何か一生懸命に取り組む際に、いつまでも効果がでないことに本人が気づかなくなるときがある。それは余裕がないということであり、息詰まっているということであることが多い。
一度、そうなってしまうとやればやるほど焦りと不安が生まれさらにそれを盲目に何とかしなければと自分を責め立て追い込んでしまうと逆効果になってしまい何も結果がでていないことに挫折したり失望することもある。
そうなると、小康状態を保ち停滞することになりそれに慣れてしまうといつもどうせやってもという諦め感が生まれそれでも継続していると結果がでないことに何も感じなくなってしまうという悪循環を生む。
人はそういう時は、一度発想を180度転換し考え方もやり方も変えてみるのだという天の声だと受け容れることが必要になる。
しかしそういう時の改善を自己で行うには難しく、私の場合は絶対的に信頼している存在を自らが丸ごと信じ、その師やパートナーに自ら心を開いて自分を診てもらい私は自分の偏見をまず疑い、アドバイスに従い素直さを主軸にそこから抜けることをしている。
自分のことを信じてくれて、この信じる人からの言葉だから何が起きようが自分はその人を心底信じるとなっていればどんな困難も抜けられるものだ。
しかし身近な仕事でよく感じることもあるのだけれど、そういう関係を素直に持とうとしない人は、自分なりに何か一生懸命にやっていてもいつも独善的になるので「そのやり方では効果がないと思うよ」というと自分が否定されたと感じてしまうようで相手に心を開いて受け容れようとせず、「だからこれだけやっているだろ」とか「必死にやっているのになんだ」とかいう態度をとる人もいる。
そうなっては「そのやり方ではいけない今の発想を変えてしまわない」とと話をいくらしても表面上は取り繕い同意しても、自分が言われた通り全部必死でやっているのにうまくいかないのだと、素直に聴き入れないことが多く真面目すぎたり偏って自分の殻の中で努力を頑なにしていればいるほど入り込む余地もない。
そういう時は、少し待って失敗をし本人が自らの体験でおかしいと気づけるまで見守ることしかないかと今は思っている。
しかし生き方を思うとき、いつも自分を指導してくださっていると謙虚に仲間を信じることだったり、自分より信頼する相手の方が自分のことをきっとよく観得ているということに自覚したりと、相手の思いやりをいつも心で受け取るように感性を澄ませて素直でなければ改善することはないと思っている。
改善とは傲慢に自分ひとりの世界に埋没しひきこもり強引に何かに固執していること続けることではなく、いつも「心の素直な善の状態に改める」ということ、つまりは謙虚でいつもいるということであると思っている。
それが生き方としてもっとも大切な素直になるということだ。
素直になっていれば、相手の話を心で聴くことができる。そうすれば、方向ややり方を少し変えればいいだけだったのだと気づきすぐに修正していくことができる。
素直になると、例え上司が「それではだめだ」と言われてもそれを否定されたとは思わないものだ。「もっと善いやり方になるために、どう改めればいいですか」となり今までのやり方を改善できるというもの。
よく指導書に相手を否定せずにまず受容しこうしたらいいと気づかせるとあるけれど日頃の関係がお互いに認め合う良好でなければこういうことも伝わりはしないもの。日頃の心を開いた素直なコミュニケーション、つまり日々の素直さの実践の積み上げによる改善が最終的には効果を決定してくるのだと思っている。
今は、過去を許せない人たちが増えているせいで素直さだけではなくあえて受容しゆるしていかなければ話を聴けななっている人たちが無数にいるように思う。
子ども達のことを思えば、幼児期に信じて信じられるという見守りの心の通じ合いや繫がりがか細く自己肯定感が持てなかったりしていつも自分を卑下して育てばそういう人たちがたくさん育ってしまう。
自分という本当の存在を認め、信じ誰とも比べない場所に尊敬する偉人や聖人と同じものが自分にも宿っていることを知ることが大事であり、それが自分と真に正対することになりそれを安心して対話することで得られる深さを感じる体験を持てるようにしていきたい。
自然の中で感じ受け取る感性をより豊かな人間社会へ転嫁し、今の世の中のおかしな仕組みを素直になって改善するようにと促していきたいと思う。
私は未来を楽観的に信じている。
心のゆとりと余裕を大切にまず相手を思いやり、改善を心から楽しんでいきたい。