人は生き方を教わるのと、知識を教わるのではその学びというものの本質は異なる。
前者は、心で行う学問であり、後者は頭で行う学問である。
そして、心で行う学問は素直にその人の生き方から自分が感動し変わっていくことでその人の人生観を自分のものにしていく過程で自分もああなりたいと正直に実践していくことである。
しかし、頭で行う学問は単に知識や五感で感じる範囲にとどまりその人の人生観までは入り込まなくても理解できるのでそれは自分なりの解釈をしていればいいのだと思う。
教えるというのと教わるというものは、浅いものと深いものがある。
浅いものは、学校の勉強のように言っていることを単に自分なりに記憶し解釈し覚えればいいだけのもの。しかし深いものは、職人の師弟関係のように師の考え方や生き方を心底自分のものにしそのコツを伝授されるまで徹底して離れず感化されていくことを言う。
理念の共有などというものや、一緒に何かを共にするということは表面上だけ合っているか合っていないかということをいくら何度も繰り返してもできることはない。そんなことよりも、その人の人間観や生き方などを傍で拝見し感じてそれを自分のものにしていこうとする第六観を使ってコツをマスターするようなものだ。
これは何を教わろうとしているかという自分の姿勢が問われるもの。
私も師がいて、顧問がいて得難い邂逅をいつもいただいている。それは言葉の意味や鋭い洞察、知識や体験を知りたいから教わっているのではない。その人の人間観や生き方、在り方、言葉の妙味や人間味からくる真の優しさや愛など、本来のその人からもっとも素晴らしいものを教わろうとしているからその実践を通じてより善く生きるための叡智や知恵、コツというものを自分のものにできるのであろうと思う。
このコツというものは、一緒に生活を共にしたり、一緒に現場を共有したり、一緒にその人の生き方を真似したりと、本心から充実する人生、意味ある人生を共有していかなければ得られない。
これは親子でも師弟でも難しいのだから、ましては他人でとなるとよほどの本音・本心での素直な深いかかわり合いと対話が必要なのであろうと私は思う。
本当に素晴らしい感動する料理を創る人からいくらレシピを教わって、真似をし、やり方を教わっても、決して同じ味はできはしない。それは、その料理人の人間観や生き方、生き様が自分に浸透してみてはじめてコツと真実が身に付く境地を同時にするのであると私は思う。
後日、素晴らしい上司で善かったや素晴らしい師と巡り合えたという人は、みんな教わろうとしている方が素直で正直な心の場所から発しているものであり、その生き方や在り方を自分が受け取る過程で心の姿、態度、そして技術というものを学ぶのであろうと思う。
今の人たちは、そういうものは避けてできるだけ安易に五感だけで済むようななるべく傷つかず深入りせずに表面上で探ってその場しのぎの技術で乗り切れるのではないかと思っている人がとても多い。
その人が自分の生き方によって、数十年かけて得た叡智を単に講演を拝聴しただけでわかった気になっている人もいる。また、同じ職場にいるからとその人のことを自分勝手自分の尺度で解釈をしその人の人間観など一向に理解しようと努力もせず単に上辺の認識でやり方を盗もうとしている人もいる。
しかしそんなことでは、永遠に正しいことやコツは掴めはしないから、自分の在り方から変えていくことだと思う。人間の人生観を学ぶことは、人生そのものをしっかりと自分のものにするために人生の真実や正しいことを学ぶということ。苦しみも痛みも避けようとばかりせず、もっと大切なものを学んでいるのだから心を磨き、自らを修養していくことだと私は思う。
子ども達には、大事なことはその人間から人生そのものを学ぶのだとし、生き方や在り方、つまりは人間観こそを学ぶために五感ではなく素直に六感全部丸ごとでその人からコツを学ぶようにと伝えていきたい。
自然から学ぶのも、体験から学ぶのも、全ては自分都合ではなく浅い知識ばかりを詰め込もうとするのではなく、全てをあるがままに受け入れる素直な心のままに自らを磨くことを示していきたい。