公私の別

自分には、主観的なものと客観的なものがあるように私的なものと公的なものというものがある。自分が全てであるのか自分が全体の一部であるのかを思うとき、自分という存在の認識は自分がするものだけれどしかし総合的に観ればそれはあくまで自分は他の存在の中で自分というものを認識できているものだ。

つまりは、人はエゴで突き進めば不調和を生み、エコで循環させていけば調和を生むという風に私と公というのは大事なことだ。コツがあるとするならば、普段は利他の心で人々のために自分を役立たせていけることに喜びを感じていればその中に自然に自分という私の感情を満たすことができるというものであろう。

まず公が優先で私は後というのが楽な生き方であり、私を優先すれば公が立たなくなり住み難い社会が生まれ今の世の中のように自分勝手ににする人たちが増え周囲を心地悪くし、仕返しなどとしているからそのうちに倫理道徳が立ちにくくなってくるものだ。

あくまで全ての仕事は公として人々のためにあるものだと大前提にし、まずは自分の私腹を肥やす方を優先するのは大人として恥ずかしいと思うことが大事なのだろうとも思う。それは、今の時代はよほど強くそれを思っていなければ維持することも難しいから気を付けることだ。

今は原理原則や倫理道徳は、当たり前ではなく日々の実践で習慣にし決して刷り込みに流されないように何よりも主体的に強い信念で維持する時代だということだ。

例えば幼稚園や保育園でも園児募集などに力を入れるけれどそうではなく保護者や子ども達など地域コミュニティを優先しそのために尽力していけば自然発生的に園児は増えてくるしそうしていれば、地域から子どもたちがいなくなったりはしない。

無理な園児募集で競争するから地域が喪失し、そしてまずは園児がいなければと私的な方を優先するからいちいち宣伝しないと園児が集まらないと錯覚する。企業も儲かるからとより競争を促していくけれど、福祉や教育の会社としての役割は本当は何なのか考えるべきである。

本来地域のためにどれだけコミュニティの場や環境を用意しているかでその園の地域での存在価値が生まれるものであり、もっとも効果を出したいのなら本質的であればいいだけで本質にこだわることで効果を発揮する、それは本質的だからこそ時間がかかっても無駄のない合理的で間違いないものが出来上がるというものだ。

何かがあるとすぐに焦り、公の立場を忘れ私的に走るのは強い思いでの実践の習慣が身についていないことであり信念を育む志がまだ根ざしていないからでもある。子ども達がいる地域コミュニティをどうやって構築していくかは幼稚園の使命でもある。保育園は家庭で失ってはいけないものを大事にしつつ援助し、どれだけともに子育てしていくものにするのかが重要なことだ。

常に本質的であることを忘れては変化に置いていかれるのだからよく遠くを見て感性を磨きいつも全体を捉えて自分を変えていく努力を忘れてはいけないのだ。それが子ども達を真ん中に置いていることであり、それが我々大人の仕事であることだと私は信じている。

子どもを真ん中に置いて競争しているのでは、呆れてしまう。もっと、自分を変える努力をし時間がある限り、使命がまだ残っている限り、その命を地域や子どもを見守るために遣っていくべきであると私は思う。

常に、公私の別は誤解してはいけない。もともと私腹を肥やすために仕事は生まれたのではなく、多くの人たちと協力して大事なものを守る強さと優しさをみんなで育むために仕事はある。

もっと大事なものがなんなのか、自分自身の在り方により示していこうと思う。見守るということの本質を訴えかけていきたい。