に接していきたいと思う。

師からの学びを実践で活かし、いよいよ共生と貢献する社会を築き上げるために修己治人の道を究めていきたいと誓う。

現場主義

現場主義とは、現場実践主義のことだと以前のブログで書いたけれど改めて整理したいと思う。現場で起きていることは現実であるというのは、そこに嘘も偽りもない本当のことがあるからであり、実践とはその現実から目を逸らさずに取り組んでいるから気づくことがあるということ。

そして気づいたことから観得てきた全体像に対して、普遍的な今までの大切なものを守るために何を変えるべきかを明確に話せるということでもある。それを現場で継続してやろうともせず、分析した内容や安易な洞察、知識だけを詰め込んだ識者がさも分かったように話すというのでは理想と現実がかけ離れていることにならないだろうか。

王陽明に、「知行合一」があるけれどこれは単に原理原則や真理を知ったからとわかった気にならないことをいい、その実践が常にバランスよく維持できていることであり現場と智慧がいつまでも一体となっていることをいう。

もっとわかりやすく言えばちゃんと現場が言行一致するものが永続できていることである。そしてその現場で気づいたことを同じく現場で気づいた人と協力し共通理解をもって議論することで時代にあわせていくというのが本業や本筋を守り時代を生きるものの責任であるとも思う。

以前、ウォルマートの会長が今でもスーパーマーケットの現場で皆と一緒に働いていると聴いたけれどこれも同じくし、現場にあわせて今の時代にあうようにと会社の制度やシステムを変えているのだろうとも私は思う。

現場の実践、つまりは現実とは理想のことでありその現実を知り尽くしているから理想を実現できるのだと思う。私も今の仕事は、過去から今もずっと現場の傍にいるから理想を追えるのであり、そうでなければ理想などはなく現実もないただの虚像と妄想になってしまうのをよく知っている。

理想と現実とはイコールであり、それは真摯に現場実践主義を貫くということもであると私は思う。現場にいなければ実践しなければ単なる論語読みの論語知らずでは論語の心は継承していくことも受け継ぎ渡して譲ることもできなくなってしまうものだ。

そしその道理である原理原則とは分かるものではなく行うものであり、本当は原理原則は現場実践していくことではじめて知っていることになるのである。それをするのをやめればすぐに原理原則を知っているだけの人になるだけで何か現実が変化するわけでもない。単なる物知りというだけになる。今はこれをはき違えている人が多いと先日、師との話の中で感じることがあった。

たとえば、動物園でいえばどんなに動物園の園長がこうあるべきだということを膨大な知識を得て語っているとしても自分の動物園での現場実践が疎かになっているところで本当のことについて議論できるはずはない。

世界でも、同じく動物を観察し、心を澄ませて動物の声が聴け、動物のことを自分のことのように感じることができる人たちが、何のためやるのかということを正しく持ち、その現場の気づきで語っていることでしか世界標準であることにはならないと私は思う。

子どもでいえば、全世界が持っている普遍的な「子ども像」という太古の昔から脈々と変わらないものがあり、また変えてはいけないものがあり、それは未来を担うのが子どもたちなのだからこそ大人の都合で押し付けたり刷り込んだりしないで、子どもたちがやろうとすることを生き方の実践を示して見守るということと同じことを言う。

大人が子どものことが話せるというのは、子どもから感じてこちらが現場実践で取り組んでいくなかでたくさんの気づいたことを代弁することをいう。それをどうしていくかを話すのが影響力を持った人たちの使命だとも私は思う。

しかし子どもの心になるには、よく自分の心を澄ませて同じ現場で子どもが何を望んでいるのかをちゃんと聴き、あるがままに受け取れる感性と温故知新する伝統の精神性が必要になる。

このような時代だからこそ、本業は何のために行うのかを考え切り、初心に帰り、正しく現場主義を貫くことの延長線上に常に真の世直しがあるのではないかと私はいつも感じている。

言葉だけが強くなっても、知識や知恵だけがいくら鋭敏になっても、本来の現場ができていなければやはりそこは真実のイノベーションは興りはしない。

現実とは理想のことであり、その現実をちゃんと実践し気づき尽くしているからこそ理想を実現できるのだと思う。

常に、実践の中に普遍的なものがあるとし永遠にそこから離れず、わかった気にならないように戒め、現場から気づいたことを本質的な学びとし、その質を高めまた厚くし、永遠に深めることを実践とするようにしいきたい。

子どもの仕事を行うからこそ、自分が独善的にならないように注意し、ずっと今まで変わらずにあった本当の子どもの姿を見守っていけるように本業の現場主義に専念していきたいと思う。

正しいこと

人の心に関わる仕事に取り組む人たちは、いつも繊細に自分が本当にこれで正しいのかを見つめていなければならない。それは医者でも教育者でもそうだけれど、心に与える影響が大きければ大きいほど自分の独善的な考えでなかったかどうかを確認していなければ大変なことになってしまうことがある。

以前一緒に社内研修をした医師の方と会食する中で、「自分が正しいことができるように日々の生活を正して自分よがりにならないようにいつも心を清らかに保つようにしている」というような話があった。

私はこの医師のことを尊敬していて、体だけを見る医者ではなく心と体を一緒に安定安心させようとする真摯な姿勢にとても誠意を感じて、その志の高さにともに道を歩んでいく方だと確信したところからのお付き合いさせていただくようになった。

私たちのオルタナティブコンサルタントという仕事は同じくし、技術として様々な経験や体験を丸ごと自分のものにし、そこから本質的な改善を行えるように具体的な行動と手法を持ち取り組むことと併せて、在り方としての日々の生活を清く明るく素直な心でいつも生きていることで、そこから王道としての本筋に沿いながら正しく安心立命で取り組むことで成り立っている。

これは、如何にいつも相手を「不安にさせずに安心してもらえるか」ということになる。

相手が不安になれば人は自分の持っている本本領を発揮することができない、これは如何にこちら側が全身全霊で取り組んだとしても当の困っている本人が自らの力を封印していたらこちら側の持っている様々なものは行き場がなくなり浮いてしまい竟には無効化されてしまうものになる。

たとえば、医者でいえば医者と患者の力のちょうど合わさった本領であり、教師でいえば教師と生徒のちょうど合わさった本領、その合わさる本領のバランスの中にこそ安心と前進、変化の核融合があ発揮されるようにも思う。

これは、車でいえば片輪では前に進めないように、また片足だけでは進めないように、必ず両方の主体的な行動によってのみ自立し調和したものであると私は思う。

そしてそこから、また新たなものが生まれお互いにいつまでも見守りあう健やかで豊かなご縁や繋がりがより互いの人生を潤いあるものにしていくのだろうとも思う。

まず、私はプロの定義として何をもっとも大事するのかは「不安にさせない」ことであると思う。

何か救ってあげたいという気持ちも、こうしてやろうと思う気持ちも、そこにど少しでも我欲が入っているようなら、そういう気持ちで決して困っている人たちの前に立ってはいけない。

何をするのもそこに相手を尊重する気持ちがなければ変に自分に頑固にこだわっている心の状態であり、そんなに平常心や平安静寂ではない気持では本物の善い仕事はできはしない。

本物とは、「不安にさせなく、安心して身も心も預けてくれて同時に力をあわせる」ことであると私は今の仕事の体験から学ぶことができた。これは自然界に委ねるようなものであり、丸ごと信じることで偉大な自分を信じるということでもある。

こえは昔やっていたような仕事の仕方はとは異なり、思いだけでは人は救えないしそこに確かな正しいことがなければ思いは生きないと今では確信的に思っている。

これは、弱くては人は救えない、そこに確かな強さがあるから優しく思いやることができるのだという意味にも似ている。本当の優しさには、裏付けされた様々な強さを持っているということだ。

思いも同じくして、本物の思いには裏付けされた正しさがあるということだ。

そしてまず自分を正すには、いつも素直でなくてはならない。

素直であるには、無私であり虚空であり、あるがままの無心の境地で清らかに澄んでいなければならずそのために日々どれだけ誠実に真摯に生きているかということに集約されていく。

正しいことをやるというコンサルタントの仕事は、約束を守るや、自他を偽らない、戒律を守り、周囲を思いやり、感謝を行動にすることなど、日々の丹誠を込めた誠実な生き方が決める。

これは何より人として志を持ち道徳的に生きるということなのだと思う。

こういう国家や世界が病んでいる時代は、そういうものを治す偉大医がいる。私の師はそういう人だからこそ、私はその背中から世界や国を治す大医であることの実践と本質を学んでいる。

子どもたちの将来が世界の未来なのだから、いつも正しい心を持ってかんながらの道を歩んでいきたい。これからも私は理想と現実を受容し新たな気持ちでm見守ることに挑戦していきたい。

大いなる矛盾

色々な人たちと話をしていく中で、本人が矛盾しているしていないということがある。

例えば、」時代劇などでも悪代官があくどい証人と組んで弱い立場の人たちを追い立てて自分たちだけ甘い汁をすうようなことをする。それを見ている側は悪い奴だなと思い正義の味方が来たらスカッとしているようなのにそれが自分の周囲での出来事とは思ってはいない。

ゼネコンをはじめ、政治家官僚など今はそういうことを言えばキリがないほど身近にある。これはもはやどうにもならない悪循環がなせる業であり抜け出すにはそれを辞めるしかないほどに渦中にいるとどうしようもないのだろう。

しかし、そういう立場にある人はまさか自分のことをいっているとは思っておらず他人事のように時代劇を鑑賞していることもある。特に自分の立場が正しいと勘違いしてしまうと、全体にとってそれがよいかどうかではなく自分の立ち位置から正論がなりなってしまうのであろうと思う。

それは、昔から言う清濁併せ持つなどという言葉で使われ悪をもって悪を征すなどという言葉もある。しかし本質はそうではないと私は思う。言行一致の誠を貫く生き方をしていれば自分の言葉と現実の世界はすぐに一致しなくなっていく。

だからそうならないように常に自らを反省し、徳の足らなさ至らなさを自ら感じすぐに修正していくために真摯に努力精進していくことで大本の自分というものを正しく理解していくことができる。

嘘で塗り固められ、自分のとって都合の良い言い訳ばかりを繰り返していると自分というものが湾曲されてしまい本当の自分を見失うことがある。

例えば、役職や立場、もしくは自分の損得抜きで素で考えれば果たしてそういう判断をしただろうかと自分に問いてみてもすぐに分かる。みんな人間らしく人格を優先し判断するには力がいる。その力とは真理真実のままに事を運ぶことができるということだ。

しかし、今は有識者といわれる知識ばかりで実践がついてきていない人は大本がずれているから本人の中で誠が矛盾していないことがある。それは単に誠を尽くさないから、より真理が遠ざかるのだけれど頭の中ではおかしいことになっていないのだろう。

これは大変危険なことで、知識で真理を悟った気になっているということだ。

日々の丹誠込めた修行もせず、さも脳の中では色々なことが繋がり真理を悟っている人たちの語る原理原則と一致し、さも共感できた気がすることで人は悟っていると勘違いする。

しかし実際はそうではない、事実は言行一致の現場でのみ語られる暗黙知を共有することでしか真理を悟っているとはいわない。言葉にならない物言わぬ真実こそが本当の意味で実践により語られている真理。

お寺お坊さんもお経を学べばすぐに原理原則や真理っぽいことは語れる。しかし現実の世界で真理を体現するには日々の本気の修行の継続中により気づきを常に新鮮にしていることではじめてそれは姿を顕すものであると思う。

だからこそ私たちもコンサルタントになるとすぐに知識が集まってくるからこそ自分の現場を真摯にとらえ、常に謙虚に現場からずれないようにちゃんと遣り切っていなければ相手を導いたり変革するのが机上のものになるから気を付けないといけない。

ここでのちゃんとやるには、誠を尽くし素直に言行一致させること。それが弊社の理念にあるわかった気になるなということだ。

子どもたちの未来に確かなものを継承する立場として常に真理の傍で実践し、実践の傍で真実を体現するよう日々を怠らず努めていきたい。

独立独歩

社会人になり、自分というものを真に活かさず誰かに依存し自分から果敢に挑戦し試練を乗り越え自信を持ち、自分の存在が周囲や組織や会社にとって本当に価値があるものだとするためには独立自尊の精神で自立することが必要になる。

以前、子どもの頃、親元から離れるのが怖くていつまでも自宅に引きこもっていたら今はなかった。はじめての外国への留学、はじめての就職、はじめて仕事、はじめての困難、はじめての孤独、すべてははじめてのものばかりに取り組み、その中で自分を成長発達したことで今の自分があることを知っている。

人は、新たなことにチャレンジするときはいつも初めてのことであることが多い。それを恐れて、誰かにひっついて教えてもらうことばかりになっていたら自分が自分本来の独立した力でやり遂げたとは思えず、そのことから周囲に感謝することもできなくなってしまう。

本当に自分の力でやり遂げて結果を出せば、それが多くの人たちの見守りの中であったことを心底実感することができる。それを最初から他人の力をあてにしていたら結果がでても、それが自分の力でとは実感できず自分のためにやってもらったと思うようになる。

人は、相手の強い力で援助や援護があるとき、より主体的な自分の力でその援助援護を受けとり挑戦することで互いの信頼関係を基盤に大きな仕事を勇猛果敢に取り組んでいくことができるのだと思う。

福沢諭吉の「学問のすゝめ」にこういうことが書いてある。

『独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。』

意訳すれば、「自立しようとする精神がない人は、必ず他人をあてにする。他人をあてにする人は、必ず他人の態度を気にし恐れるようになる。人の態度を恐れる人は必ず他人にこびへつらうようになる。いつも他人にこびへつらうようになる人は次第にそれが習慣づいてしまい、仕舞には表面上はまったくその様子がわからないようになり、恥ずべき出来事も言動も恥ずかしいとは思わないようになり、本来大切な議論をしなければならない時にもそれをせずうまく誤魔化し、他人を見ればただ頭を下げて反省すればいいと思っている」という感じだろうか。

これは本当に悲しいことだと思う。

自分の力でやってやるんだと自分を発奮させ本気になり、何が何でも結果を出すのだという強い信念で物事に対峙し、真剣勝負で最後までやり遂げる。それがどのような結果になったとしても、全身全霊でやりきったのだから悔いはないと思えるほどに生きようと思える自分と仕事に出会えないのかもしれない。

いつも与えられて、いつも当たり前にあると思ってしまうと、独立自尊の精神は衰えてくる。厳しい環境の中で、常に結果と理想と現実を受け止め、自分が陶冶されていくから成長はある。

甘えられるぬるま湯では、陶冶ではない。陶冶される環境に身をおくとは、いつも厳しい修行の中で時には激しい困難と向き合い、時には大変な大仕事と対峙し、時には腹が煮えわたるような苦しさの中で耐え忍び、それを命を懸けて取り組み成果を掴み取ることをいう。

黙って口をあけていれば自然にはいってくるものではなく、自分から自発的に勇猛果敢に挑戦する気概と、師とともに佳境に入る決意がいる。

中途半端な気持ちで、そんなに自分が成長できると思っている時点でそういう独立自尊の精神を発奮することはできないということに気付かないといけない。

今の時代は、親の過保護過干渉の中で親が助けてくれることは当たり前になっている人がとても多い。社会人になっているのだから、当然いつまでも親に迷惑をかけるのではなく親を支えていこうとしなければいつまでも幼稚なままで何も成長していないということになる。

社会で自分が役割をいただくにも、自分で独立する決心がなければ社会に益するような仕事はできはしない。

子どもたちのためにも、まずは独立独歩の独立自尊の自らの精神をとことん練磨し修行することを優先し、より自立の素晴らしさを伝えていきたい。勇気とは、本当に大切なものを守るために使うものだと伝えていきたい。