同じなどはない

先日、自立支援をミッションにしていたカグヤクルーが産休に入ったので皆で安産を祈念しつつ七草粥やおしるこなどを振舞い無事を見送った。いつも励ます方のクルーだったけれど、励まされるのは苦手そうで照れていたのが印象的だった。

皆で色紙を書いて絵本をプレゼントし、来年入社の社員から「お待ちしています」とあり皆で声をあわせて待っていることを伝えてお別れをした。いつも感じるのだけれど、未来に希望があるから悲しくはないけれどさみしいと感じるのはそれだけ繋がりの中で絆を大事に仲間を思いやっているからそう思うのだと思う。

物理的な距離感とは別にいつも思いやったり心配したりしている関係の中には確かな愛の絆が存在している。子ども達でもそうだし家族でもそう、心配し祈っている糸を日々紡ぎ合わせることで繋がりが豊かに篤くなっていくのだろうとも思う。

そして子どもの誕生のことで考える機会があった。

よく仏陀の誕生の際の言葉で、天上天下唯我独尊ということを聞くけれど本当のことはよく知らないけれど意味はよくわかる。

これはどういう言葉かというと、そもそも同じではないという意味であるということだ。よく一人一人が同じではない、みんな違ってみんないいというような言葉はよく使われているけれどそれを本当の意味で理解するにはそもそも同じというものがこの世にあるという刷り込みを捨てなければいけない。

人は最初から同じということはありえない、どんな生命であれ一つとして同じものはない。たとえば、生命は繋がりの中にあるのもであるから生き方や経過などで形は常に変化している。

あの葉っぱ一枚一枚に同じものがないように、虫も鳥も魚も人間も同じ人は決して生まれない。いくら成分を同じにしたとしても同じということはない、似ているものがあったとしても同じものではないということだ。

その同じではないということが尊いということなのだ。言い換えれば同じというものがないことが何よりも尊いに気付き同じというものは決してあり得ないと自覚することが他をを尊重し自分というものを尊重することだということなのだろうと私は解釈する。

八百万の神々ではないけれど、同じものがないから自然であることができる。

それをもし同じものがあると少しでも勘違いすると、粗末にしたり不必要だなどと思ったりするのだと思う。たとえば分類として似たものがあるけれど、似ているからと同じであるものではない。分類上は私たちは人間だけれど、同じ人は決していない。そういう意味になる。

新しい命が誕生するということは本当に嬉しいことであり、みんな同じではないからみんながそれぞれたった一人として何よりも貴重で価値がのだといつも証明してくれているようにも感じる。

今は自己肯定感が低い社会がこの国には蔓延しているけれどそれは同じであることを強要して間違った刷り込みにいて同じであることを求め同じでなければ不安になるというゆがんだ人間社会の権力構図が縛りを与えているけれど人は自然から学んでもっと自分自身に誇りを持てるようになる時代が必ず来る。

それまで子ども達には、同じというものがないということを当たり前に自然を通じて感じる力を育て、一人ひとりが自分らしく自然と調和して生きられるように見守っていきたいと思う。

同じという刷り込みを取り除き、それぞれが違うからこそ認め合い助け合い世界は全てが必要なのだと受容することができるように保育していきたい。まだまだ何のためにや本質に触れる機会が少ない人たちに大きな愛で自分らしく道を歩むことで波紋を拡げ伝道していきたいと思う。