時が心で、心が時であることを昨日のブログで書いた。これは、簡単に言えば心が止まれば時は止まるし、時が動けば心も動くということを意味している。
人間は、心が生きている証に、時が流れていくのを感じる中で自分の心が存在することを感じて生きているのであろうと思う。
形のないものを通して、形があるものへと変えていくのは、その心を表現するために何か形にしたいという願望があるからであると思う。
それは、言葉でもいいし触れ合いでもいい、料理でもよければ、贈り物でもいい、心を形に変えていくことで人はその心を通わして互いに存在を満たしていくのだと思う。
そしてそれぞれの人たちの生活の営みがありその営みが形作った社会や環境が時代というものになり存在する。
新しいものが現れ、古いものが消え去り、巡り廻りつつ人々の心が生きた形跡を辿りながら循環するその変化というものを覚えることがある。
世界は、マクロからミクロまで多様な価値の中で人々は自らの居場所で存在する。
そして生まれたときより死ぬまで、外的環境が異なれど人は思い思いの中で生きていく。
その心からの思いが、良きにしろ悪きにしろ、そのままに人々に伝播していくのであろうと私は思う。だからこそ、どのような心で自分が生きるのかというのをそれぞれが子どもの頃から大切に生きていくことが時代の流れに沿って生きていくのにも重要だと思う。
時代に流れるというのは、川の流れに身を任すように時の流れを感じて生きていることを言う。
その中で特に大切であることは、自分から流れるということであろうとも思う。
子ども達には、自分の心が何よりも大切で心を澄ませて清らかに明るくいることを実践を通じて伝えていきたい。
どんな時代に生まれてきても、生きるのは自分であることを知覚し周囲を穏やかにしていくようあるがままであることを大切にしていきたい。
一つの区切りを感じて、新しい時代、古い時代の間にある今に感謝しつつこのままかんながらの道を尽くしていこうと思う。