人は何かの情報を感受する際、表面上で理解する形式知というものと深層的に理解する暗黙知というものがある。
形式知では生活の中で深く考えず、一般的に動作的に生きていく中では形式的なやり取りをし理解をしていくもの。例えば、食べてください、取ってください、電気つけてなどあれしてこれしてなどを説明もあまり必要もなく伝えるときは形式的なものでいい。
その場合は目に見えるものや単に聞こえるものなど、すぐに感知できるものを使って行動していけば理解していくことはできる。
しかしこの形式知では、相手が暗黙知で語ってくる部分、例えば理念や信念、もしくは原理原則や優先順位の意義などという方針やコツなどというようなもっとも重要なことを感知することは難しい。
この暗黙知は、例えば、料理でいえばその味から理念を感じたり、師の言葉に奥深い人生観を覚えたり、その一つの仕事の作業から原理原則というコツを掴んだりというように形式的には顕われない奥深いところを感知する能力で理解していくものである。
よく形式知ばかりで理解する人は、リーダーの発言や経営者の行動がよくコロコロ変わっているという風に理解して誤解し、いつまでたっても深い理解をすることができないでる。しかし暗黙知を理解する人は、いつもそのリーダーや経営者の発言が何処から来ているものか、その行動の裏付けは一体何なのかということを理解するからいつも一本筋が通っていることを感じ、次第にその暗黙知を理解し自分のものにしていくことができる。
当然、仕事ができるできないと言われる人や、空気が読める読めない、素人か玄人と言われるその差は、この形式知でやっている人か、暗黙知でやっている人かという違いがはっきりしてくる。
形式知で深めようとしていても、それは広く知識を持って補えばいいと思っても広い知識では浅くなり時間もかかり暗黙知は得られない。それは職人が、「バカヤロー!勉強する暇があればこれを遣り続けろ!」などとと怒るときや、「そんなもの背中を見て学べ」と使うあれである。それなのに、形式的に勉強すればいつかは分かるだの背中ではなく表面ばかり見てあれこれと考えても一向にその暗黙知は理解できない。
深さがあることを知らない人は、その浅さと広さで補おうとしてもそれでは暗黙知は理解することはできない。原理原則やコツを掴んで何かを気づき悟っている人のことを理解するには、その人との同体験や一緒に何かを実践したりする最中で理解するものでありそこではじめてそういうものは陶冶される。
またその逆もあり、暗黙知を伝える人は、いくら暗黙知で伝えても形式的な人には浅く広く理解しようとされていつまでも伝わらないのだから深さを次第に理解できるようにそれを形式知に変換する必要がある。それは、何かを動作をすることを科学的に証明したり、環境を用意してそれを自らが理解できるようにと促したりと色々と創意工夫というものがいる。
いつまでもそれを理解しない人は、浅さで深さが補えると思い、深さで浅さが補えると勘違いしている人だということになる。
そのバランスの保つには、偏らず使い分ける見識が必要になるのであろうと今では思う。私もどうしても思いが強くなると、暗黙知を飛ばそうと躍起になることがある。相手に理解させようと自分を持てば余計に本当のことは伝わらない。ある意味で無私でなければ、正しくならないのであろう。
しかし本来、子ども第一主義であり自分の思いは眼前の人に向いているわけではないのだからもっと偏らずバランス軸にあわせて正しく浅くもあり深くもあるところで維持していきたいと思う。
「この世はすべて夢うつつ、どちらも真実、どちらも夢想、顚倒せずに我此処に。」
そんな心境でバランス感覚を養いつつ、日々に新しいことにトライしていこうと思う。