差物というものがある、例えば相手を自分と同じと思ったり、自分ができることを相手ができないことを蔑んだりする。それを差別という。
極端なことを言えば、早く走れるチーターからみれば亀は鈍く遅いとして馬鹿にする、しかし亀からすれば甲羅もなく水の中も自由ではないチーターのことは馬鹿にする。こういうおかしなことが人間界ではよく起きる。
頭の良く成績が常にトップの人がそうではない人を馬鹿にする。そしてスポーツができる人ができない人を馬鹿にする。よく見てみると、人には一長一短は必ずあり、それは相手が持っているものでこちら側の偏見で相手を決めつけて蔑むことがおかしな話であるのはすぐ分かる。
自分の得意なところや自分にはできるからと、誰かの相手を下に見るということが差別であり人はそういう差別心により自信を失っていくのだと思う。
これが学校教育の一斉画一でもそうだけれど、一つの価値観で一つの長所だけにフォーカスしそれを競争させていることに一体何の意味があるのだろうかと思う。戦争時代に、強くて足が速く忠誠心が強い兵隊というテーマで教え込めば、弱くて足も遅く自分らしく生きている兵隊はどうしようもないダメな存在となるのは明白である。
そういう一つの価値観で奴隷のように生きることを迫られる時代もあると思うけれど、その中でも限られた選択肢に希望を持ち生き抜いた誇らしい人たちもいた。それはもっと崇高なもののために自分を使おうとしたこともあったであろう。一部のエリートが何かを成したように思うけれど、そうではなくエリートをそうではない人たちが信頼して身を任せて大きなことをやったのであろう。
しかし今は自分の意志で自由な環境の中、自立して生きているのだから当然、自分らしく生きていくためには自分の長所や短所を理解し、それを併せて協力し周囲と大きなことを取り組んでいかなければ多様な価値観の中で自分というものを社会で活かしていくことは難しい。
そのためにはまず捨てるべきは差別心であろうと思う。
みんな違ってみんないいというのは、当たり前でありそれは人にはそれぞれで比べようのない特性をどこか必ず一つは持っているのだからそれをを尊重することこそ差別しないということであるという意味になる。
違いとは区別のことであり差別ではないのだ。
区別とは、鳥は鳥、魚は魚というように違いを区別することは世界はそうやってある近い種類のところで分類できるのだからあってもいい。男と女もそうだし、植物と動物だってそれは単に区別ということである。
タイプがあるのだから、それで区別すれば理解しやすいというだけだと思う。それをいちいち上下をつけたり甲乙をつけるから世の中は協力しにくくなり、いつまでも不安と恐怖が社会からなくならないのだとも私は思う。
こういうものをいつまでも教育でやり続けるのはどういうことだろうか、子ども心に比較され差別されれば一生そのトラウマに囚われてしまわないだろうか?職業差別もしかり、男尊女卑もしかり、全部、底辺にあるのはそういう一つの価値観がもっとも善いとしてしまう社会制度と思想にこそ問題がある。
どんな人でもみんなそれぞれに唯一無二の価値があり、それを周囲が活かせばいいということだ。平等であるとは、そういう価値が何も比較されないということであり、公平であるとはいつも与えて手にそういう差別心がない無私の状態であることを言う。
区別というのは相手の弱みや強みを知るためには必要である、そしてそれはみんなで助け合って生きるためであるのだ。
これからも私の心の中にあるトラウマである差別ということも見つめ、子どもたちのためにもそういう自分本位な考えにとらわれないように人間愛を優先し、常に敬天愛人の真心をもって人に接していきたいと思う。
師からの学びを実践で活かし、いよいよ共生と貢献する社会を築き上げるために修己治人の道を究めていきたいと誓う。