人間学と自立

人が何かを行う際に、最も大切なのことにその心の姿勢や気持ちというものがある。どんなにいくら悩んで頭で考えて答えを導き出したとしても、それを心からやりたいと思っていなければ健全な結果はやってこない。

それは言い換えれば、心から分の本当にやりたいことではなければ人は本気になることはできないことを言う。「本気」という字は、本当の気持ち、つまりは自分の生き方でありそういうものが本音や本心という部分でもある。

その気持ちや本心を自ら全面に出して考えを伝えることが、周囲と何かに取り組む際に協力を創出するための心の姿勢と態度であると私は思う。例えば、スポーツの世界でもそうだし、仕事の世界でもそうだけれど、まず自分の心がやりたいことに対して納得していなければ何もはじめることはできない。

つい人は、そういうことを心で決めず取り組むとすぐに何とかしなければと思ってしまうのだろうけれどそれでは今を大事にしていくことはできない。今を大事にするとは、最終的には自分はどうしたいのかということを心で決めているからでもある。

人はそれぞれに人生観があるのだから、最終的に自分らしく生きていくために自分がどうしたいかという判断は自分で行う必要がある。それがビジョンでもあるし、夢でもある、それを最初から諦めれば受け身で依存して流されていればそれでも人並の人生であればいいと妥協をすることになる。だからこそ自分がどうするかということを、今に対して常に自分で選択をする過程の中で、人は次第に自立していくものであると思えるからだ。

仕事で言えばチームで何か偉大なことをするためには、自分自身が本心から納得していないのにその場の雰囲気で相手にあわせて相手任せにしていたら何かの決断することや皆で真剣になるときに自分が本当の意味で参加できず信頼関係も価値の創造も生み出すことはできない。

これは礼儀であり、マナーであり、相手と互いに尊重し合うことこそが仕事の本質だからでもある。それがあってのチームなのである。

子ども達もそうだけれど、自分で納得しているのかどうかというのは私はとても大事なことだと思っていて、私自身、自分を尊重することは他人を尊重することだと思っているからだ。素直にそれを話し合って、最終的には自分なりに納得することを決めてもらう。自分でやると決めてはじめての自立だと感じるからだ。

だからこそ、自分がされて嫌なことはしないし、自分だったら嫌だと思えることを勝手に相手はそれでいいと言うことも誠意がない。常に、思いやりから実践する自分の姿勢、生き方を誰に対しても変えないことこそ本物の誠意であると私は思っている。

面倒な生き方であり不器用な生き方であると、そういう人を見ていると感じることもあるけれど、そういう人でなければお金で買えないようなことを優先し大事にすることもできないし、そういう人でなければ目には見えない価値をいつも守ることはできない。

「まずは自分のことができるようになれ」というのは、心の姿勢や態度を変えて自分の本心や本音で生きることで自分がまず自立するのだという思いやりのメッセージでもある。

自分のことをいつまでもできないのは、そういうことをやろうとせず心の姿勢や気持ちがいつも誰かのせいや負けているからでありそういう受け身で依存してしまうからである、むしろそういう人たちが多いのは大変なことだけれどだからこそこういう裕福で物が溢れる時代には厳しい形の愛がいる。

そしてそれは人間学を修養することを言う。

人間学の本質とは、立派な人たちの生き方や歩み方、人生観や信念など、そういうものを深く味わい自分のものにしていくことをいう。どういう生き方をしていきたいか、どういう人生を歩みたいかはまず自分自身で決めることからである。

見守る中で、色々な人たちがいるけれど子どもたちのためにも自分の生き方は姿勢はいつまでも真心を貫き自分らしくいることを伝播していきたい。自分らしくとは感謝の生き方であり、自分らしくとは幸福になることをいう。

こういう時代だからこそ、相手への深い愛情からであるならば不器用でも何よりも生き方そのものを大切にしていきたい。

一体感とフォロアーシップ

人間には個性や価値観があるけれど、組織や集団の中でどのような自分でいるのかというのは別で選択していくものであると思う。

よく会社などでも、大きな理念や集団で大切にしているルールなどに自分をあわせようと努力変化をする人もいるけれど一向にいつまでも努力しようとしない人がいる。

そういう人は、努力すれば変われるのに決して変われないところばかりに努力をしようとし、その結果、いつも愚痴や他人のせい、もしくは自分の殻に引きこもったりと本来の努力を怠る心に依存し浸っていく。本来、狐に狼になれといってもできないし、ワニに鷹になれといってもできるはずはない。そんなことをいつまでも勘違いし、それになれないと苦労している人もいる。

そうではなく努力できる変化とは、自分よりも大きなものにあわせていくことやまず相手や周囲を活かそうとすることでもっと皆と一緒に何かをあわせていこうとする努力でもある。先ほどの例えでいえば、狐と狼、ワニも鷹も大きなものにあわせて協力するために各々が努力してできるようになるということだ。

どんなスポーツでもそうだけれど、チームワークで何かを行う際にはリーダーやフォロワーというものがある。先日のサッカーでも大変世界で評価されたのは見事なフォローワーシップや、アシスタントシップ、日本のチームが強かったのはそういう皆で支え合い大きな力を発揮することで個々の持っている能力を最大限活かしたことによる。

つい個人技や個人プレーに重きを置くところは自分がどんな結果を出したかどうか、また自分ひとりが評価されるかどうかを気にして周囲との協力をしようとしない。

その結果、皆がバラバラになりチームとしての力を弱体化しさらには結果も出せなくなって愚痴ばかりをいうようになるといつまでも停滞感の中でまとまらない力で何も成果が上がらなくなりなんとなく曖昧な感じで取り組み心身ともに疲れていく。

本来、人は自分だけで仕事をすることは絶対にできない。相手がいるものだし、自分を自由にさせてくださる周囲や組織、会社などというように自分はその御蔭で成り立っているもの、それを乱暴にすれば必ず落とし穴にはまる。

仕事で成功し、リーダーシップを発揮する人とは本当は最高のフォロアーであり、至高のアシスタントリーダーなのであると私は思っている。私自身、いつも自分のことよりも如何にリーダーを支援できるか、仕事を通して周囲がどれだけ働きやすいかということばかりを考えている。

それは自分だけの視野の狭い料簡での結果がどうこうではなく、本質的な目的に対しての結果を出すためにも、自分がどう全体のフォローや周囲の人たちをアシスタントし、そのパスワークを潤滑にしていけばいいかを常に考動できていなければチームにはならないからだ。

別にその人が相当な自信があり最初から一人でできるのならば、一人で独立して一人で勝手にやればいい。しかし、そんなことはできないからこそ自分から協力をするためにまず自分から相手と助け合っていかなければ目的ややりたいことが実現しない。

常に会社から最高の評価を得るにはまず自分がやりたいことばかりや自分のことばかりを優先するのではなく、如何に全体のやりたいことを自分が支えているか、どこにどう自分の仕事を動かしていけばみんなの仕事が動きやすくなるか、全体の流れがよくなるような見通しを立てた機敏な動き、全体と一体になって協力しながら働くということが大切なことであろうとも思う。

よく全体を観よとあるけれど、できない人はただ全体を観ればいいと思っている。そうではなく、次にどう動けば周囲がより動けるかや、皆が動いているからこそどこに仕事のバトンを渡せばいいか、業務でいえば相手や周囲が次に走りこんでくるところに如何にパスを出すかというようなことができてはじめて全体が観えているということになる。

自分のことばかりで必死になれば、皆が立ち止まらなければいけなくなるともうそれは試合にはならない。

まずは立派なアシスタントができて本物の仕事、それをやるには自分のことができなければならない。まず自分のことではなく、皆のためにも自分のことができるようにすることが社会人のはじめの自立であると私は思う。

社業を通して、協力ということの本当の意味を表現していきたい。

真の味わい

子どもやこの仕事をしていると本当によく自覚するのは、自立の重要性である。

如何に他人に対してさも問題意識や危機感や鋭い洞察を幅広い知識で語っても、自分のことをきちんとできていない人が人を救うなどを容易に語る事自体が大変恥ずかしいことだと私は感じることがある。

これは当然のことだけれど自らのことをきちんと修め、自らが自立して生きていてはじめて他の人を共生と自立へ導くものができるもの。これは全てに言えることで、自分ができないことを人に語らない、本当に自分のものになってもいないことを人に教えないという風に、自他ともに誠意を尽くせない人では決して世の中を真の意味で正していくことはできないと思う。

しかし、周囲を見ていたら自分のことはできていなくても他人には色々なことを好き勝手に言う人がとても多い。営業マンでもそうだし、表層上で得た知識を少し大きく鋭く話せばや、この辺の幅で偉大に伝えればという自分の実践から得た真の確信からではなく他人の話をさも自分で掴んだ実践での話のように伝えればその伝えた人はそれを間違って信じてしまう。

もしもその人がその信じたことを深く聴いてきたらその人は何と答えるのだろうか?もしも本当に困って助けてくださいと言われていたとしたらどうするのだろうか?もしも自分を信じたことで最期の希望を持っているとしたらどうするのだろうか?などとは一切考えず、軽い気持ちで自分都合でやっている人もいる。

これは人と人とが本当の意味で絆が繋がっていることを知らないからだとも思う。

これは人間に限らず、植物から動物、自然界全ては大いなる繋がりと絆の中で生き生かされている。それは、お互いが誠意を持って生かし合っているともいえる。それを共生という。

その生命ひとつがもしも不誠実であれば周囲へは不誠実が陶冶する。その生命ひとつがもしも誠実であればその周囲はいつも誠実で陶冶する。つまりは、自立したものたちが渾然一体になって自然環境の中で自然淘汰されるように、この道理に従い互いに変化に順応するために、つねに生命は自らを変革し、自らを陶冶育成するものだとそれが万物一切の保育環境であるとも私は思う。

だからこそ、自分の自立は自分で責任を持つことができてはじめて人々に貢献するということができるのだ。これを勘違いして、いつまでも誰かに依存しつつさも自分が貢献していると他人にアピールしたって逆効果だからやめた方がいい。

中国に「菜根譚」という書がある、これは「人よく菜根を咬みえば、すなわち百事なすべし」という言葉から来ている。よく噛み締め、味わいがわかる人になればいいということだ。その中の一説にこういうものがある。

「欺詐的の人に遇わば、誠心を以て之を感動させ、暴戻的の人に遇わば、和気を以て之を薫蒸せしめ、傾邪私曲的の人に遇わば、名義気節を以て之を激礪す。天下、我が陶冶の中に入らざること無し。(菜根譚前集176)」

私の意訳だけれど「どんな詐欺的な他人にあっても誠意を持って応じ、乱暴者にあえば、温和な気持ちで包み込み、捻くれて素直ではない人にあえば、筋道を正して導いてあげるようにする。すべては、自らの陶冶の中でできることである。」

この陶冶というもの、何万言の言葉で語られるよりも私自身は自立のプロセスの中で、師の薫陶を受け、師との邂逅、師との人生観、師との道を深く噛み締め味わうことで自分の実践を心底楽しむものには何ものも叶わないといつも感じている。

自らを自立し陶冶する中で、心を省み誠心誠意でいるというのは、謙虚であることや尊重するということの生命の真意が貫かれものを確信する生き方を選択するのであろうとも思う。

今は、子ども達のためにも焦りよりも自立のプロセスを楽しみ真の味わいを噛み締めていきたいと思う。自立や共生や貢献には、敬天愛人と同じような趣がある、まだまだじっくりと歩んでいこうと思う。

バランス感覚

人は何かの情報を感受する際、表面上で理解する形式知というものと深層的に理解する暗黙知というものがある。

形式知では生活の中で深く考えず、一般的に動作的に生きていく中では形式的なやり取りをし理解をしていくもの。例えば、食べてください、取ってください、電気つけてなどあれしてこれしてなどを説明もあまり必要もなく伝えるときは形式的なものでいい。

その場合は目に見えるものや単に聞こえるものなど、すぐに感知できるものを使って行動していけば理解していくことはできる。

しかしこの形式知では、相手が暗黙知で語ってくる部分、例えば理念や信念、もしくは原理原則や優先順位の意義などという方針やコツなどというようなもっとも重要なことを感知することは難しい。

この暗黙知は、例えば、料理でいえばその味から理念を感じたり、師の言葉に奥深い人生観を覚えたり、その一つの仕事の作業から原理原則というコツを掴んだりというように形式的には顕われない奥深いところを感知する能力で理解していくものである。

よく形式知ばかりで理解する人は、リーダーの発言や経営者の行動がよくコロコロ変わっているという風に理解して誤解し、いつまでたっても深い理解をすることができないでる。しかし暗黙知を理解する人は、いつもそのリーダーや経営者の発言が何処から来ているものか、その行動の裏付けは一体何なのかということを理解するからいつも一本筋が通っていることを感じ、次第にその暗黙知を理解し自分のものにしていくことができる。

当然、仕事ができるできないと言われる人や、空気が読める読めない、素人か玄人と言われるその差は、この形式知でやっている人か、暗黙知でやっている人かという違いがはっきりしてくる。

形式知で深めようとしていても、それは広く知識を持って補えばいいと思っても広い知識では浅くなり時間もかかり暗黙知は得られない。それは職人が、「バカヤロー!勉強する暇があればこれを遣り続けろ!」などとと怒るときや、「そんなもの背中を見て学べ」と使うあれである。それなのに、形式的に勉強すればいつかは分かるだの背中ではなく表面ばかり見てあれこれと考えても一向にその暗黙知は理解できない。

深さがあることを知らない人は、その浅さと広さで補おうとしてもそれでは暗黙知は理解することはできない。原理原則やコツを掴んで何かを気づき悟っている人のことを理解するには、その人との同体験や一緒に何かを実践したりする最中で理解するものでありそこではじめてそういうものは陶冶される。

またその逆もあり、暗黙知を伝える人は、いくら暗黙知で伝えても形式的な人には浅く広く理解しようとされていつまでも伝わらないのだから深さを次第に理解できるようにそれを形式知に変換する必要がある。それは、何かを動作をすることを科学的に証明したり、環境を用意してそれを自らが理解できるようにと促したりと色々と創意工夫というものがいる。

いつまでもそれを理解しない人は、浅さで深さが補えると思い、深さで浅さが補えると勘違いしている人だということになる。

そのバランスの保つには、偏らず使い分ける見識が必要になるのであろうと今では思う。私もどうしても思いが強くなると、暗黙知を飛ばそうと躍起になることがある。相手に理解させようと自分を持てば余計に本当のことは伝わらない。ある意味で無私でなければ、正しくならないのであろう。

しかし本来、子ども第一主義であり自分の思いは眼前の人に向いているわけではないのだからもっと偏らずバランス軸にあわせて正しく浅くもあり深くもあるところで維持していきたいと思う。

「この世はすべて夢うつつ、どちらも真実、どちらも夢想、顚倒せずに我此処に。」

そんな心境でバランス感覚を養いつつ、日々に新しいことにトライしていこうと思う。

自己肯定感

先日、1/4の奇跡という映画をカグヤクルーと一緒に拝見することができた。この映画は、障害を持った方々に接する山元加津子さんという方にフォーカスして制作したドキュメンタリーであった。

映画の中では、障害を持った人たちから心で生きることを学びその言葉を多くの人たちに伝えようという意志がとても伝わってきたものであった。私の師は、子ども心にとても精通している人であり、この映画では障害者の心にとても精通した方だなと実感した。やはり現場で実践している人たちの言葉はいつも重くそして深い、だからこそ心が揺さぶられシンプルにありのままの真理を伝えられるのだろう。

他人が自分に本当の意味でできることできないことを自覚し、お互いを真剣に尊重しあいながら生きている無二の関係を見ると私は自分自身のことが浮き彫りになり、同時に素晴らしい人たちからもっと学びいつの日か同じように自分らしく使命に準じたいと思えるようになる。有難いことである。

人間の心に深く精通している人は、その心の世界が持つ玄妙微細な叡智を言葉にすることができるし、それを深く理解して正しく世の中へ表現することができる。人間にはそれぞれ役割分担があり、もっとも弱い立場や抑圧されているところにこそ真の優しさと強さが必要であると訴える必要があると私も生きていていつも思う。

いつも思いやりをもって命を尊重し、人々がすべて必要不可欠な強い繋がりに於いて生き生かされているのだとそうではない社会の在り方を義憤を持って貫くのだろう、そこに偉大な人間愛があることを感じると世の中にはまだまだ人物は沢山いると思い嬉しい気持ちになり論語の「徳は孤ならず必ず隣あり」の意味を実感する。

自分の心には色々なものがある、それは自分を守りたいと思ったり、何かを奪いたいと思ったり、厳しくしてしまうことや、自分さえよければなど、心をむき出しに素直になればたくさんの嫌な部分もでてくる。しかし、そのすべてを見ても自分は優しい心があると選択するとき人は偉大なものに動かされていることを感じるのではないか。

それが必要とされていると感じる事であり、それが何か偉大なものによって生かされているものであるし、自分を最終的にはそうさしめている不思議で玄妙な何かの力が働いているからであると感じることもある。

もともと自分の尺度から物事を考えれば、思い込みという価値観の色眼鏡で心を封じ込め世界を自分色に染めてしまうもの。鏡であれば、塵や埃にまみれれば本当のものは心にも映し出さないし、水も汚れて波を打っていたら、その表面は歪んでしまい心には正しいものは何も映らないように、その心がまず清らか澄んで平安でなければ何も本当のことは見えることはない。

素直であるとは、そういうあるがままの心、つまり本当の今の自分を受け容れた後の無理をしない素直な心で善悪好悪すべてをもっている自分の心のあるがままを受け容れることを言うのであろうと私は思う。それを否定したい気持ちに自分が克つことである。

これは師も以前、雑談の中で話してくださった中に「人は完全に善ではない、子どもを見ていたら子どもの中にはその善悪の両方が渾然一体に存在している」と仰っていたことがあった。あの時はよく理解できなかったけれど、これは自分の心と正対し見つめてみれば今ではそれがよく分かる。

人は自分はそんなはずはないと思いたがるものだし、自分はあんなのとは一緒ではないと嫌悪するのだろうけれど、そういう人が真の意味で他人に自分のことのようにと思いやりを持てる人には決してなりはしない。

自分に誠心誠意がない人が、他人に誠心誠意ができないように、自分の心に誠実でなければ、他人に誠実であれるはずがない。弱さも強さもさらけ出すのは、自分の心そのままを他人に見せれるからである。それは別にかっこ悪くてもいい、情けなくてもいい、酷いと醜いと思われてもいい、自分はこんな自分なんですと言える正直さという勇気であると思う。

むき出しの心を見つめたとき、人は本当の意味で優しい心を持つのであろうと思うし、人がはじめて人を本気で信頼することができるのであろうと思う。完全なる善人もいなければ完全なる悪人もいない、ただ人がいるだけなのである。

私自身、課題が多く、まだまだそれができず相性などもあり大変な思いをすることがある。しかし、大切なことはそういうことも気づかせていただけるすべてに深く感謝し、あるがままであることの真の価値を見出すことが差別のない尊重し合う平和な世の中を創るのであろうと思う。

いつまでも自己否定せず、自己肯定するということの本当の意味を子どもたちに還元していきたい。自己否定とは、自分はそんなはずではないと無理に抑え込もうとせず、自己肯定とは、そんな自分もあるのだなあと素直に受け容れること。

自己肯定感が低いと言われ、自分を受け容れることをなかなかしない今の社会で、自己肯定感を高め心を気軽に気楽に生きていけるような自信を子ども達へその輪を広げていきたい。

一円対話を用い、さらに自己肯定感を真意を愉しめるような子ども第一主義の社業を実践していきたい。まずは自分から、真実の自分自身をいつも受け容れていきたい。

優心に学ぶ

何かの機会があるとき、人はそれを心で感じているのと頭で感じているのでは感じる事の真偽が異なってくる。真には順序があり、ほとんどが感じてから考えることであり、考えてから感じるのではない。

まず日頃の心の姿勢や心の態度、心の置き所が何処にあるのかを自覚していなければそれはわかることはない。

日頃心が感じる方を優先して生きようと決めたなら、まず心からあるものを探していくように日々に前向きに明るく、そして感謝と御蔭様でいるように自らを律していなければ心が発動していくことはない。

日頃から自分の満たせない心の欲求や欲望をいつも求めていては、後ろ向きに暗くなり、心身ともにないものばかりを探して疲弊していきそのうちに心を使わないでいい方でいようとして進んで忙しい日々を送ろうとする。

人は、まず心の在り方から変えなければ幸福になることはない。

仕事でもそうだけれど、自分が今、どれだけ有難い恩恵を与えていただけているのか、信頼できる仲間にめぐり逢い、人として正直に生きる上司と学び合え、たくさんの素晴らしいお客様によって自分を必要とさしめてくださる、五体は満足であり、家族はまだ現存して絆もある、そして経済豊かで物が不足することのない環境があり、病気もせず、そして死ぬこともない、等々。

これだけ挙げても自分がいかに、働けるということや働くということによって幸福を得られているか、それを心底思えば、次第に心から「有難う」「ご苦労様」「御蔭様で」という言葉が日々の態度に顕われてこないだろうか。

これができないのは、あまりにも自分が今幸せすぎるからであると私は思う。不幸になったことがない人は、幸せになる必要がない。不幸を知らないから、幸せになる方法もわからないように実は、今不幸だと満たされず思っている人ほど今が一番幸せであることが多く恵まれすぎるからないものを強請ろうとするのであろうと私は思う。

客観的に自分を見つめれば、心の中で欲しがっていたものは実はそのすべては何者かの偉大なものにより与えられている。それをいつまでも活かそうともせず、いつまでも不平不満で捻くれた心で一向に素直になろうとはしないのが真の不幸なのである。

これは、満たされているからこそ満たされないということであろうと思う。
そういう人は、内面と外面が切り替わり調和するようないくつか自己変革の峠を越す必要がある。

一つは、真に満たされることはできないというほどの不幸に遭遇してみることでもう何もできないというところから探せばまだまだあるではないかと思えるような天機に回り逢うこと。人生で、幸福を願っていれば多くの周囲の思いやりや優しさに触れながらいつかは手に入るであろうとも思う。

もしくはもう一つは、志を偉大な高さまで高め、もっと多くの人たちや世界の人々の平安を物心から満たしていきたいと願い自分を天地人一体になり謙虚に使っていくことではないかと思う。

人は、刷り込まれるものなのだから安易にそんなに真理に近づくための方法などはない。遠くにあるものや外にあるだろうと勘違いしいつまでも探すのではなく、足元であったり内にあるものを探していこうとする際に自分の心に出逢うのであろうと思う。

すべては必然の中にその必然を感じる心が動くままにその今を大切にしているかで時間の差がでてくるものだ。いつまでも優柔不断にあるがままに流されていては心を台無しに生きることになる。本当にあるがままに生きるとは、来ているものや持っているものを真剣に受け取りそれを活かすために心が決めて動くことであり、そうすれば世界はこの今からでも次第に変わっていくのだ。

しかしそうはいってもその人と人なりのかけたい時間もあるのだから、何百年先になろうとも得たいものはいつの日かは得られるのだと思うから安心するとよいのかもしれない。

幸せになってほしいと切に願えど、時機や天機は本人次第であると思う。だからこそ出会いは本当に不思議で素晴らしい。私も、この今、此処の周囲にいる人たちや環境すべてとのかけがえのない一期一会であることは真実。

私は、周囲の人や世界を心から愛している。だからこそ、周囲の人たちと共に本気の人生、本音の心で接して、愛を満たして愛を溢れさせ、子ども達にもその愛の循環を行動で示していきたいと思う。

子どもの心にはいつも有難いことを教わってばかり。こんな私ですが、まだまだ色々なことを教えてください。優しくありたい自分の心を自分がいつも大切にしていこうと思います。

本当に有難うございました。

道枢

様々な議論や対話をする際は、その原点や初心ともいうべき中心軸がある。

本当は何のためや、一体何のためにと考えるというのは、その中心軸である根本、つまりは根源的理念や信条などという一本通ったものから話し合うことが本筋の議論ができているということになる。

人は、すぐに相対的な考えで自分を中心に物事を解釈し、そこから甲乙をつけて納得しようとするけれど、それでは永遠に本質を理解できはしない。

本質を理解するには、その中心軸を感じとり掴み取るような議論がいる。

つまりは、議論とはその中心が何処にあるのかを話し合いの刹那に自らがその本を捉えることである。

よく話し合いをしていたら、どうしたらいいかどうしたらいいかとばかりに囚われ自分の小さな世界観で大きなものを理解しようとする人がある。しかし、自分の小さな世界では理解できないような大きなものは池の中のカエルが大きな海を理解するくらい難しいことである。

では、どうすればカエルが海を理解できるかというと自分がカエルであることを忘れることであると私は思う。これは仕事でもよく言える、社長の問題意識を理解するならば自分が従業員であることを忘れればいい。そして、自分の地位や役職や肩書などといった小さな池に囚われるのではなく、そもそも海というものにあわせていくことではじめて海が理解できていくのであると私は思う。

仕事をしていると、いつまでたっても変わり映えのない小さなところで右往左往するような作業に没頭し、一喜一憂するようなことを続けてしまうようなシーンに遭遇する。しかしそれでは、本質的なことにあわせて自分というものを中心軸の周囲を正しく回り続けながら積み上げていけるような存在になりはしない。

荘子に、「道枢」という言葉の定義がある。

道というものに一本の空が存在し、その空の中にこそ、無用の用があるとする。これは私の言葉でに換えれば、「きっとそこに何かがある」と感じる場所で自分を活かすことである。

つまりは、偉大な思想や理念、師の行う本筋の行はすべてその「きっと何かがあるのだろう」ということを心が感じ取るために師や理念を議論するものであり、それは頭で小さくまとめるのではなくきっと何かがあると心から信頼して気づきを行動に移していくことを言う。

よく仕事をしていく中で、進め方を大事にするようにと私が話すことがある。

これはなぜかというと進め方が正しくなければ道枢に沿ったものにならないからでもある。自分勝手に進め方まで変えてしまえるのは、その中心軸がわからないからと適当に自分の目と手と頭で安易に処理することであり、私はいつまでも頭ではわからないままでも一緒にやっているうちに感じ取っていくようなものがこの本筋や中心軸というものの理解の方法であると思う。つまり、わかった気にならないようにすることであり両義性や宙ぶらりんのままである状態を心の力で矛盾のまま維持する方法である。

その人の理念を単に文章を読んだくらいで分かりはしないし、ただ話を聴いただけでも知りはしない。しかも自分の居場所からいつもそれを認識しようとしてもその大きさも深さも認識できない。だからこそ議論とは、いつもその中枢が何なのかと自らが動きながら能動的に感知していくものであると私は確信している。

これは簡単に言えば、真似をしてみるや、一緒にやってみる、進め方を教えてもらうや、どのようにすればいいか指示通りやってみるなど、答えはシンプルであり、その他人に近づくことからが価値通りに自らを合わせる方法であると私は思う。

子ども第一主義という、絶対的な理念の前ではもっとみんなが形があるものに縛られず、もっとその人間のことを心底共感することが一緒に何かをするためには頭で理解するよりも何よりも必要なこととし、眼前の利益よりも、心眼の尊徳を大切にするような仕事を続けていきたいと思う。

今、大切なものを守るため同じものを見て、同じものを感じることが心の壁により邪魔をされできなくなることの難しさを感じる。もっと大小や可不可など、相手を意識せず自らの理念をあるがままの自然体で取り組んでいきたいと思う。

無垢な子どもの心で自らを見守っていきたいと思う。

心と形

人が人と信頼関係を築くのに、心をオープンにするというものがある。

この心をオープンにするとは、周囲のことを信頼することでありそれは自分から自分のことを伝えていくということでもある。例えば、自分がどのような感情で何を感じているかや、自分がどんなことが嫌でどんなことが嬉しいかなどお互いの垣根を越えて相互理解していくようなものでもある。

しかし、人間は過去のトラウマにより心を塞ぎ、そのトラウマで傷ついた部分を避けて他人と接しようとすることでより周囲を不安にさせ、信用や信頼を失っている人もいる。

仲間といっても、心の傷は触れ合わないでいようと本心を語ろうとはせずそれをひた隠しながら対話をしようとするのを傷のなめ合いともいう。これでは、お互いの心を通じ合わせて何かを共にしていくことは難しい。

心とは癒し合うものであり、それは心の傷を触れ合わせて本心で語り合うことで心を開きながら対話することをいう。それをすることで、傷は互いの共感や受容により癒されていき本心を語ることで安心し心をいつも信頼する人たちの中で開いていくことができるからであると思う。

本来、そういう心の傷というものは自分を強くしてくださった天の試練として謙虚に受け取る人はいつもプラス思考で人生を前向きに心を開き歩んでいくことができる。傷をいつまでも癒せない人は、過去のトラウマを天からの有難い試練とは思わず自分がこんな目にあったのは誰かのせいだといつまでも被害妄想を持ち誰かのせいにして自分から傷を治さず腐らせていたりもする。

そしてそういう生き方をすれば、必ず信用をいつかは失い、信頼関係を壊し、無自覚にたくさんの人たちを傷つくことの恐怖に巻き込んでいくのであろうとも思う。

すべてをさらけ出すとは、自分を信じてくれている人に嘘をつかず隠さないということをいう。

心が安心し合う関係は、いつも自分のことを見守ってくれている人たちのことを信じて生きていくことを言う。ないもの探しではなく、あるもの探しをし、いつも自分のことを大切に思ってくれている人たちの方を見て、自分からその人たちに心を伝えていくことは信用と信頼の社会を築く上でとても大切なことだ。

形だけあわせて、心はいつまでもあわせようとしないのでは皆で一丸となって偉大な夢を語り合うことも実現させていくこともできはしない。もっと自分だけの人生のことだけではなく、自分を見守ってくださっているみんなのために自分を変えてほしいと願う。

子ども達のためにも、心と形をあわせた渾然一体になった姿で楽しく豊かに生きていきたいと思う。

感受性

その人の持つ心技体が一つの仕事として顕われているものがある。何か大切な理念や信念、その人が経験して自ら掴んだ原理原則やコツのようなものは、頭で考えて理解したからと得れるものではない。

そういう暗黙知は、その人のことを真に丸ごと理解していくプロセスの中で心が次第に感受するものであると私は思う。

もちろん、共に生活をし、共に同じ体験をし、共に歩めば、次第にその人の全体像が自分に入ってくる。言い換えれば、その人がどのような人なのかという目に見えるところから見えないところまでをすべて感じることでその人のやろうとしていることややっていることを深く感受できるものだと私は思う。

偉大な人物や、自分よりも役割を沢山持っている人のことを理解する際、人は自分の尺度で自分の解釈と物差しで判断したりしようとする。しかし、人は心が持っている広さ深さというのはいくら頭で考えてもわかることはない。

私も師の話や、何か大きな使命をお持ちの方に触れるときは必ず「きっと自分にも分らない何かがあるのだろう」という相手への畏敬の念でまずは丸ごと信頼して接するようにしている。仕事を共にする中でも、まずは仰ることが理屈でわからなくても信頼してまずはやろうとする、そしてそれをともにするプロセスの中でその人の偉大な問題意識や思想を理解し感動しながら心でコツをつかんで次第にその人のように自分を大きなものにあわせていけるようになる。

これは、そうしているときが心でまず感じようとするための方法だからでもある。

他人を理解するとき、関わりが浅く表面上でいいのであれば頭を使えばいい。しかし深く厚くその人物を感受するときは、必ず心からでなければできはしない。

私はよく、何かを検索したりするのにぴったりとあうのでなぜかと身近な人に方法を教えてほしいとあるけれど、これも心の働きを使い自然に体を動かすように日頃から心を遣って生きていると次第にそういうこともコツを身についていくもの。

つまりは、なんでも心で接し、心から学び、心から感じることが、本質的で自分がその人と一緒に行動する中で心を通じ合わせて感心・感動することになるのだ

まず自分から感心をし、感動をし、感謝をできるように、その人の心に配慮し、信頼をしていく感受性を大切にすることであると思う。

子ども達には、お互いを理解することは一緒に何かをやるなかで心で感じることを大切にするようにと示していきたい。今はすぐに理解できる五感、目や耳だけで何かをすべてやろうとするけれど、本当は六感の心の力を育てていけるような環境を見守っていきたいと思う。

心の言葉

人には、それぞれに潜在意識の中に埋められない思いというものがある。

いつも何かに満たされないと思って外側に自分を満たすものを求める人はどうしても心の平安を得られず苦しむことがある。そもそも心の平安とは、内側にあるものを探していくことであり内側にないからと外側に求めるものではない。

人は、そうやって欲望に一喜一憂しているうちに本当の自分の心を粗末にしてくものであろうとも思う。

しかし考え方を変えてみると、トラウマや心の傷というのは外側から埋めることはできないけれど自分の内側から癒すことはできる。自然治癒も道理のように、過去に戻りどうしても受け入れがたいことがあったとしても過去は過去だとそれを冷静にみつめられる機会に人はいつか出会うこともある。

その際、自分の内面にある自然治癒のスイッチが入り、気が付けばそれがゆるしによって自然に癒されていくものであろうとも私は思う。その際、まず順序があり相手にゆるしてもらおうと求めるのではなく、自分が自分をゆるすところからはじまる。

私はある人に昔、「相手はゆるしてくれるか分からないのだから自分のことは自分でゆるしてあげなければ自分が可哀そうだ」という話で諭されたことがある。大なり小なり自分を責めるけれど、その時、自分の心がその心の言葉に揺さぶられて自分をゆるすことができた。

確かに相手の心は相手の中にあり、それを外側からどうアプローチをしても相手が相手の心でゆるしをしない限りこちらが許されたとはならない。だからこそ、お互いがゆるしあえるようにまず自分から自分の心をゆるしていくことが大切なことだと私もその際に気づいたことがある。

人間は、自分を責めるのは相手の心まで自分のものにできるという傲慢な気持ちがあるからである。そうではなく、謙虚に相手を尊重し、自らが謙遜の心で通じ合いを感じたり、信頼しあったりすることで、はじめて互いに満たし合い心の平安を持つことができるのだと思う。

自分のことを信じる事ができない人は、誰も信じる事はできない。そして自分が幸せでない人は相手を幸せにすることはできない。自分の心に素直に正直でない人は、誰にも正直で素直になることはできない。なぜならすべては、自分自身の心の在り方の問題だからである。

心が、すべての物事と渾然一体になったときはじめて自分というものをあるがままに認めることができ、言い換えればもっとも気楽な心のままがみんなにとって最高の生産性を発揮するのだと気づけるものであると私は思う。

人生を自分で生き難くしていくのは、自分のプライドや過去のトラウマ、すべて自分が自分を嫌うからであり、もっと自分のことを心から好きになるような行動と習慣付けによって自らを正すことでより自分の心の方を尊重し、いつも心からを優先する生き方を選ぶことなのであると私は思う。

人は自力を発揮しなければ自分で自分を変えていけないからこそ、自立支援には寛容と受容の心で他人の美点を褒め、他人の長所を尊重していくことが大切で時間がかかるようにみえても人が自力を発揮を促すにはいつも誰かの無償の愛、その思いやりがいるのだと私は思う。

もっとこれからも子どもたちが自分たちをいつまでも心の素直なままであるがままを歩めるように自己肯定感をはじめ、誇りをもって自分をほめられるような素敵な自分に気づける見守るを広げていきたい。

心の作用も心の科学も、これからはますます解明され進むことになるだろう。

成熟した時代に、物質的繁栄と心の繁栄の両輪を社業を通して高めていきたい。