向上心

人は最終的にはどう生きたいか、どうありたいか、そういうものを考え抜いて決心しなければこの今という瞬間を大事にしていくことはできない。

どんな出来事が未来から訪れたとしても、その時々の選択は自分自身で決めていくがその優先すべきものはいつもその初心や原点である人とそうではない人では人生の最終的なゴールのときにその答えをはっきりと出されるのであろうとも思う。

自分の人生に納得して生きるというのは、自分には天命や天職、天機があったと実感する生き方であり、その時々に本心から自分というものを信頼した人生であったかということにも直結している。

もしもそうではない生き方を選択すれば、最後まで自分のことを信じることはできなかったということになり、だらしなかったところから考えるのでいつまでも後悔ばかりして努力できなかったことを愚痴って生きることになるのだろう。

現状に満足せずにさらなる高みを目指していこうとする気持ちは、自分というものがどういう生き方をするのかということに直結している。目の前の目標を少し達成したり手慣れただけでもう向上心がなくなるというのは、まだ真剣に自分の人生と向き合ったとは言えない。向き合う心とは、心は常に目標に向けば次第に高めようとしていくもの、それこそが向上心。

もちろん人は向上するということから生じる大きな変化を恐れ、不安を感じたくないからといつまでも優柔不断に迷おうとする。迷いながら歩んでいると視野もせまくなりビクビクしながらでは結局は何もしないようにしようとしていくものだ。

子どものころを思えば、身の回りの自然から不思議なことをたくさん感じ取りその好奇心から将来あれをしたいやこれになりたいなどを使い不安や恐れを乗り越えて挑戦し創造していこうとする力が備わっていた。

赤ちゃんのころなどは、すべてが不思議に満ちていて痛い思いも辛い思いも悲しい思いもしながら泣き、そして笑い、もっとやりたいもっともっとと好奇心が自分を育てていたのは誰しも体験したものだ。

そしてそれを見守る環境が子どもを陶冶していき、その生き方に学び憧れをもった子どもたちが夢に向かって生きようとするのだとも私は思う。私自身も、自然界から今でもたくさんの刺激をもらい人生に活かしている。

生き方やあり方というのは、眼には見えないけれどお金では買えないとても大切なものなのである。それを持とうとしないのでは、結局は眼で見えるものもお金で買えるものをも何も生かせはしない。刷り込まれた人生か、刷り込みを取り除く人生かは自分の心が決めているのだ。

その刷り込みを取り除くためには、まず心の態度から変え内側からの力で殻を破ること。殻を破る本人と殻を見守る人との、卒啄同機のタイミングを逃さず心の態度を変える具体的な期限を定めて日々に強烈な意志と覚悟で変化に取り組んでいくことだと思う。

人は、節目に訪れる変化、そういう天機というものをどう受け止め、そういう天職との一期一会をどう感じ、天命というものに畏敬の念を持つかが人生を決めていく。

本気の人生、覚悟の人生、決心の人生、そのどれも天と繋がっていることを忘れはいけない。向上心とは天の心。天の心を育てて、子ども達の模範になるような大人の生き方をしてほしいと願う。

覚悟

先日、テレビで貧乏から脱出するために流行っていないラーメン屋を流行っているラーメン屋の達人と店長たちが指導していく番組があった。全体的にはドキュメンタリーのようになっていて、指導していく中で貧乏脱出の合格ラインを設定しそこまで見守っていくような感じであった。

不思議なことにいつも思うのだけれど、本来貧乏でうまくいかない人というのは自分のことをあまりよく分かっていない人が多い。その理由に洞察すると、自分が困っているのに自分が何とかしようとはしないというところに共通点がある。

本来、今の自分の生き方を変えなければいつまでも変わらないということの其処へは一向に気づこうとはせず、いつも自分自身がそこの決断をしなくていいように逃げ道を用意しているから自堕落な生活に流されていくのであろうとも私は思う。

私も相談の中でよく感じるのが、変えたいとは言うものの本当は変わりたいとは思っていないのではないかと感じることが多いのもこの「生き方や在り方を変えるのか」という部分である。

勿論、色々な理由で過去に大変なこともあったのだろうけれど今は自分が変わりたいと言っているのに、できないから誰かに変えてもらいたいというのはあまりにも調子の良い話ではないかと思う。

自分がダメなのはできるできないや周りの環境のせいではなく、どうせ自分はそういう人間だからと決めつけ、流されている方が決めなくていい分居心地が良いからではないか、それを自分が選択したからではないか。

自分が生きていく中で、どのように生きようかと決めるというのは自分で選択していくものである。例えば、嘘はつきたくないや、約束は守れる人間になる、二枚舌は使わないや短気で荒っぽくはしない、あんな生き方はしないと決め、自分が悪人といわれる人間になりたいのであればそれでもいいし、自分が善人といわれる人間になりたいのであればそれでいい、しかしどのようにありたいかどのように生きるのかは当然、自分で決めてくれなければ誰にもそれはどうにもできはしないものだと私は思う。

そういう自分自身でやることは避けていつまでも心で覚悟を決めず優柔不断にただ流されていたら、その機会をも失い、いつまでも変わらない生き方のまま人生を歩んでいくのであろうとも思う。

迷惑をかけてと言っているものの、それでも覚悟を決めないのは周囲への単なる甘えであると思う。甘えたいから変わりたくないというのは、甘えられなくなれば変われるということになる。

そういう人は、きっと変わりたいかと聞けばすぐに自分は変わりたいとは言う。しかしその心の中には、変わりたいから誰か変えてくださいというように自分では最期まで覚悟を定めないところで逃げ道をもらおうと躍起になっていることが多い。

そういう日々で自分を常に偽っていればもう素直とは何かも自覚することができなくなるのであろうとも思う。そういう心のありかたでいつの日か幸せを掴むことはできるのだろうか?

人生には大切な節目というものがある、その節目節目にどのような決心をするかで人の人生は大きく左右されるもの。その時に、自分が選んだ生き方こそがこの今を創りあげているし、それをしてきたからこそこの今を大切にしていくことができるもの。

正直で素直であるとは、自分がどのように生きるのか、どのようにありたいかを決めてそれに従い覚悟を定め行動することである。

そういう人でなければ真の意味での協力は得られないし、畏敬の念を持って謙虚に人との真心の通じた関係を構築して心の平安や幸福を分かち合うことはできない。

どんな理由があったにせよ、自分の周りに自分を信じてくれている人たちが必ず一人以上はいるものだ。だからこそ、その人たちのためにも覚悟を決め自分の人生を生きてほしいと思う。

いつの日か自分の人生を変えることができたら同じように大変な人の節目に寄り添い、見守り、自分がされたように相手にしてほしいと思う。それはそのことで今の自分の人生が納得の上で充実し豊かになったように、同じように相手の未来を信じて厳格さと慈愛さとで同じような心で目の前の人に接してほしいと願う。

人生で最も大切なことは「どう生きるのか」ということであると私は信じる。

一期一会