心聴

人は人のことを聴くというのに、本心を聴くのと表面を聞くというのがある。

本心を聴くには、心から相手が何を望んでいるのかを相手の立場で共感し受容しなければ本当の声は聴けはしない。

通常、人は自分の目線で相手を自分解釈で認識しきっとこうだろうなと決めつけてしまうようにできている。そのために、表情や口調、言葉や話し方などを見て聞いている。

しかし、それで話は聞いたというけれど自分が聞いてあげたと思っている限り本当の声は聴いたことにはなりはしないことに気づいていないだけだったりする。

私は年末に子どもたちと一緒に、昨年で一番楽しかった思い出はなんだろうねと振り返りをしたときそれを実感することがあった。

子ども達は、お父さんと釣りにいったこと、山で探検したことなどを話してくれた。自分にとっては、本当にそれだけ、他にはそれ以上の楽しかったことはなかったのかと尋ねるとそれが一番だったと話があった。

私は自分にとっては、子どもが行きたいといったからただ一緒にやっただけでたいしたことをしていないと思っていたのだけれど、当人たちにとっては本心を聴いてくれたということになったのだと気づき大変反省させられた。

子どもたちは、「私と一緒に何かをやりたい」という本心という心の声があったということに改めて気づけたからだ。自分が話を聞いているのは、釣りえにいきたいや山登りをしたいという表面上の言葉であるけれど、何が本当にしたいのかと今の自分の考えではなく、その時の子どもの心で寄り添ったときただお父さんと一緒に様々なd体験したいということを話ていたのだと気づくものである。

これは、社員からもよくあるのだけれどいつも楽しかった話を聴くと私と一緒に体験した社内行事だったり、イベントや大変な仕事をみんなで一緒にやったことを話すことが多い。

私は日々新しいたくさんの思い出が次々にできているのでついこの程度でいいものかと思ってしまうけれど、それは相手の話を正しく聴いていないからであり謙虚ではないからそういうことも聴こうとせず傲慢になっているからそういう声も聴こうとしなくなっていくのであろうと思う。

話を聴くとは、相手の立場になって本心を確かめることをいつも謙虚な気持ちで自分から確かめることである。自分から近づき、自分から話しかけ、自分から本心を確認していくことが傾聴しているということになる。

相手の立場になるとは、相手が自分のその環境と状況だったらと受容し、相手が自分となったとき何を言いたいのだろうかと共感し、そして傾聴することをいう。

そしてそれをできるように思いやりをもって手伝っていくことで相手はお互いを信じ合うようになっていく、認めていくし、そして尊重しあうのだ。

こういう体験を通して私は、いつも心の中に相手のことを思いやるスペースを広げておきたいと心から思う。もっと本当のことをもっと本当の声を聴いてあげられる心の優しさと強さを持ち合わせられるような本当の自分らしくあれる自分をこれからも忘れず大事にしていきたい。

一人でなんでも背負い、一人でなんでも責任を感じ、一人でなんでも真面目にやっている人が増えてしまう共依存の社会の中で、私たちはかつてない孤独に苦しみもがきながら何かにすがっていたいと思う罠にはまりそうになるけれど、子ども達のためにもまずは自立し、みんなで一緒にやったり、協働した体験をたくさん用意し、思い出を創り、人の暖かさや思いやりの輪を広げていけるような心聴の実践を積んでいきたいと思う。

人が人を見守り合う社会を、心で聴く実践からはじめていきたい。一円対話はそれをやるためにあるということをカグヤでは何よりも大事にしていきたい。

心動

行動を観ているとそれは心が表に顕われているものであると自他を見つめると感じることがある。何か変化があるときには心が何を感じどのような行動をしているのかを観ればその人の心もある程度は理解することができる。

人にはタイプがある。

行動しながら考えるタイプと、考えて行動するタイプがある。しかしどちらのタイプもまず心が本質的要素であり付属的要素が頭があるとしなければ何より大切な「気づく」という自覚することはできはしない。

よく行動をするけれど気づかない人がいて、行動をしないから気づかない人がある。これは両方とも心をまず使おうとせず、頭でばかり上手くやろうとして逃避するから起きることだと思う。

常に何をするにも、「心から」ということでなければ何も感じず、そうなれば気づくこともできないという意味である。

そして人は自分と向き合うことで価値観に出会い、その自分というものをより善く何か大切なもののために変えたいと思うのも「心」である以上、心から思い心で感じたことを少しずつでも行動に移していくということがなければいつまでたっても真に成長することはない。

すぐに知識ばかりや頭でやろうとする人は、心で思ったことを行動するのではなく頭で考えたことばかりで取り組もうとする。そのための読書をしたりしても知識を得ても、自分都合でばかり解釈したりするのもすべて心で感じた方を優先し動かないから結局は時間をかけても何をやってもうまくいかなくなっていくのだと思う。

私も毎月、人の相談を聴いているといつもうまくいかないとなる人は心で感じたことで行動に移そうとはせず、方法ばかりを探してうまくやろうとばかりしているから次第に感じる力が喪失し、自信も見失い、倦怠感や不安感ばかりに苛まれ余計にいつまでも変われないのだろうと思う。

元々人間は歴史を観ても本能的にはあまり自分を変えたいと思わない生き物であろうと思う。それはやっぱり知識を得たからこそ先に分かってしまうからであり、それが実際は大変だからだと知ってしまったからであり、そういうことが便利さというものを追及することになり、最終的には誰か自分以外の人にやってもらおうとする怠け精神が住み着いてしまったのだろうとも推察する。

しまいにはそれが長い年月をかけて積み上げられ習慣として沁みつき、心で感じず頭で処理するやり方から抜け出せなくなってしまったのであろうとも思う。そこまでになるとそう簡単にはそれまでのことを捨てられはないからより頑固になっていくのだろうと思う。

積み上げとは良し悪しにしろ積み上がっていくものだから、今までがある人は、日々の生活の中で心で感じて気づいたころからもっと素直に具体的な行動に移すことから大事にした方がいいのではないかと思う。つまり新しく心でやる体験を積み上げていくのだ。

何のための体験かというと、それは「気づく」ことが自分を創っていくものであり、そうすることで自らの心の感性を澄ませ自分自身が調和し自立していくものになっていくものであると思う。

最近、ひきこもりということも流行のようになっているけれどこれは体験して気づくよりも自分の知識の中にひきこもり心で感じることを避け具体的な行動をいつまでも避けている状態を言う。つまりは、心の中はできれば何か誰かが変わってほしいと外界に変化を求めることで心がまだ動こうとはしていないということになっている。現実逃避や自分と向き合わないやり方では、殻を破ることも臨界点を超えることもできない。

人間関係も同じく、心を開きもっと素直に感じたままに正直に付き合っていけばそのうちいつも真心から行動できるようになり人と親密な関係を築けるというものだ。それをどこかのマニュアル本みたいなものに固執し、頭でっかちに行動ばかりしたって永遠に親密な関係はできはしない。

何かを一緒に取り組む真の仲間とは、いつも心が通じ合う心地よい関係であるからだ。

今の時代の知識偏重型の教育で少子化の過保護過干渉に育ち、資本主義経済のサービス至上主義のような社会では、いつまでも受け身でいたら体験することよりも知っていることが大事なことだと勘違いしてしまう人が増えていく、そしてその結果、いつまでたっても社会に出て自分らしく自立していこうとする勇気がなえていくものだ。

そういう時代だからこそ、もっと心から思っていることや感じていることをより小さなことから行動に移していけるような心動できる環境は子ども達にももっと必要だと思う。

もっと素直に、心が感じて気づくことを大事にしていくようにと教えていきたい。常に誠実に明るく、前向きに生きるためにも心を開くことを何よりを優先することをカグヤでは実践していきたいと思う。

コミュニケーションの訳

「communication=コミュニケーション」という単語がある、英語では会話や伝達などと使われることが多いけれどこれを私たちの身近では本質を勘違いして使っている場合が多い。

本来コミュニケーションとはどうあるべきかを思うときそれは「積み上げていくもの」であるのだと私は思う。現に、外国では何かを行い積み上げていく動詞に「build=ビルド」というものを使う。

これは建てるということであり、時間をかけて小を積み上げ大にしていくという意味になる。

私のコンサルティング先が、一昨年、園長ブログを開始する際、その開始の命名として「積小為大ブログ」としたことがある。これは、理念を一本立てるということを行う際に日々の実践を積み上げていくブログだという意味で私が名づけたもの。

つまりは、理念を一本に立てるとは私にしてみれば実践を積み重ねて建てていくことでありそれを継続することではじめて周囲にどのようなものかを可視化できるものであるという意図ではじめたものだ。私たちの理念ブックも同じく、制作することに大した意味はなくそれを行動に移して結果を積んでいくことにこそ意義がある。頭で理解するものではなく、それを日々の生活や仕事の中で積み上げていくことを言う。

そして私はこのコミュニケーションというものも同じくそういう建てるというものに定義する。

そもそも人間関係とは、構築するという言い方をすることが多い。それは色々な出来事があるけれど、それを対話を通じて積み重ねていくことでお互いに人間関係を建てていく。

そしてその対話を恐れずに根気強く対話を続けるのは、それが信頼関係を築き建てることであり互いに信じ合う環境を積んでいくためには必要だからである。

私たちがそれを仕事で行う「一円対話」を使うのは、善悪もなくそれを丸ごと積み上げていくことで信じる環、つまりは心を通じ合う流れを澱ませないようにしていくことをいうのである。

これは私の確信だけれど、人間は心の通じ合いに澱みがでると人を疑ったりすることをしていくもの。そうではなく、お互いが心を通じ合わせていけば自然に信じる環境は出来上がっていくものでこれも循環の理の一つである。

根気強く、溜まったものを流していくことと流れが悪くならないように流していくことをこの一円対話で行い継続していくことが何よりも解決になると信じているのである。

これらの対話の意義は、お互いが本音や本心で心を開いて話し合って言うことでありそういう日々の積み上げによりお互いを信頼し合う協働の建物を築きあげていくというものだ。

そしてそれを建てることで、お互いがその一部として世界で一つしかない自分たちが表現したものを発信し伝達していくことができるのであろうと私は思う。それを社会が認め、自分たちらしさというものを仲間と一緒に表現できていくのだ。

しかし、今、よくよくとこの国の在り方を見てみるとコミュニケーションを積み上げようとはせずただの指示や命令、つまりは伝達のためだけに使っている人が多くある。子ども達への指導も、先生が一方的に教え込んでいるのでは何も積み上がっていくものがない。

浅く広く付き合っていく関係だけで事が済めば良しなのか分からないけれど、そんなのはありえず、人間関係も信頼関係もそれでは築けず、さらに実際の人生を積んでみると人と人とは深く長く付き合っていくものを望んでいるし、一生涯関わり合えるということが出逢いの素晴らしさの妙味であり一期一会の幸せなのである。

だとしたら、本来のコミュニケーション能力とはもっと対話を積み上げる時間を取るべきではないのか。私はもっと子ども同士や大人と子どもをはじめ、立場の異なる人たちや同じ人たちがもっと全てを丸ごと受け容れ話し合える環境を用意していくことがこの問題の解決につながると思っている。

人と話すことが日本人はシャイだから苦手というのもあるのだろうけれど、私は人間関係を積み上げていくのが苦手というのは人類の存続においても大きな問題ではないかと思っている。

人類は今までもたくさんの困難をたくさんの対話によりみんなで一緒に力をあわせて乗り越えてきた、そこに謙虚さがあったからできたのだ。それを幼いときから実践して人と協力をするストレスよりも協力をすることで積み上がっていく素晴らしい関係を大人がモデルで示すべきであると私は思っている。

カグヤでは対話を特に重んじるようにしているのもこの理由からである。

多様な価値観があり、時に傷つき、時に喜び、心地よさも心地悪さもあり避けたいことも近づきたいこともあるけれど、大事なことはそれを続けていくことである。それはそれ以上にお互いが力をあわせたいことがあるからであるのは当然のことであることを知っていることが共通理解として前提であるべきだ。

コミュニケーションを誤訳してはいけない。

子ども達のためにもコミュニケーションの本質を正しく訳して教え導き、自らのオープンな姿勢と実践によりまずは対話の建物を立派に完成させていこうと思う。

共志

時代の変革期には、志を高く持ち命を懸けて維新を志す人たちがたくさん現れてくる。それは血液のように循環を繰り返し、一定の状態に保とうとする自然の流れでもある。今の時代はどうなのかははっきりはわからないけれど、歴史を観れば政治が荒廃しどうしようもなくなる時、そこに一種の諦めが広がり人々が国に期待することをやめる。

しかしそれでも元気な人たちが、誰もしないのならば自分がやるといってリーダーシップを発揮していくのであろうと思う。そのタイミングや民意などが重なり合うとき、自然発生的に調和を求めて立ち上がるのであろうと思う。

昆虫や動物なども集団を創る生き物は、同じく自浄作用というものを持っている。これ以上いったら滅んでしまうと自覚して自らがそれぞれに一定数まで減らしそこからまた元のあるべき用へと回帰させていくような感じだ。

人間も、深い潜在的なところでは種の保存のために無意識化で自らそういうものにあわせていこうとする集団の生き物が持つものと同じものがある。

今の世界の流れは、狭い空間に増えすぎた鼠のように人口が増えてしまいどうなるのだろうかは自然の流れを観ているとある程度は予測は立ってくる。これを与えていただいている自然からの叡智で人間がどれだけ試練を乗り越えることができるかはそれぞれ個々の生き方、またはそれに繋がる本筋の教育などにもよるのであろうとも思う。

どちらにしても、覚悟を決めて本気で命懸けで生き切るという意味ではどの時代も普遍的に自分がどうあるべきかということに尽きるのだろうとも思う。そこには人間の持つ原理原則という倫理道徳に寄り添うものであるし、それが王道であるのだと思う。

そしてこの王道に入るには、まず公私の別があると思う。

何かの役割を持つときそこに公私があるけれど、その私を極力無にしていくように忠義に根ざすため修養し、学問をし公のために生きろうとする人たちがいる。私の師もそうだけれど、一般の人たちにはわかりにくいだろうけれど大きく異なるのはどれだけ私情を挟まず公務に専念しているかというところが圧倒的に差があるのであろうとも私は思う。

目的が公務であれば、より自分を純粋に潔癖に明るく保つことができる。それを続けていけば同じように志を共にするものが集まってくるし継承していくのであろうとも思う。

そして目的とは達成した後をふり返れば、何のためにやったのかはそれぞれに顕われてくる。それが野望の成就なのか、志なのかは目的を達したときにはっきりと感じることができるのであろうと思う。

自分の一生だけで達成できるようなものであるなら野望であることが多く、それが壮大な年数をかけて数世代もかけてのものであればそれは志という。

なぜなら世代を重ねるものにおいては、願望よりも祈りに近いからだと思っている。私は祈ることが趣味なので、こういうものは当たり前に感じるのだけれど志とは人々の幸福を願う心であり悠久の自然に心から感謝の念を忘れないことをいう。

そういう人たちとともにするのが志を持ち道を歩む楽しみでもある。生き方を思うとき、自分だけのためにやるのかそれが多くの人たちの幸せのためにやるのかではどちらが明るく素直に純粋に生きられるかをみると選択する理由すらもない。

夢を持つのは、自分が役に立ちたいと思うからでもある。子ども心に知っているのは、それが自分の生きる道であるからであろうとも思う。

子ども達にもそういう自分だけではとても達成できないような祈りに近い願いを持てるよう見守る環境を用意していきたい。今は、あまり人のお役に立てることを幸せだと実践して見せる大人が少なく、自分のことばかりを考えている人たちが急増している。

だからこそ、そうならないよう共に志す人たちがお役に立てる歓びを感じて背中で示していければと思う。

心と形

人間関係を良好に築き維持していくのにコミュニケーションがある。それはただ単に話が上手であればいいのでもなく、作法が単に身についていればいいということではない。

当然、相手を思いやる心で相手を尊重していることができていてはじめてお互いの人間関係が円滑にいくことになる。しかしこれも単に心が思っていましたからといってそれを具体的な行動に移せないのでは相手に伝わりはしない。

人間関係とは、心と形が相合わさっているからはじめてそこで良好な関係になるということだ。

例えば仕事で言えば、報告・連絡・相談・確認というものがある。これも最初に覚える仕事のマナーだけれど心が篭っていないものでは意味をなさない。具体的には、自分勝手に好きに進めようと思っていたり、周囲に意見をいただきながら進めようとも思わなかったり、何のためにやるのかを理解せずに終わらせることだけに固執したりするものでは決してこのホウレンソウや確認などはできはしない。

本来、上司や周囲に意見をいただきながらお仕事を責任を持ってやろうと思えばこのホウレンソウや確認は順序が逆になることがある。まず、本質はこれで大丈夫かという確認、そしてそれを進めるための相談、次に小まめな進捗の連絡、最後に経過と結果を報告して完了というのがビジネスマナーである。

それが責任を持った仕事ということであり、言い換えればそれが組織や社会の中で立派に役割を果たす仕事をしたということでもある。

ここからも一つの心と形があることはわかる。

まず心とは、謙虚に周囲のお力をお借りしてその御蔭様で仕事をさせていただけているという心。それを具体的な行動で形にしているものが、確認・相談・連絡・報告というマナーある形。

この両面ができているから、はじめて人は人と仕事を正しく楽しく豊かに手を取り合って助け合い認め合いながら責任を果たすことができるのだと私は思う。

他にも、日々感謝を忘れないための一言であったりメールや手紙での御礼、日々の気遣いや配慮などもすべては心と形があわさったものであるのだ。

いくら作業ができたからといって仕事ができたことではない、これは作法ができるからと礼儀ができたことではないということと同じ意味でもある。

だからこそ仕事ができる人とは、責任と役割を果たしながら結果とプロセスを大事にした人であり、先ほどの礼儀がある人とは、いつも周囲に配慮しながら相手を心地よくさせ続ける努力を怠らない人のことをいう。

仕事ができる人になっているということは、畢竟、この心と形が両面とも成熟している人になっているということを言う。

人間関係がまず良好で心地よいという土俵に上がらなければ、本質の議論や真剣な人生の正対などできはしない。

まず当たり前のことをでき、そのうえで当たり前以上ができることが人を導くということであり心技体を修めているということでもある。

子ども達にも、自らが模範となり心と形の実践を示していきたい。カグヤでは、何より仕事ができる人とは心と形を大切にして習得している人を定義していこうと思う。

自分に矢印の本質

つい人は自分のことは棚に上げて、周囲や自分の外界を変えようと必死になる。自分ができないのは何か自分以外に問題があったからだと言い訳をしたりするものだ。もしくは、つい自分ができないのをわかってもらおうと言い訳するのもすべては自分が変わることが前提ではなく何か変われないことを認めてもらいたいというお願いだったりするものだ。自分が変わることはできればしたくないという逃げたい心から来ているものだ。

しかしこれは原理原則だけれど、自分が今を生きている以上、人は自分以外の人間を変えることは決してできない。どんなに受け容れられない事実があったによせ世界の一部としての自分が変わること以外で、自分の居る世界も周囲も変わることはない。

これは自然界でも同じことが言える、植物でも自分が周囲に良くしてもらいからと何度も何度も主張しても周囲は一向に動きはしない。まず自分が周囲のために具体的な行動を起こし自分が変化することで周囲は変わりだすものだ。

相手に望むのではなく、自分に望むことが大切で、そしてそれは自分自身が主体的に生きていることになる。望むことを自分が行動することで周囲もその望みがわかるのであり口先だけで周囲がそれを理解することもない。

よく人間の心を見つめてみるとなんでこんな目にや、どうしてできないのかを思うとき、いつまでも変わることができないのは自分の弱さを受け容れる謙虚さがないからでもある。人は素直さを忘れ傲慢になっていたらいつの日か必ずすべてを崩壊していくものだ。

今の社会でもそうだし、組織のトップもそう、また友人との付き合いにしてもすべては相手を思いやる心、つまり周囲を思いやる実践、自分が変わることで皆と共生し助け合っていくのが人の道であるのだと思う。

自分に矢印を向けるとは、相手がそこにいてはいけない。すべての物事や出来事は、すべて自分の問題からだとそのすべてを自分が呑みこむ強さを持つということだ。

言い訳をしないというのは、誰かのせいに自分の人生をしないことだ。自分の人生は自分で決めるということが、納得のいく人生を生きたということでもある。いろいろな人がいても、みんながそうやって生きていくことが自立ともいう。

強い決意で、自分が変わる、真剣に変わり続ける日々を生きることが青春でありたった一度限りの人生を謳歌しているということでもある。

子ども達にも、一生青春の感動の人生を歩んでほしい。そのためには何かのせいにしたり言い訳をするよりも、すべてを自分の心で受け容れ、そして一度出そうな言葉をグッと呑みこむ忍耐強さと寛容さの手本を示していきたい。

いつの時代も、先に自分が変わることで人は幸せの輪を広げていくのだと思いやりと自立を導いていきたいと願う。

私は自分のみ矢印を向けて謙虚に歩んでいきたい。

幼い記憶

先日、独立して会社を経営する弟とアライアンスの提案があり久しぶりに真剣に仕事の話をすることになった。

兄弟というのは不思議で、小さなころからお互いの人生観を尊重しているところがある。けれど当たり前のことだけれど私は兄なのでどうしても兄であるという気持ちがいつまでもなくならない。

かつての幼い記憶がその今の自分を形成しているからだ。

これは師にも教わったことだけれど、あるがままの今を受け容れるということはかつてのその時期があったということが善かったからだとも言われたことがある。それは、例えば赤ちゃんや3歳などの幼児期の子どもはとても愛らしく成長していくと大人になるのだから大人の姿を見れば当然子どもの時点のかわいさというものはもう見た目にはあまりない。

しかし、大人になった今でもかわいくして仕方がないと感じるのは過去のその時期時期がかわいかったからということであるしそういうことを見ていればいつまでたってもかわいいものということになる。

人生の中で何度も色々なシーンを共有し、その成長を見守ることで必ずその人がすくすくとその人たらしく生長していくことを身近でずっと感じているからでもある。

子どものころから見守るというのは、大人にもとても幸せな体験であると本当に感じる。豊かさというのは、人が成長して様々な体験を通して自分の幸せを自分なりに掴んでいくのを良かったねと感じる事でもある。

そう考えると、やはり子どもというのはそのものの存在がとても素晴らしいからこそその子どものころの記憶は親子をはじめその子を取り巻く人々にとってとても重要なことであるのだろうと私は思う。

相手が自ら幸せだと信じることが、自分が幸せになることなのだとこういうときのこそ心底感じることができるものだ。

いつまでもそういう子ども時代の記憶のように両親への愛も兄弟への愛も昔から何も変わらないのはきっと今の自分の関係が過去の連続であることをきちんと受け容れているからでもあるのだろうと思う。

見守っているというのは、いつもと違う言い方にすれば相手の善いところを見てそれを善いことだといつまでも信じていることをいう。

なんだか弟が立派に自立し成長していく姿は、頼もしくなったものだと本当に嬉しく感じる。昔から変わらないところばかりがあるけれど、それを正しい方へ、人を大切にする方へと遣おうとする姿にともに道を歩む中での出会いの有難さや歓びを改めて感じます。

困ったときにはお互い様で生きてきた半生、たいへんなことばかりだけれど体験や感動、その挑戦そのものをともに丸ごと味わい楽しんでいきたいと思う。

これからもお互いの成長を楽しめることに感謝です。

世界標準の創造

時代時代に守るべき原理原則というものがある。慈愛や真心、誠実さや協働すること自立していることなど、自然界にある摂理を人間が正しく学び実践することで時代の変化に順応してきたのがこれまでの歴史だと思う。

常にそういうものを見失ったとき、混乱が起きそれにまた気付いて平和が訪れるというサイクルで時代の価値観は定まってきた。

特にこの時代を洞察すれば、ものが溢れ経済優先の社会からなんでも手に入ると勘違いし人々が傲慢になってきている。ちょっと前までは、この国でも周囲の人たちのことをいつも思いやる風習などが残っていた。

たとえば、近所の方々に何かあるときにはすぐに挨拶をして配慮したり、自分をいつも大事にしてくださっている人達へお手紙やお礼などを欠かさないことも当たり前にやっていた人たちも多かった。

今では何かあるのではないかと相手を疑ってしまったり、そういうことをやると嫌がられると勘違いされたりする。人として当たり前にしていた、共生することや貢献をすること、謙虚に自分があるのは皆様があってのものとは思っていても実行に移さないというふうになってきたのは悲しいことだ。

世界では、今謙虚さというのは何よりも最先端であり合理的であると研究されホスピタリティの高い企業文化には取り入れられてきている。私たちの会社も人間らしさとして社員の人生にまでコミットし、皆で思いやり暖かく見守るという社風を優先しているけれどこれは当たり前にやるだけではなく強くやっていくことが必要になる。

人生まで一緒に考えてともに働くという、協働やチームワークというものは本来なくてはならないものであったのだと思う。一番怖いことは当たり前であったことが心で思っても実行できないということであると私は思う。

マナーでもそうだけど、挨拶をするということ、相手に御礼を伝えること、そういうひとつひとつに心をこめて相手の立場を慮り相手の想いを尊重しながら自分というものを生かしていくには強い意志が必要になってきた時代なのだ。

相手がしないからと流されればそれはそれで社会の一員として自立した個になりはしない、当然相手がどうであれ相手の立場にたって行動することが社会のなかで個が自立して社会を形成しているということになる。

誰かのせいにできるようになるのは、そういう傲慢な気持ちがあるからであり、人は本来もっと謙虚に皆と一緒に生きていくことを大事にしていくことが幸福な社会をみんなで生きるということになるのだ。

今の時代は、謙虚さというものを持つだけでは足りない。その謙虚さをより強く発信し、行動で社会に訴えかけていくような新しい物差しを持たなければならない。そしてそれを何よりも楽しんで実行していくことが、周囲を感化し明るく清らかな社会を築いていくということに気付くことが大切なことだ。

カグヤはいろいろな出来事が沢山ある中でいつも人を優先し、仲間を思いやり、お客様のことも自分のことのように思おうとする文化を醸成している。これは何よりも子どもたちの未来に継承したいものでありもともと人間が何よりも大切にしていた尊厳であり、共生の原理でもある。

もっと強く優しくなるために、謙虚さというものを数々の経営現場においてコンサルティングを通して実践していきたい。人の話をよく傾聴し、そしていつも相手の立場で共感し、それを自分の問題として受容する。

自立も社会も自分たちの強い意志の力で行うことをこの国の子どもたちの教育や保育の新しい世界標準にしていきたい。

根源と生長

地球が誕生してから46億年という、そう考えてみると私たち人間が生活している2000年などはあっという間ということになる。

以前何かの本で、20万年前を地球誕生からの尺で24時間計算で計るとそれは4秒前くらいだと聞いたことがある。私たち人間は、自分たちの寿命の間隔、50年から80年でしかものを考えず今起きている問題も問題の中で一番大きなことしか考えられないように脳はできているのだと思う。

それを自然という感覚で生きている人たちや、悠久の流れに身を置く人たち、または先祖代々からのものを正しく継承してきた古老たちなどはそういう何世代もかけて築いた大切な記憶の中で生きているのだろう。

小さなことにはジタバタせずに楽観的に生きていけるのもそういう壮大な時間をかけて悠久の流れに身を置くからなのだろうと思う。

今はIT技術が進み情報が氾濫し、スピードが上がったこともありなんでも急であることや変化を急ぐことを社会全体が求めているような節もある。もともと知識は何のために必要なのか、世界中の知恵が一体何のためにあるのかを見るとき、鶏が先か卵が先かではないけれど優先すべき生命体としての本物の人間になるための方の科学がようやく追い付いてきだしているようにも感じる。

じっくりゆっくり育ててきたものと、臨機応変に取り入れるものは、その両方の変えて善いものと変えてはいけないものが正しく理解できる人物が判断し人々を導くことで世の中の調和は保たれていくものだ。

そういう時代の変化の中でその両性を具有しつつ道徳と文明を融和させていくような人物が次第にこれから育っていくのだろうとも思う。

子ども達には無限の可能性がある。

そう考えると、私たちが学び続けて継承していくものこそ悠久の流れの一部でありそういう壮大な生き方に身をおいてこそ正しく今の変化に順応するための叡智や工夫を手にすることができるのだろうとも思う。

根源は悠久に身をおきながら生長は変化を楽しむということが今のITを融通無碍に使いこなすための王道であろうと本当によく思う。

今の時代は、何でも人は人、物は物というふうに偏った方の一つの価値観で世界を支配しようとする勢力があるからこそそうではなく、その両方を調和するファウンダーとしての生き方を大事にしていきたい。

総合的に俯瞰し、その布置を主る人物が世界各地で発生することを予見する。

これはつまり思いやりを持って真心尽くして気づき学びを実践し、心を澄ませて広げていけば無数の価値観を自然に置換できる器が大きくなっていくように繋がりの中で出逢うのだろう。

子どもたちにもたくさんの自然体験を通して、摂理を学びつつ科学を吸収し、壮大な歴史の中にある今の自分を信じて悠久と時代時代を生き抜く変化を楽しめるように個々の自立を見守っていきたいと思う。

温故知新の生活を味わっていきたい。

リーダーシップの本質

先日、ファシリテーターということについて考えてみる時間があった。それはリーダーと同じく誰よりも相手を思いやり配慮し自分のことのように親身になって問題の解決に協力するということであるのだと思う。

その人の問題だからと相手のせいするのではできないし、勝手に自分が解決することもできない、相手の問題を自分の問題だとしそれを必ず解決できると信じることが大切なのだと思う。

その前提にその人自身が信頼に値する人間であるかどうかは何よりも優先する。約束を守り誠実に最期まで責任を持つ人のことを人は信頼するからだ。

信頼とは何か?そしてリーダーシップとは何か?それをとてもわかりやすい言葉でピーター・F・ドラッガーが説明してくださっている。

『信頼するということは、リーダーを好きになることではない。
 常に同意できることでもない。
 リーダーの言うことが真意であると確信をもてることである。
 それは、真摯さという誠に古くさいものに対する確信である。 』

これはどの職業であれ、どの役職であれ、人は何のために遣るのかを考え抜いたときどうあるべきかという心構えを自問することになる。

その際、私たちは会社でよく本気かどうか、覚悟があるのか、真剣にやっているのか、と問うことが多いのもこの真摯さというものが何よりも大切だからであると私は思う。

常に仕事がどうであれ作業がどうであれ、何のためにやっているのかを正しく理解していれば当然それは全身全霊を傾けていなければ目的や使命に対して不誠実ということになる。

不誠実になったら自分はもとより周囲もそういうものに着いてはいかない。周囲はまず相手が能力があるなしにかかわらずそういう誠実な真摯さに心を揺り動かされて信じていこうと思うのであるし、そして同じく自分自身を信じるということはそれだけ真摯に本気でやっているから自分を信じれるようになるのである。

それを怠ればリーダーシップは発揮できない。つまり本質的に、自分自身の人生だけではなく自分を取り巻く周囲をマネジメントすることはできない。皆で一緒に何かをやることはできなくなるということである。

このドラッガーのいうことはとても正しいと思う。

自分自身も深く心を洞察すれば、もちろんリーダーがどういう人格の持ち主か、そしてセンスがどうか、生き方はどうか、魅力はどうか、方向性はどうか、哲学はどうか、道理や倫理道徳はどうかなど当然自分の人生懸けてついていくのだから慎重に探していく。しかし私の場合は直観があるので、第六観を使って未来に共有するものがあるのかを探っていくことをやる。

きっと同じようなセンスがあるかどうかを辿っていき、そこから必然であるかどうかの確信を持つのであろうと思う。

しかしそれはすべてにドラッガーのいうような、「誠に古くさいと思われる真摯さ」つまりは一生懸命に諦めずに全てを受け容れて遣り切っているのかどうかという古びれたど根性のようなものを感じることを言う、そして本人が語っている言葉に真実を感じている自分があるということも大事なことなのだ。

リーダーシップの本質とは、自分が信じているものを信じさせることであり、自分が信じているものが信じられることである。自分が信じる事が出来なければリーダーにはなれない。どんな困難があったにせよ、最期までやり遂げる覚悟を人は信頼するのだと思う。

最初からすぐに諦めたり、すぐに何かがあると疑ったりしていては自分を信じる事が出来なくなる。善いリーダーは信じる力を周囲に広げていくものだし、きっと大丈夫だと楽観的に周囲を励ます存在でもある。

それは何より自分の確信に対して真摯でいるからなのだ。
それが信念ということだろうと私は思う。

子ども達には、自分の信じた道を自分が最後まで諦めないという姿勢を示し同じように未来を諦めないという実践で背中を見せていきたい。本質であり続けるには信念を持たなければいけないことをまずは自分の体験を通じて真実を伝えていければいいなと思う。

現場は嘘がないことを知っているままに、日々に精進し現場の声でリーダーシップを存分に発揮していきたい。