人間観

人は生き方を教わるのと、知識を教わるのではその学びというものの本質は異なる。
前者は、心で行う学問であり、後者は頭で行う学問である。

そして、心で行う学問は素直にその人の生き方から自分が感動し変わっていくことでその人の人生観を自分のものにしていく過程で自分もああなりたいと正直に実践していくことである。

しかし、頭で行う学問は単に知識や五感で感じる範囲にとどまりその人の人生観までは入り込まなくても理解できるのでそれは自分なりの解釈をしていればいいのだと思う。

教えるというのと教わるというものは、浅いものと深いものがある。

浅いものは、学校の勉強のように言っていることを単に自分なりに記憶し解釈し覚えればいいだけのもの。しかし深いものは、職人の師弟関係のように師の考え方や生き方を心底自分のものにしそのコツを伝授されるまで徹底して離れず感化されていくことを言う。

理念の共有などというものや、一緒に何かを共にするということは表面上だけ合っているか合っていないかということをいくら何度も繰り返してもできることはない。そんなことよりも、その人の人間観や生き方などを傍で拝見し感じてそれを自分のものにしていこうとする第六観を使ってコツをマスターするようなものだ。

これは何を教わろうとしているかという自分の姿勢が問われるもの。

私も師がいて、顧問がいて得難い邂逅をいつもいただいている。それは言葉の意味や鋭い洞察、知識や体験を知りたいから教わっているのではない。その人の人間観や生き方、在り方、言葉の妙味や人間味からくる真の優しさや愛など、本来のその人からもっとも素晴らしいものを教わろうとしているからその実践を通じてより善く生きるための叡智や知恵、コツというものを自分のものにできるのであろうと思う。

このコツというものは、一緒に生活を共にしたり、一緒に現場を共有したり、一緒にその人の生き方を真似したりと、本心から充実する人生、意味ある人生を共有していかなければ得られない。

これは親子でも師弟でも難しいのだから、ましては他人でとなるとよほどの本音・本心での素直な深いかかわり合いと対話が必要なのであろうと私は思う。

本当に素晴らしい感動する料理を創る人からいくらレシピを教わって、真似をし、やり方を教わっても、決して同じ味はできはしない。それは、その料理人の人間観や生き方、生き様が自分に浸透してみてはじめてコツと真実が身に付く境地を同時にするのであると私は思う。

後日、素晴らしい上司で善かったや素晴らしい師と巡り合えたという人は、みんな教わろうとしている方が素直で正直な心の場所から発しているものであり、その生き方や在り方を自分が受け取る過程で心の姿、態度、そして技術というものを学ぶのであろうと思う。

今の人たちは、そういうものは避けてできるだけ安易に五感だけで済むようななるべく傷つかず深入りせずに表面上で探ってその場しのぎの技術で乗り切れるのではないかと思っている人がとても多い。

その人が自分の生き方によって、数十年かけて得た叡智を単に講演を拝聴しただけでわかった気になっている人もいる。また、同じ職場にいるからとその人のことを自分勝手自分の尺度で解釈をしその人の人間観など一向に理解しようと努力もせず単に上辺の認識でやり方を盗もうとしている人もいる。

しかしそんなことでは、永遠に正しいことやコツは掴めはしないから、自分の在り方から変えていくことだと思う。人間の人生観を学ぶことは、人生そのものをしっかりと自分のものにするために人生の真実や正しいことを学ぶということ。苦しみも痛みも避けようとばかりせず、もっと大切なものを学んでいるのだから心を磨き、自らを修養していくことだと私は思う。

子ども達には、大事なことはその人間から人生そのものを学ぶのだとし、生き方や在り方、つまりは人間観こそを学ぶために五感ではなく素直に六感全部丸ごとでその人からコツを学ぶようにと伝えていきたい。

自然から学ぶのも、体験から学ぶのも、全ては自分都合ではなく浅い知識ばかりを詰め込もうとするのではなく、全てをあるがままに受け入れる素直な心のままに自らを磨くことを示していきたい。

リーディングカンパニー

世界では、合理的に道理に叶いつつ、義理人情を重んじ、その矛盾を併せ持ちながら人々の繁栄と幸福を優先する企業がいつも最先端を走っている。

一見、無駄なく無理なく自然にやっていつつも、両輪では無駄もプロセスも大切な要素だとし世間では不自然で理解できないようなこともやっているのがリーディングカンパニーであると思う。

私たちの会社では、世間では当たり前の常識があまりなく世間の会社では安易に通り過ぎることもそう簡単には通り過ぎることができない。

それは子ども第一主義の理念を掲げているからでもある。

言い換えれば、この会社に在籍した以上、どんな理由があったにせよ必ず子ども第一主義のためならどんな遠道でも厭わないという私を含むそれぞれのクルーの覚悟であると思う。

時には、その事件に取り組む際に大変なストレスを感じることもあるけれどしかし最終的には社業を通じて子どもたちのために還元できる貴重な体験をさせていただけているのだから有難いことだと、その邂逅にいつも深い感謝が込み上げてくるから不思議といつまでも続けていけているのであろうと思う。

人間はすぐに臭いものには蓋をするではないけれど事件が起きたときにそれをすぐに処理して何事もなかったかのように振る舞いたがる人が多い。しかし、本当は事件はよくじっくりと観察してみるとそこが宝の山であり、それを真心を込めて真摯に力を合わせともに乗り越えていこうとすれば互いの将来に大いなる可能性と希望を切り開くものになる。

大切なことは、逃げようとせず倦まず諦めず根気強く心胆を定め最期まで遣り切ることであると思う。

それが我々ならば子ども達への誠意であるし、それが自分の子ども心を大切に守る事でもあるからだ。他人に真剣である人は、自分にも真剣であるし、そういう本気で生きている人は周囲へ偉大な本気の影響を与えていく人物になっていくもの。

必要な遠回りを勇気をもってできるというのは、心の強さの証であるのだ。

アメリカに、私が共感している最先端の会社がある。この会社の経営者や社風はカグヤの目指すものととても似ていて、多様な価値観で多様な人たちが生活を共にし、人生を分かち合って生きていくような組織がすでに形になってきている。

その代表のトニー・シェイが著書でこういうことを書いている。

「会社に強い結びつきを感じる社員はより生産性が高いという傾向には、多くの研究の裏付けがあります。社員の会社との結びつきを示す代表的指標は、その社員が社内にどれだけ友人がいるか、または社内に親友と呼べる人がいるかどうかです」

社内に尊敬する上司がいたり、社内に尊敬する友人がいること。または、どれだけ生涯の友人としても価値がある人物と認めているかというのは本当に重要なことであると私は思っている。私も会社にいるあるクルーたちが心底認め合っている姿を観ると、そこに結びつきの真の意味を感じることができる。

つい公私は分けてと浅い考えで人付き合いをするようだけれど本当の友人とは馴れ合いの関係ではなく、同じ道を歩む友とし丸ごとの個性や人格を認め尊重し、その人間の真の素晴らしさを理解しあっている無二の関係があることをいう。

仕事だからと割り切っていては、とても生活を共有しているとはいわない。仮面の関係では、真の意味でコミュニケーションをとることはできない。その人がどんな人間か、みんなのことを愛している人か、または仲間を心から信頼しているか、志を共に歩むことができる人かという風に、理念や信条を主軸にお互いがどういう結びつきをしているかによるものだ。

人が人を尊敬するのは、同じものを目指した時にその他人の真剣さや本気度を感じることで生まれてくるもの。

今いる場所で誠心誠意、自分の人格丸ごとで勝負する人は人としての魅力を醸し出すものだ。
そしてそこに自立や共生という真の意味が存在する。

この時代、表面上を取り繕いその場しのぎの関係でいいと勘違いしている人たちがとても増えている。しかし縁起を辿れば、いつかはその人との関係が子ども達へつながるしその影響が必ずまわりまわって自分に帰ってくるもの。

だからこそ、日々に真剣に生きることがライフワークだと公私を融合させる一円の関係が必要であるのだ。

私たちは、会社の理念が明確なのだからそもそもの天道地理義理人情すべてを一円融合しもっとも優先するものをその都度見極め、大切なものを守っていく強さを価値に変換していこうと思う。

世直しの本質

人は自分の体験というものを自分のものだけにする人と、それを自分と同じように苦しむ人のためにとする人というのがある。

前者は自分のことばかりを気にし、自分が世界で一番困っていると被害妄想の中で他を信じず日々を生きれば視野が狭くなりいつも苦しみから脱する方ばかりに逃げていつまでもそれを抜け出すことはできない。

しかし、後者は志が立っているから自分がこんなに苦しいのは必ずこの体験が他の誰かにそれを還元できると信じて今起きていることのすべての世界を肯定し、自他を信じて日々を生き、そこから心にゆとりが生まれ視野は広がり深まり苦しみを受け容れることで向き合うことの意味を感じて様々な困難を乗り越えていくことができる。

そう考えると、仏教でも小乗仏教と大乗仏教の違いでもあるけれど何のために悟るのか、何のために解脱するかということの意義が、自分の小さなものにするのか、世界のために大きなものにするのかではそのプロセスが異なるからどちらに自分がいるのかは当然気を付けることだと思う。

私は、子ども達のための会社と志を立てたときから子ども達の心を感じ、その周辺にいる方々の苦悩を自分のものにし、理想を実現しようとする方々の立場になってこの今もすべての出来事が皆様のためになるはずと信じて歩んでいる。

私のビジネスモデルは、世間のものとは一線を画していてそもそも経済とは多くの人々の真の繁栄のために使われるもの。そして道徳的にそれを行うとは、すべてを自分のものではなく世界のものだとしいつまでも私欲を排し還元することに皆で貢献を尽くしていくことが定義になっている。

世間や一部の人からは、能力があるなしや、経営が下手だ上手いだのいろいろなことは言われることもあるけれどそれもすべて同じように刷り込みから抜け出せぬ方々の真の苦しみの一つだと思えば別につらいことではない。

自分が誰にどう見られたとしても、相手の立場になっていつも心を遣っている人は心のままに世のため人のために、そして自分の誇りであるもっとも大切なことを貫くために苦しみのもつ真の価値や意義を見出していくのだろうと思う。

もともとビジネスで世直しや人助けをしようとしている人たちが、たいした苦しみもせずにそういうことができると思っている人たちが間違っていると私は思う。

よく小さな世界で早く楽になりたい、自分がうまくやっているように見られたい、作業が完璧にこなせて周囲より少しは抜きんでたい、自分を認めさせたいだの思っている人もいるけれど、そんなことをやるために世直しをしようや人々の苦しみを少しでも楽にしたいと思える人には永遠になりはしない。

志や使命とは、自分を越えたところで相手の立場になって少しでもお役にたちたいという謙虚な気持ちから発心するものだと私は思う。そんな私欲が深い人では、なぜ苦しみがこんなにつらいのかで満たされているからいつも自分の殻の中にひきこもるのだろうと思う。

何のために自分を律するのか、厳しい環境の中に自分を置くのかとそういうことも根本から考えずただ自分の一時の感情に流されているような自分本位の苦の解釈は、妄想に近いからやめた方がいい。

私は、この会社は子どもたちを基盤に多くの人たちの幸せと繁栄に貢献するために用意したものである。だからこそ、様々に起きる事件をそして苦しみをたくさん受け取りみんなで協力し、一つ一つの意味を感じながらそこから得られたものを子どもたちのために還元していきたい。

決して単純に良し悪しではなく、人は自分の人生は自分で決めることが大切なのだ。何を決めても自分の意思であれば、それが一番善いことだと私は信じている。

私の願いは、子ども達の心のままに生きられる未来と社会そのものである。

チームワーク

自分にしかできないことをやる、自分らしくあること、自己実現することなど人は個体として自分の思いを持っている。しかしそのどれも、身近な人た仲間の邪魔をしていたらいつまでもそれができるということはない。

人は誰でも、自分のやりたいことばかりを優先していたら周りの他を邪魔することになる。だからこそ、チームワークの本質は仲間のやりたいこと、皆のやりたいこと、理念や志、または使命に自分をあわせていくことをいう。

つい人は、自分にしかできないことをやろうとし自分本位に自分のやりたいことばかりをやろうとし周囲に邪魔されて怒ることがある。しかしそういう態度が、周囲に無理をさせ次第に協力者や支援者を失い最後には孤立してしまうもの。

最初から、皆の大事にしているものや仲間の大事にしているもの、リーダーのミッションなどを手伝えば必ず自分の出番が回ってくるものだ。

善いチームは、必ず全員が主役になることができる。

その点、チームとして体をなさないものは誰かだけが主役になろうとし、結局は誰も主役になることはできないのと似ている。これは出番を取り合っているうちに、脆く崩れてしまいいつも自分のやりたくないことばかりをしないといけなくなってしまうからだ。

それぞれが本当に機能する組織は、それぞれが自分のやるべきことを自由にやる組織である。これは、自分本位に勝手に動く組織であるのだけれどそれは自分の欲望や自分ばかりをいつも優先している組織ではない。

これはそうではなく、いつも一番大事なものを理解しあっていることでありいつも周りに配慮し邪魔にならないようにと自分自身を大いなる根本にあわせているからそれぞれが自分のやるべきことに全力を発揮し自立しあう組織ができていくのだと私は思う。

一流人の仕事とは、できる限り迷惑をかけない存在になる事である。なぜなら迷惑をかけないようになっているということは全体のために最善のことをやれているということだからだ。

そのためには優先順位を確認しできることは自分の範囲に囚われず全てなんでもやることであり、その延長にプロフェッショナルとしての自立がある。

いつまでも自分のことばかりに躍起になっている人は、迷惑や邪魔をすることも気にならず周囲の利益を阻害し、いつも自分のうまくいかない理由を他人のせいにし、一向に自分を変化させようとはしない。

誰かのせいでこうなったのだから、その誰かが変わればいいといつまでも他人のせいで生きていては遂には迷惑をかけ邪魔をするために存在してしまいチームの足をいつも無自覚に自分がひっぱることになるから気を付けないといけない。

人はいつも謙虚に、自分が存在するのは何の御蔭なのかを忘れてはいけない。

会社であれば、お客様の御蔭、会社の御蔭、仲間の御蔭、社会の御蔭など、いくつもの御蔭の中で自分が給与を貰う。給与も、そういう人たちから自分の貢献でいただく以上、全身全霊でその人たちのために自分を使ってお返ししていくことが筋道であると思う。

いつまでも社会人になってまで、親の庇護の中で誰かに守られようとは考えてはいけない。

自分が社会の一員である以上、責任を持って自分から大事なものを守るために自分が邪魔をしないよう謙虚に相手の立場で自分を使うことをやっていくことだと思う。

チームワークとは、あえて自分を後にすることで仲間を信頼しあうことができる。それは、仲間を先にと譲り合えば必ず自分の出番があることを謙虚に理解しているからでもある。自分の仕事を勝手に決めて、頑なに推し進めればその陰に相当辛い思いを強いている仲間がいることを決して忘れはいけない。

自分にしかできないことで、自分らしく一番輝くためにも自我慾よりも仲間と大切にしていることを死守することだ。

いつも心に見守ってくれている仲間の存在、会社の存在、お客様の存在、我々では子どもたちの存在があることを根底に定め、理念にブレずに自分をより全体が善くなるために使うことが真に人々の繁栄に責任を持つことになるのだ。

子ども第一主義とは、自立と共生、貢献と協力などの中に存在する理念。

チームワークが発揮してこその自己実現とし、まずは自分よりも大事なものを誇りを持って取り組んでいきたい。

今、時代の転換期である。

当然と奇跡

人間は、繰り返される日々のルーティンワークの中で当たり前に毎日同じことを繰り返されているように感じて大事なことを忘れていることがある。

奇跡を欲しがり、願望から当たり前でないことを期待しているけれど本当は当たり前であることはそれこそが何よりも奇跡であるということに気づいていないだけであると私は思う。

毎朝、必ず朝日が昇りそして活動し、日が暮れてまた休む。

その中で自分の周囲に愛する人がいたり、親しい人がいたり、そして出来事が無数にある中でその必然的な意味を感じたりしつつ、それが存在していること自体を深く感じ入っていると非常に深い邂逅の念と有難いことだと何より感謝に包まれていくもの。

滅多にないこと、無事だということ、それは全てに不思議で壮大な恩恵の中に在る自分を其処から感じることができる。包まれている不思議なもののなかで生かされる自分というものに今を思うと心底当たり前などないのだと実感できる。

こうやって今も刻々と時が過ぎ去っていく日々に、自分の存在の奇跡に出会うということや自分が存在しなければ、周囲もなく、周囲があるから自分が存在できるということを当たり前のことだろうけれど、これは決して当たり前ではないと思うことは無二の営みを大切にすることに繋がっていく。

今の自分があるのも、すべてはこの当たり前ではないことの必然的な積み上げで出来上がっているからだ。

だからこそ同じことは二度とないこの今に生きる自分が、自分を存在させてくれている周囲とかけがえのない関係を維持していることこそが何よりも有難く、その普遍的な営みを感じて生きることが奇跡の中にいることを実感する方法でもある。

外界が変化し、世界は大きく激変する中でも変わることがない人と人との深い絆や大切な一瞬一瞬の思い出は全てこの当たり前の中に存在しているもの。

当たり前であることが、もっとも当たり前ではないことを自覚し、不思議な一瞬一瞬をもう二度とないことだとし、今を何より大切に生き切るような人生を歩んでいきたい。

子ども達には、毎日を粗末にしないよう私自身が充実した日々を過ごして当然と奇跡を心底豊かに楽しんでいきたいと思う。

今を感じている豊かで充実した心を夢が実現している最中であると自覚し深く感謝し、もったいないと思う心と御蔭様だと感じるままに色々なことをさせていただける日々に感謝し、全てに対して丁寧に丹誠を込めて自らの命を刻々と使っていこうと思う。

時代

時が心で、心が時であることを昨日のブログで書いた。これは、簡単に言えば心が止まれば時は止まるし、時が動けば心も動くということを意味している。

人間は、心が生きている証に、時が流れていくのを感じる中で自分の心が存在することを感じて生きているのであろうと思う。

形のないものを通して、形があるものへと変えていくのは、その心を表現するために何か形にしたいという願望があるからであると思う。

それは、言葉でもいいし触れ合いでもいい、料理でもよければ、贈り物でもいい、心を形に変えていくことで人はその心を通わして互いに存在を満たしていくのだと思う。

そしてそれぞれの人たちの生活の営みがありその営みが形作った社会や環境が時代というものになり存在する。

新しいものが現れ、古いものが消え去り、巡り廻りつつ人々の心が生きた形跡を辿りながら循環するその変化というものを覚えることがある。

世界は、マクロからミクロまで多様な価値の中で人々は自らの居場所で存在する。

そして生まれたときより死ぬまで、外的環境が異なれど人は思い思いの中で生きていく。

その心からの思いが、良きにしろ悪きにしろ、そのままに人々に伝播していくのであろうと私は思う。だからこそ、どのような心で自分が生きるのかというのをそれぞれが子どもの頃から大切に生きていくことが時代の流れに沿って生きていくのにも重要だと思う。

時代に流れるというのは、川の流れに身を任すように時の流れを感じて生きていることを言う。

その中で特に大切であることは、自分から流れるということであろうとも思う。

子ども達には、自分の心が何よりも大切で心を澄ませて清らかに明るくいることを実践を通じて伝えていきたい。

どんな時代に生まれてきても、生きるのは自分であることを知覚し周囲を穏やかにしていくようあるがままであることを大切にしていきたい。

一つの区切りを感じて、新しい時代、古い時代の間にある今に感謝しつつこのままかんながらの道を尽くしていこうと思う。

時心

人は昔生きてきた軌跡を辿ることがあるとき、思い出というものを振り返り今がどうなっているのか、この先がどう変わるのかというのを感じていくことができる。

故郷をはじめ、青春時代を過ごした場所や人に会うと何が変わっていなくて何が変わったのかを実感することができる。

たまには自分というものをそのままに見つめる懐古の旅に出るのはとても良いことだと思う。

今の自分があるのは、過去の思い出の集積によりできているのは誰でも知っていると思うけれどその一つ一つがとても不思議な縁で必然的に繋がっていることを実感することはより心の旅を感じていくためにも大切なことだと思う。

心の旅は、感じたままであり、それは場所というものだけではなく、その当時の人との繋がりや、様々な環境と出会い、その瞬間瞬間の体験した心こそが変わらない確かな軌跡を遺していく。

形があるものはいつかはなくなるのだろうけれど、きっと人はなぜその思い出が存在するのかを思うとき不思議で何か偉大なものの中で確かに心というものが生存していた証ということを知るのだろう。

目には見えないし、耳にはもうその当時のことは届かなくても、確かにその場所にある思い出は心を通していつまでも新鮮なままで思い出として存在している。

時を経ていけば、環境が変わっていけば、新しい思い出が次々と上書きされ昔のことを忘れているとも言える。しかし実際は、心に刻まれた時はいつまでも変わらないのだから永遠に忘れることはない。

そういう心が生きていると実感したままその心の存在を見つめると、現実とは異なった場所で何かが動いているし、静かに感じ入ってもう一つの自分があるように心は常にもう一つの時を確かに刻んでいるのを感じる。

だからこそ心から大切なシーンは、二度とはない一期一会の時の思い出。

いつも自分に素直にそしてあるがままを受け容れることは、真実に生きているということでもあるから生き方や生きざまはやはりいつも自然でいたいと思う。

変わらない過去、変わっていく未来、それを思えば「時こそ心、心こそ時」という時心が今であることを知り、時空を超えた真の存在になるよう時と同じく感じるままに我がかんながらの道を歩んでいこうと改めて思う。

どんな人との出会いが、どんな場所との出会いが、そしてそのすべてを心が刻む時を、永遠の流れに身を委ねつつ穏やかに豊かに楽しんでいきたいと思う。

節目と道心

人生には節目というものがある、それは自分の人生を自分らしく生きていくために時にそれを本人は試練と感じたり、それを時には幸運だとか解釈をしその節目というものを積み重ねて人生を通して立ち上がっていくものであると私は思う。

その節目には、それを本人がどう捉えるかという生き方や在り方というものが左右しその時々の選択の如何により人は自らの進路を自らで定めていくことができる。

生きていくときに先人の智慧や叡智を活かすというものがある。

これは例えば、運不運をもっと長い目で待ってみて判断するという楽観的な発想で大極を感じたり、すべての出来事を天からの贈り物として有難いと感謝する心で知足観で安心し、出逢いと別れというものの中に探していた真の宝物が見つかるなどというように一期一会を楽しむというふうに、それぞれ生きていくことを素晴らしいものにしていこうとする積極的な発想を持つためにも色々な先人の格言などを通じて自分の視野を広げ余裕とゆとりをもって悠然と生きるための工夫をしていくこともできる。

しかし、幼い時より苦労が少なくそういう節目の体験を積んくる機会がなければそういうことを学ぶ機会にもなかなか回り逢わないものだと思う。大人が先回りして手を出したり、いつも本人は困らないようにとしていたらいよいよ節目が活かせなくなる。

もしも本院が挑戦をしたいと思い、腹を決め、行動を起こせばすぐに事件は起きるもの。

それを怖がらず、これが自らで切り開く道だと信じて自ら納得してしっかりと歩んでいけば必ず足元や身近にいつも見守ってくれている存在がいることを感じることができ、安心して明るく健やかに生きていくという正道にいつかは出会うのであろうと私は信じている。

節目とは、自分の人生にとってこれからどう生きるかというものを迫られるものでありそれはどう死ぬかということもあわせて迫ってくるものである。

自分がよりよく楽しく豊かに生き幸せにいることは、周囲に善い影響を与えることになる。人は、いつも誰かに迷惑をかけているのだからマイナス思考になるのではなくプラス思考にそれを捉えて自分が善い人生を歩もうと思うことが皆の社会を好循環させ発展させていくためにも大切なことだと思っている。

今の時代の人たちに増えているのは、他人との関係で傷つくことを恐れ、苦しみや辛さを避ける傾向があり、そんな苦しい思いをするならばいっそ一人でひっそりしている方がいいと、自分からいつも一人でいようとしようとする孤立を好みマイナス思考になる傾向がある。

これではそういう自分本位の考えて狭い視野で生きていくことを選ぶことであり、それではもっと未来が明るく楽しく開けていて世界は広く大きいということを周囲の人たちをよく見て協力していこうということにも気づけないということになる。

これは以前、師も話していたのだけれど少子化で子ども同士の触れ合いが減り幼いときから人と人との間での摩擦が少ないと将来それに耐えることができないと仰っていた。人といなければ、人の間にいなければ節目を大切に安心して学ぶことができない。

人には繊細な人もいれば、おおざっぱな人もいる、優柔不断な人もいれば、行動力のある人もいる、しかしそれは個性だけれどそういうお互いの違いを越えてもお互いが守りたいものや大事にしているもの、共通の道徳観や理念や信念を守ろうと力をあわせてお互いの摩擦も打撃も恐れず一緒に生きることを選んでいくのが本来の私たち人間の命の欲求であると思う。

裕福な時代、経済が優先され、金や物があふれて、過剰な保障保護をする社会では、そういう人としての当たり前の部分が次第に弱くなっていくのであろうと私は思った。

子ども達には、関わり合うことでしか生まれない真の友情や、美しい愛情、そして素晴らしい感動や青春など、付加価値がたくさんあることを実体験でイキイキしていくことを率先し、道を歩むことのかけがえない価値を伝えていきたいと思う。

道心を持つ人を一人でも多く増やし、世直しを楽しんでいきたい。

自分の心

人間は、自分の心そのままを見つめていくことで本当の自分というものを理解していくことができる。何かの問題や課題があったとき、その心がどのように動いているのか、その心に何を感じているのかを客観的につかむことで自分というものをはじめて深く感知することができるのだと思う。

しかし、ほとんどすべての人はその心までは辿り着くことがなくその前に自分の感情という壁に阻まれ自らの心を感知することはできなくなっている人が多い。

感情というものは、非常に主観的でありその主観的なメガネがかかれば曇ってしまい真実や本当のことを知ることができなくなるのであろうと思う。

どれだけ日々の生活に心を込めて、平凡なことを非凡に行い、丹誠を込めて丁寧に澄んだ眼差しで等身大で生きるかということが大事であり、それは心のままに生きていこうとすることでもある。

心根が素直でなければ、どんな知識や出逢いを得てもそれを本当の意味で心から感知することはできない。

何を学ぶにしても、読書にしても、旺盛な知識欲で真理を知ったとしても、その自分の心が澄んだ清らかなものでなければそれは誠を得たとは言い難いと私は思う。

中国の「菜根譚」にこういう言葉がある。

「心地乾浄にして、方めて書を読み古えを学ぶべし。然らずば、一の善行を見ては、竊かに以て私を済し、一の善言を聞きては、仮りて以て短を覆う。是れ又、寇に兵を藉して、盗に粮を齎すなり。」

これは、意訳すると「心を素直にして清らかに先人たちの書を読みその実践を学ぶべきである。もしも捻くれた曲がった心で学ぶと、先人たちの本当に積んだ善行や真心の言葉を、自分の言い訳の口実にしたりして利用するだけになってしまう。これでは、敵に武器を与え、盗人に追い銭を与えるようなものだ。」ということだろう。

よく師の言葉や、本質を語る人の言葉を聞いても一向に素直に受け取ることができない人と、あっという間に理解し素直に気づき実践により変化できる人がある。

前者は、やはりどんなに頭で知識をぱっと理解してもその自分の心が本当の意味で素直ではないためどこか師の意見や聖人の実践をわかった気になって本当の自分の心で感知しようとはしない。

しかし後者は、いつも師の言葉、一言一句に心底感動し、その学びや教え、実践を丸ごとを素直な澄んだ心で受け取るからその真意を正しく理解することができ自分をより王道や中庸へと導いていけるのだと思う。

その両方の違いは、自分の心をどれだけ正しく見つめることができているかによるものであると私は思う。もともと私欲が深い人は感情的であるから、正しくというのはより難しいのであろうと思う。

もともと何のために学ぶのかといえば、知識を沢山得て自分を立派にしたいと思っている人がたくさんいるけれどそうではなく、本来、学問とは、心でするものであるのだからその心の感応力を高め、余計な知識や壁を捨て去るためにするものであると私は思う。

生きるということ、学ぶということは、すべてに合理的なことであり、それはあるものは活かしないものは諦めるということをやるようなもの。言い換えれば、足るを知り、足らずも知り、それでもすべては満ちているという生き方をしいつも心のままに自然体でいるようなものであると私は信じている。

つまり私たちが生き活かされるのは、一体なんの御蔭か。

そういう偉大な無償の慈愛や無限の恩恵、畏敬の念も、自分の心に素直になっていれば学ばずとも覚知感応し必ずや道に至るのだと思う。

素直でなければ、本当の意味で生きれない。正しく生きるには、素直であれば十分だということを自分の心を見つめることで感知していくようなことを伝えていきたい。

今の人たちは、すぐに特別なことや特殊なことをできる人ばかりをすごい人だと勘違いし、すぐにそういう能力に魅せられ派手な技術ばっかり見た目ばっかりを取り繕おうとする方へとすべての学問そういう風に私物化する傾向がある。

しかし人間学というものは、もっと平凡で地味であること、天に恥じないような心と体で統一し生きるようなものが何より大切なのだと気づくような素直な心の実践が必要であることを自ら示していきたい。

こういう時代だからこそ、子どもたちの方がよほど心が満ち溢れて素直に輝いていると子ども心に学び、社業を高めていきたいと思う。

感謝

恥と柔軟性

人は使っている言葉の定義はそれぞれで異なっていることに気づかない人がとても多い。

例えば、本気の人が語る言葉は必ず裏付けされたものがあるから確信を持ってその言葉を語っている。それを裏付けされたものもなく何となく解釈している人とではその言葉の定義はまるで異なる。

先日の会社の打ち合わせで、ハイキングをする人と、本気でエベレストに登頂しようとする人では使っている言葉も、道具の意味も、その仲間との連携ということも同じ言葉を使ったとしてもその定義は異なるはずだという話をあるクルーがした。

私もまったく同感で、そもそも自分で納得して掴んでもいないことをさもわかった気になりそれを同じように話すことはそもそも無理であり、本来、本気で本物の覚悟で納得してやっている人とは言葉の定義が違うのだからそれはわかるはずもないと自覚することが相手のことを理解するために当たり前のことであると思う。

もしも変にその人にあわせようとして無理にその人のようにと競おうとして同じような言葉を使おうと無理をしたって、どうせ自分にはその人が本気で掴んだものまではわからないのだからそういう場合は謙虚に素直になって本質はどうなっているのかを恥ずかしがらずそのままに本心から尋ねる方が自分が納得をして進めることができるというものだと私は思う。

これはわかりやすくいえば、無理に不自然に相手のようにしようとはせず自分のありのまま思ったことをストレートに伝えて正しいことは何かを確認することがありのままであり本質的であるということになる。

例えば料理のコツをつかんでいる超一流のシェフに何かを尋ねるときにいちいちそのシェフの使っている言葉で語り合おうとはせず、無理にシェフのように語ろうとはせず、あるがままにどうしてこんなに美味しくなるのですかや、自分では分からないのですが順番とかあるのですかなどと、自分が本心から感じることや思ったことをそのまま素直に聞く方が自然であり本質的だということだ。

逆にそのシェフからこんなこともわからないのかと思われたくないと思って聞かなかったり、君のはそうではないと言われたくないからと、本質的に本心で尋ねない方がよほど恥ずかしいことだと私は思う。

「聞くのは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という格言がある。

これは、素直に聞けばいいことを恥ずかしいと思い聞かなければ一生後悔してしまうということを言う。一時的な恥ずかしいや一時的ないまさら聞けないというプライドや自分が傷つきたくないなどを自分を守ることを優先すれば、素直に本心を伝えることを恐れて聞かなくなってしまうのだろうと思う。

しかし、素直で本心で聞くことが恥ずかしいことではないと思えるのはそれ以上に自分が納得して正しくありたいと思うほうが優先されるからでもある。

自分が間違っていると言われたくないからと、間違ったことを遣り続けるより、それよりも自分が間違ったと指摘されてでも正しいことを遣る方が恥ずかしくないではないかと自覚することを言う。

どちらが真に恥ずかしいと言えば、そういうプライドを守ることで素直でないまま人に迷惑をかけてしまってもいいと思っている自分自身のことの方がよほど恥ずかしいというのが大人としての在り方であると私は思う。

大切なものを守るために、本当のことをやりたいや、本当にお役に立ちたいと思えば、素直に間違いを正してもらい、素直にどうすればいいかを教えていただくように謙虚な気持ちでいることが結局は自分を大切にし、他人を大切にすることに繋がっているのだと私は思う。

今の時代は自分が傷つきたくないからと自分を守ろうとする気風がある中、自分が傷つくことを恐れるよりも、思いやりをもって人を傷つけなくてもいいようにとできる限り自分を素直に開き修正して正していこうとする優しさと強さをもった生き方を大切にする方を優先していくことを示すことを伝えていきたい。

自分が本当に納得するために、自分の本心のまま話ができるような恥ずかしくない素直な心のままでいられるようにしていく環境を用意していきたい。柔軟性があるとは、理念や信念という一本通った誇りを守るために自分を素直にして修正するということを言う。

柔軟性を持った組織とは、素直に自分の間違いを認めることができることであり、それよりも大事な信念や理念を守り抜こうとする正しいことをやりたいという真心と思いやりを優先していく自分が誇らしいと思うことを言う。

誇りを持って、素直に聞きいつも正しくあれる自分を大切にすることを示していこうと思う。