懈怠

人間関係を思うとき、いつも人間はお互いのことを尊重しあい配慮しあうことで善き繋がりや成長を楽しんでいけると思う。もしもこれを怠り、相手のことを考えなかったり、自分本位に頑固に押し通していたらどうしても相手の自由を妨げてしまうことになる。

よほど我慢する人でも、それが毎日ともなれば耐えられなくなりある人は病気になり、またある人は感情的になってしまうものだと思う。

自分の考えに凝り固まっていると、どうしても人の忠告や人の助言を素直に聞き入れることをしなくなっていく。それは、いつも自分が考えているところに照らしているからでありそれが積み重なって変なプライドができてきたりとしているうちに周囲を遠ざけてしまうようになる。

人は、あまりにも自分自身で考えてしまうと自己本位になってしまうことがある。たとえば、自分ばかりを責める人は一向に周囲の助言を聞き入れようとせずに自分の欠損した感情を満たそうとばかりに躍起になり独り引きこもっていく。

自責の念とは、誤解なくいえば自分依りの考えであり相手のことを思いやっている余裕などもなく、常に自分の心の不安を解消したいがためにのみ周囲を存在させようとする傲慢な態度である。

以前、アインシュタインがこんな言葉を遺している。

「なぜそんなに自分を責めるんですか?そんなことをしなくても周りがちゃんと必要な時に自分を責めてくれるのだからいいじゃないですか。」

これは、自分で自分を責め続けることの意味のないことを示している良いたとえだと思う。つまり、お互いの問題を一緒に解決しようと思えば自然に対話して関わり合い解決していかなければ一人では解決できはしない。しかし外界との接触を極度に嫌がり、自分の世界だけですべて解決しようとすれば次第に自分を責める世界にどっぷりつかってしまう。

本当は相手が自分以上に困っているのに、いつまでも自分ばっかり困っているとしてしまったらそこに解決の糸口は見いだすことなどできはしない。もっと周囲の率直な意見に耳を傾け、周囲が自分に直せと言っている部分や、それは間違っていると指摘していることを素直に聴き入れることであると思う。またそういう態度をとっていることで周囲は安心してその人のために何とかしてあげたいとし、感謝の心を循環させて善い人間関係を広げていくことも深めていくこともできるのだと思う。

しかしその逆にいつも周りからの善意を無視し裏切り続けていたら、そのうち自分のためにと真摯にアドバイスしてくれる人も次第にいなくなっていく。そうなると、様々なことを独りよがりに対処するような習慣がつき仕舞には何をやっても誰とも人間関係がうまくいかないと感じるようになってしまう。

表面上の浅いものでいえば、誤魔化せても本当に深く厚い関係になるにはその自分だけの世界から抜け出さなければならない。全部素直でないから起きる現象だということに気付くことだと思う。

私も人間のことが好きだから気を付けていることながら、ついそういう人に接するとどうしていいかわからず、気になってしまいそのうち緊張感が続かず関係づくりを維持していくのに怠惰な気持になることがあり配慮に欠けてしまうことがある。

キャッチボールはお互いの心の通じ愛であり一方的に投げ続けるのは根気と忍耐が必要だけれど、何度も何度も話をしてもそれを毎回無視されると嫌な気持ちになってしまいおごりたかぶって態度が傲慢になってしまうことがある。

夏目漱石に、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」

とあるけれど、人間界というのは本当に不可思議なところだと思う。

私もそろそろ観念して他の方法を考えるのをやめてこのままでいいと悟り、その環境をどうにかするよりそのままで善いことにしてしまいたいと思う。

どんな理由と状況であれ、自分が何のために志を立て社業にまい進するのかを忘れず子どものためにとあるのであれば、反省し、刷り込みが深い人をも受け容れ見守る実践を通して気づいたことをお客様や世の中に還元するようでなければ自他に誠実になったとも言えない。

善意というものは相手に左右されるものではなくいつも自分が大切にもっているものでもあるからして自分自身は誠実さと素直さを優先し、丹精込めた実践をしていきたいと思う。

信仰も同じく、偉大なものに対して自分が素直でなければ自分を責めるばかりになったりしただすがっているだけになってしまうもの。大切なのは、世界に真っ直ぐに心を開き素直に自分のあるがままに周囲の暖かさを感じることである。

子どもたちを思えば、孤独になりがちな時代だからこそ私はいつも暖かな眼差しで優しく強くいれるような大人のモデルでありたいと願う。

素心と迷惑

自分へ誠意や真心を持っている人でなければ、他人への誠意や真心を持てるはずがない。自分を騙している時点で、他人へ誠実であるというのは嘘になるからだ。

故事にもある「我が身に偽りある者は人の誠を疑う」というように、いつも自分を偽っている人は本当の人の真心を受け取れる準備ができていないとも言える。

だからこそ、本質的に自他というのは同質であり隠すことも誤魔化すこともできない。浅く短く広く付き合うにはいいけれど、長く深く厚く付き合えば必ずわかることでもある。

そして自分に潔癖というのも、他人にもそうしたくないから潔癖なのであることが多い。

たとえば、ある人が馬鹿にされているのを見るととても嫌な気持になる。本人は良いのだろうけれど、自分はそれをしたくないと思うからそういう話には付き合わないようにする。すると「何か自分は特別で汚れたくないのか」などと絡まれることはあるけれど、そうではなくて自分への誠実な心を守るためにできないだけである。

自分を大事にするというのは、自分の心を偽らないということでありそれは素心でいつもいるということでもある。他人と本音で話し合えるというのは当然、自分自身の心とも本音で語り合えるということでもある。

他人との対話がうまくいかないのは、自分の感情を偽ったり、抑え込んだり、抑圧したり、逃避したりとしているからできていないということがほとんどでもある。

人間関係は、特に自分本位でしか考えない人では円滑にコミュニケーションをはかったりすることができずにいつも問題を起こし周囲に迷惑をかけることがある。何でも自分の殻に閉じこもった判断をすると、近視眼的になり、さらには視野狭窄になり必ず周囲に迷惑をかけてしまう。

福沢諭吉に下記がある。

「自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。」
「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である。」

これは、エゴで我儘を通す際は必ず自分以外の誰かに迷惑をかけてその人たちの自由を妨げているからおこるということである。自由とは、全体を優先しそのために自分から進んで協力を惜しまないことでより思いやりと調和を築き上げるいくことをいう。

また下段は、みんなで決めていることを実行しているものたちにとって最も邪魔をし反抗をし批判的であるのはそういうことを破り、いつまでもみんなで決めたことも実行しない思いやりに欠けた人をいうという意味になる。

つまりは、こうなってしまうと周囲の忠告には耳を傾けず自分を責めることや自分ばかりや、自分がやるべきなどとを繰り返し、一向に周囲に心を開かなくなる。

それでは、どうしようもないのがこの「人間関係」なのであると私は思う。良き友人も、兄弟も、家族も、師弟も上司部下も、築き上げることができないのだ。

人は決して一人では生きていけない、多くの人たちが全部存在しているから自分がいることができる。自分にとって都合の良い人たちだけが必要でそうでない人たちは不必要ということでもない。

だからこそ、「人に迷惑をかけてはいけない」と祖父や祖母からもよく言われたようなことができないといけないのだ。これは本当に大事な言葉だ。

自分はどうせ迷惑ものだからとふてくされているけれどそれは間違いで、すべての人たちはみんな違ってみんないいのであり、「神様が創ったものに不必要なものは一つもない」とも言うように、万物すべてが必要だからこそ、とにかく「迷惑をかけないような人になりなさい」と愛情深く私たちを丸ごと包んでくれている存在を感じることができたのだと私は思う。

人は、子どものような素直な心、素の心のままに、自他に誠意がなければ周囲との関係がおかしくなってしまう。自分の心に誠実であれば素直でいられる、そしてそれだけをしっかりやっていたら周囲に自分に指摘をしてくれる優しい仲間や有難い恩師が現れいつも正しい方へと導いてくれる。

だからこそ、心はいつも素のままで清らかに澄ませているために自他を思いやり誠実に周囲へ心を開いたままにしていることだと私は思う。それは、他人に迷惑をかけないような人になりなさいという思いやりのある言葉で語り継がれていくようなもの。

今の時代は、間違った個人主義や画一教育の弊害もあるのでより苦しんでいる個人がたくさんいる。私たちは社業を通して今の時代の大人としての実践を大事にしていきたい。

カグヤでは、これからも子どものたちのために誠意や信頼の基盤を優先し変化を楽しんでいきたい。

マナー

先日、社内で「一流のマナーとは」という題目でマナー研修を行った。兼ねてより子ども第一主義の会社で行うマナー研修は単なる世間や学校で教えているものとは異なる観点があり、その本質を誰とともに行うかについてはとても長い期間悩むものがあった。

それぞれの成長を見守る中で、それを感学するタイミングを思うといつもながらこの社内研修という教えないための研修を行うことは本当に難しい。人が育つ環境を用意し見守るとは教え込まないことを言い、それは社員の成長をよく観て感じてじっくりと待つ忍耐が必要になる。

講師に選ぶ人は、いつも人間的魅力のある人を選び、決して偉い人や肩書きがある人、世間から有名かどうかを基準にしてはいない。やはり人を感じて御縁を辿ることはその人柄が香ってくるように一瞬の出逢いの中にあるものを察知し、それをいつまでも覚えておき何かと遠近あり関わっていく中でその人の人間味や生き方の真摯さを感じられる人がいる。

今回、講師にお願いした人は人事という仕事に長けている顧問が紹介してくれた尊敬と尊敬で結んだ御縁であり、改めて研修を受けてみるとそういう真摯に他人を思いやり人間を大切にする人だったのは本当に有難いなと感謝に満ちます。

マナー研修といっても世間では挨拶から身だしなみ、その他、公共の中での振る舞いや作法など切り分けて学ぶものと、相手を慮り気遣うといった、人と人とが心地よく生活し協力していくために信頼や信用、誠意や真心、思いやりという本質とを学ぶものがある。

これをどこから教えるかとなると、マニュアル化されたものを使えばある程度表面的なものは学ぶことはできる。しかし実際のビジネスの応用の場面では、もっと緩急あり重厚ありなど体得していなければいけないものもある。

私は以前、営業という仕事を長いこと行いそのマナーについて徹底して覚えた。最初は、相手がどうやったら自分に出会えてよかったと感じてもらえるか、心地よく感じてもらえるか、それを悩み切った。その際、自分が相手に出会えてよかったと常に相手の新しいことを発見し、相手を尊重し、竟には尊敬するようになることだということに至った。

その後は、自分がその型を崩すことでもっと自然に相手に関われるようになるのではないか、もっと深いかかわりを瞬時に持ちたいと願い、日々の生活や相手を思いやる気持ち、相手のことを自分のように好きになるように努めて、今では自然体でいつも人柄と真心で感化しあい高め合いたいと思うようになった。

苦しんでいる人がいれば、一緒に苦しみ、楽しんでいる人がいれば一緒に楽しむ、子どものようだと言われることが増えたけれど、そういう時間こそが相手を本気で大切にしたいと思っているから不思議なことだと思う。

自分のスタンスを変えないためには、裏表なく、きっと相手にも何か自分にわからない大変なことがあるのだろうと、真摯に傾聴し、共感し、受容していくことで自分自身の生き方を照らし、自分を励ますように相手を励ますことも人とのかかわりでは大切なことだと今では思っている。

そして、今回のマナー研修にて私たち会社が学んでいることは社会の上での信頼と言う言葉になる。

人は一人以上で構成する集団に於いては、社会と言うものが存在する。それは家族でもそうだし、兄弟親戚でもそう、会社は勿論、地域などもすべては社会の中で自分が役割を担うことになる。

その中で、もっとも絆があることはお互いが安心しているということになる。人は安心することで自分の持っている力を存分に発揮することができるようになる。不安だとそれをすることはできない。

しかし、集団では自分と言うものを自分本位でばかり考えていたらそのうち自分が外れていくような感覚にあい独り孤独になってしまうことがある。それはいつも不安を感じているからということになる。

ではなぜ不安を感じるかと言うと、まず自分本位でいつも自分のことばかり考えるからというのが本質なのだけれど、具体的には例えばお互いが決めたルールを自分から自発的に守ろうとはせず、相手にばかり求めたり、いつも相手のせいにばかりして、そのルールをいつも自分都合でばかりでいるから他人との信頼関係を築くことができなくなる。

つまり実践でいえばルールを守ることを積み重ねることが信頼を構築していくこと。例えば、あの挨拶でもそうだし、約束でもそう、そして決めたことを自分本位で左右せず周囲を思いやって自分が最期までやり遂げることもそう、そういう「日々実践の積み重ね」を通してしか人は他人に信頼されるようにならないということ。

今は信頼を踏みにじる人が増えていて、信じてくれている人に対しても自分勝手に相手を推し量ることをし、その決めたルールを守れない理由をいつも外のせいにし、言われたからしぶしぶというのでは、受身になっているのだから仕方なくやらされているとなれば何のためにやっているのかが本人が分かっていないのだから信頼関係など築けるはずもない。

一度、決めたことはどんな理由があっても自分の都合で曲げてはいけない。
それをしたら、今まで積み上げてきたものをどんどん壊していくことになる。

普遍的な一流のマナーとは、相手のことを深く尊重し、周囲に配慮し、日々の約束を守るという実践で信頼を築き上げていくことを言う。

今回は、最初に講師の方から陽明学の知行合一の話を聴かせていただいた。

知っていることは行っていることであり、行うからはじめて知ることができる。つまりは分かれているものではなく、それは日々の営みの中で気付き掴んでいくものだということを示唆していたのだと私は感じている。

日々の営みこそのもの。

如何に日々の行いに礼儀を感じて真摯に生きているか、道で出逢う方々、そして一期一会での御縁に感謝しきっているのか、それを口先で語るのではなく、身近な約束を自分から自発的に徹底して守って、周囲に配慮しているという実践のことを言うのだと思う。

コンサルティング会社にとって、その社業生命に於いて何よりも大切なのは「信頼」という言葉。これに勝るものはなく、これに劣るものもない。

今の社会では、欺瞞と詐欺や不安や不満に充ちている場面によく出くわすことがあるし悲しいニュースを見ては感じるものが在る。だからこそ世直し行とはそういうところが原点であることを私たちは決して忘れてはいけない。

表面上のビジネスのうまくいったやいかないは、近視眼的でありあまり意味をなしはしない。永遠の仕事、持続可能な仕事とは、日々の丹誠を籠めたその生活の姿勢にこそある。

コンサルタントとしてどうあるべきか。

自問する方々がいるので、書いてみましたが私は信頼こそが第一優先だといつも思っています。子どもたちが安心して暮らしていける世の中のためにも自分は一切妥協せずに取り組んでいきたい。

善き御縁に新ためて感謝します。

光の一燈

この世の中の現象として、与える側と受ける側というものがある。しかし本質的に考えれば、受け取る側の姿勢や受け取り手の受け取り方によって、感受する質量は変わってくる。

例えば、会社で言えばある人は「こんなによく社長にはしてくださって」と感謝していてどんなに厳しい環境下であっても甘えられる環境下であっても、自分の受け取り方をいつも善い方へと転換して受け取っている人がいる。またある人は、「こんなによくしているのになぜ」といつも矢印は相手や会社へ向けて厳しい環境下では愚痴を言い、甘えられる環境下では律することもできなく、いつも受け取り方を損な方ばかりに転換して受け取っている人もいる。

これは受け手の問題であり、与えて側は誰に対しても同じく与えているのにそうではない人がいるということだと思う。よく人は、あの人は気に入られるタイプで自分は嫌われるからと言っている人もいる。実際はそうではなくて、受け手側がどれだけ素直に善い方で受け取ろうかという生き方の問題であるようにも思う。

つまり、これを自然界に照らせば太陽はいつも同じように光を出している。しかし受け取る側が、捻くれていて、「あいつばっかり照らして」や「こんなに光っていたら干からびるだろ」や、「眩しすぎて困る」なととなっているのは太陽のせいではなく、受け手の転換する主体的なかかわりが欠落していることでもある。

人間には矛盾があり、愛が欲しいと切望しながら相手の愛を量り、相手の愛を欲しようとするけれど、本来の愛とは、変わらないものであり、いつも愛情深く慈しむものであるのにそれを欲しがるのは受け手の問題である。

自分本位に生きていれば、自分のことだけしか考えず自分勝手にやっているのだから当然受け手側はいつも欲しがることばかりを要求することになる。しかし、よく周囲を思いやり他人のことを自分のことのように配慮していれば受け手側はそれをどれだけ皆で味わえるかや感謝していこうという心持になっていくもの。

よく感謝が足りないと内省する人がいるけれど、それは必ず自分本位であるのだから仕方がない。本当に真実の愛が欲しいのならば、愛がある方と同じく側に立ち、自分から同じく愛を発していなければそれは観えはしないし感じることもできず当然それは永遠に手に入れることはできはしない。

どうせ与えて側は、信頼も信用も、そして愛も優しさも、同じ量を発しているのだから受け手側がしっかりと素直に受け取る気持ちがなければ愛を感じて希望と勇気を出して幸せに生きていくことはできない。

そういう人は、よく周囲を見て、同じなのに受け手側の力でいつも善いものとして受け取っている人を真似をして少しずつでも受け取る質量を増やしていければいいのではないかと思う。

師に以前、「太陽にように」と言われたことがあるけれど、これは自分が自らが光っているということであり、それは相手にあわせて頑張って光るのではなく、相手にあわせて光を出し惜しみすることでもなく、自分そのもののあるがままで自然に照らしていることを言っているのだと私は思う。

私は、自分の照らす分を相手が欲すれば欲するほどに与えようと無理をしてしまい相手を焼いてしまうことがある。もしくは、足りないと言われるとではもう照らさないと無理をして自暴自棄になってしまいそうな時もある。

しかし本来の太陽であるように、子どもたちを信じる眼差しと同じものをこれからも自分は発していけるように実践していきたい。

あの陽の光に癒され、あの陽の光に暖かさを感じながら、生きていく優しさを強さ感じながら希望を持って歩めるように、これからの未来の子どもたちのためにもまず自分自身を太陽に習い修める実践を大事にしていきたい。

他人に左右されず、常に自分から光りを発する一燈でいたい。

かんながらを感じる道は、その光を放ちあう大きな和の中にあることを忘れないためにも自らの光を発する方を大事にしていきたい。

澄心静慮

色々な出来事が起こる中、私が解決できることとそうではないものがある。

例えば、自分自身を修めることや自分自身の信念を醸成し、日々を強い意志で歩んでいくことなどは自分でできる。しかし、相手のことを心配し過ぎてしまい揺らぐと周りに流され依存してしまうと相手が自分で修めないことまでにおせっかいをやき、自分が体調を壊してしまうこともある。

まさに、論語にある「過ぎたるは及ばざるが如し」で必要ないのに相談に乗ったりすると出しゃばりすぎることがある。

いくら他人のために自分を使って、人々の悩みを救済したいと念じても、それが単なる過保護や過干渉と言ったおせっかいになってしまったらそれは力の使い道を間違っていることになる。

自分自身の問題は、自分自身で解決するしかなく、如何にこちらが親身になったとしてもそれはどうしようもない。

ただ、自らが信じるだけである。

過去に信じられてこなかった人たちは、信じるということを苦手にしている人が多い。それは自分自身を裏切ってきた過去から自分を卑下し、何かと行動する前からできない理由を探して自己弁護をしようとするものだと思う。

しかし、そこに信じてあげるや信じ切っている人の存在があれば人は思いきって勇気を出して人が変わっていくのも人間の持っている不思議な力だとも私は思う。

そして相手のことを信じるには心の力がいる。

表面的なものをみてもそれは本当に信じているのではない、信じるとは善悪もなくそのものを丸ごと信じることであり、それがその人にとって全て必要なことだったと思いやることでもある。

人はつい心がざわついてくると、自分の立場やモノサシから相手の善悪を決めつけようとしたり、また偏った判断で迷い悩むこともある。そこから抜け出せなくなると、頭痛の種になったり、いつもそこに心が囚われてしまいそのことばかりが頭から離れなくなることもある。

そうなると、平常心や不動心が揺らぎ、信じることも揺らいできて本人自身も安心や安眠などもすることができなくなる。信じると言うことは、心が安心していることが大切で何も考えないでいられるのは心が信じ切っているからでもある。見ている目や聞いている耳ばかりを使っているとどうしても頭で考えてしまうから心の力が落ちていくのだろう。

そういう時は、経験として一度そこから離れて心を澄まして静かに慮る環境が必要な時が私にもたくさんある。忙しい時や病気がちの時など、尚更そういった無為自然に委ねる時間は自然治癒にはとても必要なことだと私は思う。

論語、大学にもこうある。

「止まるを知りて而る后に定まるあり 定まりて而る后に能く静かなり。 静かにして而る后 に能く安し。 安くして而る后に能く慮る。 慮りて而る后に能く得。」

至善に止まっていれば、次第に定まってくる。そして定まってくれば静かに穏やかになってくる。そして静かであれば安心してくる。安心していれば思慮深くなる。そして思慮深く慎んでいれば次第に事は為る。という感じだろう。

つまり「澄心静慮」、心を澄まして静かに考えていればいつもの自らの真の心の居場所に戻っていることができると私は思う。そこに安んじたまま穏やかに考えているとそこから観えてくる境地がある、そこにいれば信じることができる。

そこに居て信じたまま心を澄ましていると心眼や心耳が開いていき、あるがままに物事を正しく受け容れ、自らの命を悠久の流れに委ねることができるようになる。

静かであること、心を澄ますことは、独り慎み、道を歩くことに繋がっている。

日々繰り返す中で、身を修めるために様々な自戒を持つのも、俗世間での喧騒を棲み分けながら天道地理の戒律を守りつつ、その自らの明徳に添っていくためにも必要なのだと私は思う。

今は、何かと不信や疑惑のニュースや不安定な情勢ばかりを煽り立て人々を盲目にし視野狭窄にする情報が蔓延っている。

こう言う時こそ、心を澄まし静かになって思慮する時間が必要なのだろう。

子どもたちにも、安心して暮らせるための工夫としてこういう体験を通じて見守っていけるような状況も将来は創り上げていきたい。今の時代はどうしても心の水が不足したり流れなかったり、濁ったりしやすくなっている環境がある。

それを自分自身が自修自謙の実践の中で澄まし、平穏無事な生活を通して人々を導ける側でいるように修練を積んでいこうと思う。達人まではまだまだ遠く、せめては無為自然の道楽を楽しめるよう努力精進していきたい。

温故知新

以前、長野県の善光寺に参拝した際にお戒壇巡りというものを体験したことがある。その道すがら暗闇の中で本物の秘仏を自覚し、秘仏に出会うという言い伝えがあるようにとても荘厳な雰囲気を味わうことができる。

人は、五感というものを通して様々な物事を自覚し感受し物事を善く観ることができるようになる。一概に言葉や目でばかりを追っていかなくても、自然に心を研ぎ澄ましていけば離れていてもその様相を感じることはできるのだと思う。

感情と言うものがあり、人はその感情があるから判断を迷うことが多い。

義理と人情や論語と算盤ではないけれど、どちらだけでは生きられず、様々な矛盾を受容しつつ、本物の境地や本質でいるには日々の修養と精進の為せるわざであると知りつつも喧騒に流されるままに何もできずに煩悶することがとても多い。

この暗闇というものは、主に目に観えない世界を言う。

その戒壇でも、漆黒の闇の中、最初に目を開いていると次第に闇が深くなっていく恐怖に心が奪われる。そこで開き直り、目を閉じてそれ以外の感覚に身体をあわせていけば次第に心が研ぎ澄まされてくる。指先や肌、そして小さな音、空気の様子や香りなど、次第に心が自由になっていくのを感じる。

そして始めも終わりもなく、ただ闇だけがあることに不思議な安心感を覚えてくる。私はせっかちだから、早く早くと思うのだけれど一度闇を受け容れればそんなに早くとは思わず静寂にいることの心地よさなども感じることができた。

とても長いようで短く、浅いようで深いその漆黒の闇は、様々な心に捉えている出来事を走馬灯のように蘇らせてくる。色々なことを考えていることから、心が虚空ではなくなりざわついているから他の感覚が鈍くなっていく。

瞑想することも、静かに自らを内省することも、それは感覚を研ぎ澄まし、広大で深遠な自分というものに帰りそこから本質を捉えていくということであるのだと思う。

長い歴史が在る中で、人々がこの仏に出会いたいという切なる思いを大事にしてきたことがこの御寺が多くの人々に深く愛され続ける由縁であろうと実感することができた。

こういうことを、様々な体験を通じて仕組化し人々に思い出させていくというのも今の時代では切に求められてくるのかもしれないと私は感じている。

今、カグヤでは様々な研修を通して、もっと子どものことを思い出し、子どもの心に回帰していく取り組みをコンサルティングを通して行っている。そしてそこにはどうしても目には観えないものを伝えていくことも必要になってくる。

そのためには変だと人に言われても、独自の表現を使い伝えていく必要がある。余裕やゆとりでもそうだし、共感や尊重なども口で言って分かるものではない。そしてそれは単にテクニックでできるものでもない。

昔あったものを新しいものに変える温故知新は、決して単に今の時代にあわせて新しくすればいいというのではなく、古きものの中に味わい深くある最先端のものを、今の時代の最先端のものとお見合いさせ、その両方の価値ある部分を重ね合わせて刷新するということが必要なのだと思う。

つまり、古いものはそのままに探究し極め玩味し、新しいものもそのままに探究し玩味する。つまりは、同時に古新の最先端を追い究め尽くすことこそが温故知新ではないのかと私は感じた。

偏って一方だけの観点からでは本当のことは分かりはしない、その時代、その時代に生きてきたものが其処に在る。だからこそ、今の時代、そしてこれからの時代に生きているものがその両方を究め、そこに真の文化を継承していくことが本筋の道であると思う。

心が荒廃する時代は、仏教や神道、儒教、そして欧米の知識やIT技術、さらにはマネージメントや科学などをすべて融合した新たなツールが必要とされていく。

私は私の立っている場所から、その方法を編み出し、子どもたちが安心して暮らせる未来と社会の礎を用意したいと思っている。カグヤのツール全てはそこから発案されているといっても過言ではない。

私にとっての一つのこととは、そういうものを大和魂で生み出していくこと。そこには人や物など全ては不問であり、ありとあらゆる自然の根源的な部分を具備したものであるべきままにあるがままにとしていかなければならない。

これからも、子どもという神秘な存在に寄り添っていくのだから私たちは社業を通じた実体験と実践を以て未来の子どもたちとともに温故知新の道楽を究めていきたい。

みんなで一緒に

何か大きな事をやろうとし、力をあわせて成し遂げるというのは自分以外の人たちの支えがなければできはしない。自分一人でいくらやろうと思っても、それには限界があり私たちの生きている社会は此処なのだから人々の中でしか成し遂げられることもない。

しかしみんなでやることと一緒にやることを勘違いしている場合がとても増えたのは残念なことだと思う。これは、要素は複数あるのだけれど特に大きく関係しているのはグローバリゼーションという資本競争の中で自分は自分のものなのだという歪んだ個人主義が蔓延し、周囲を信じなくなり不信や不安などで心の余裕と潤いがなくなれば誰かと協力をするというのを潜在的に忌み嫌うようになるか怖がるようになる。

それでもやらないといけないのだからと一応みんなの意見をすり合わせたからという単に集まったというだけでやったのだという落とし所を持ちあうのだろう。

先日、ある有識者の会合の話し合いの様子を聴いて実際はみんなで足並みをそろえることを重視しているだけで事無かれ主義と暗黙の了解のうちに、結局は先送りということをやってしまっている。どの業界も結局はそれかと思ってしまうと、みんなで一緒にやるということをどれだけそれぞれが理解して調和をしているのだろうかと思う。

私は「みんなで」やるのと「一緒に」やるのは同じではないと思っている。

例えば、みんなでやるために毎回会合を繰り返し、集まっても誰も自分のことだと思って考えていなければただ表面上はみんなでやっているように見せたって、一緒にやっているわけではない。それは見た眼は集まって話し合っているように見えるけれど実際は個々が自分勝手にやろうとしているだけであることが多い。

私が思う「一緒に」とは、離れていても自分のことのように真剣に考えているから相手のことも全体のこともその問題も自分のものになっている。そういう人たちがみんなで集まるから三人寄れば文殊の智慧ではないけれど不思議な力で解決していくことができるのだと思う。

人は、最初から相手のことを信じるか信じないかとしていたら何も協力できないしチームで働くこともできはしない。そんなことばかりに囚われるから表面上の「みんなで」に持っていかれて時間と共に疲弊していくし、本気で正直にやっている人たちは疲れはててしまい、どうでもいいと思っている人たちのためにやるような話し合いになってしまうのだ。

そうではなくて、「みんなで一緒に」とはもっと意義深く、たとえどんなに距離があってもどんなに異なる立場や環境でも、共通の課題を本気で自分で考え抜き、その夢やゴールを共有するからこそ一緒にやっていると思えてくる。そしてそういう仲間がみんなで取り組んでいるから、偉大なことは成し遂げられるのだと私は思う。

みんなでとは、身体を一つに集め協力していくことであり、一緒にとは、心を一つにして協力していくことである。つまりは心と体が一つになることをみんなで一緒にというのだと私は思う。

まず心を一つにするには、自分の心をまず相手と同じ課題に寄り添いそれを自分の問題として受け止め本気で取り組むことがいる。そして心をあわせたまま身体を一つにするには、みんなでその場や間などを共有し感覚を五感六感で感じ取りその中での出会いや奇跡などという閃きがくるのを根気強く待つことでもある。

どんなことも調和や融和、そして新しいものが発明される時はこの心と体をあわせていくことが何よりも優先されること。そして人間は、たとえ一人では何もできないちっぽけな存在でも多くの人たちと力を合わせれば凄いことをやる生き物であることはこの世界と街並み、科学や偉大な聖人を見てもすぐに理解することができるはずだ。

だからこそみんなで力をあわせるには、個々が本気で自分から考えて自分の問題として誰に期待するのではなく常に自分こそがやるのだと高い志を持って発奮し立ちあがり、そういう個々が一緒になってともに勇気を出して力をあわせていこうとしなければ本物の変化を生み出すことはできない。

もともとこの国は、大和(やまと)の国。

つまりは「みんなで一緒に」ということを聖徳太子の時代にその国家理念を可視化して、いつまでもそうやって取り組んでいこうと決めたはずでそれをみんなも喜んでみんなで一緒にこれまでもずっとやってきたはずだ。

それが少し海外から新しい理念が入ってきたらそれに偏ってしまうのは本当に残念なことで、何より私たちは日本人の誇り、大和民族の大和魂があるではないか、吉田松陰も遺訓に書いた「やむにやまれぬ大和魂」の大和魂とは、みんなで一緒に力をあわせて調和していこうと語りかけたのだと私は信じている。

大和魂とは、決して激しいものではなくもっと穏やかで優しく潤いがあり美しい自然の調和の心をいうのだと思っている。思い出してほしい、あの自然の中にある神秘を私たちは人間の間に存在させてきた貴い民族であることを、そしてその誇りたかき自然の民、地球人であることを。

これからもカグヤは、もっと自然に、もっと素直に、あるがままに個性を存分に発揮していきながら子ども第一主義という世直し行を楽しみ明るい未来とこの終わりなき世界の道しるべになるよう変化そのものになり維新することをみんなで一緒になって広げていきたい。

譲り受けてきた今、その今をより良いものにし、より善い未来を譲り渡していくことが悠久の流れの中で生かされている私たちの本当の使命。

色々な気付きの機会との邂逅があることに感謝し、今、此処で、本当に自分が天から何を期待されているのかを実感しながらかんがらの道を歩んでいきたい。

感謝