このかんながらの道のなかでもとても大切なことを書く、これは私たちが人を導いていくための根幹の信念である。
教育の在り方がどうかと思う中で、いくつか気になることに「恥」ということの意味について考えることがある。この恥ということを自らが正しく理解しているのと理解していないのではその人の一生の生き方に甚大な影響が出ることがある。子ども達に何かを教える前に、人としてどうあるべきかということや、どう生きるのか、どうありたいかということを示さず単なる知識ばかりを詰め込もうとするから一生涯その子が人生を歩む中で不幸の連鎖に見舞われることに気づいていない大人はとても多いのではないか、人として立派になるかどうかはその「僅かな領域」に潜んでいる。
先日、移動の際に出逢ったタクシーの方との話で大変興味深いことを互いに語り合った。
タクシー会社には、よく社用車をぶつけたりする人がいる。それをよく長く観察していると自損事故を起こす人はいつも同じ人が起こしていて、それがない人は常にないとのこと。
つまり、運転の上手い下手ではなく自損事故をする人としない人では何かの大きな違いが存在しているという話をした。
そしてその傾向がある人たちの具体的な内容をお伺いしていくと、事故を起こす人はお客様の到着時間に無理にでも間に合わせようとしたり、絶対にミスはしないようにしようなど、「何とかしよう、何とかしなければ」という思いをいつも優先し、そのため視野が狭くなり焦ってしまいそこから失敗をして更にそのことから余裕を失い結局は事故をするとのこと。
逆に事故をしない人の傾向を聴くと、間に合わないのであれば事前に連絡を入れたり、分からないのであればすぐに確認をしようなどという、まず自分がどうかよりもお客様や会社に迷惑をかけないようにしようとするからバランスが取れ視野が広くなり余裕を持ちながら丁寧に運転するからそういうことがないそうだ。
事故をする人はいつも事故であるから、事故処理の毎日を過ごしていく。そして事故をしない人はいつも余裕があるからより高度なことを身に着けていく。しかし、組織には事故ばかりをする人によってそうではない人がいつも迷惑をこうむることになる構図が産まれてくる。
このいつも事故をする人とずっとしない人がいるというのは一体どこに差があるのか。
それは自分が最初の考えの起点すでに間違っていることに気づいているか気づいていないかの差であると私は確信する。
つまりその考えの起点の軸に「恥」というものの観点があり、それが一体どういうことかということを気づくかどうかの差であるのだ。
まずいつも事故をする人の物事の発想の起点は、「自分が失敗をすることで恥をかく」とか、「こんなこともできない自分が恥だ」とか、「自分が迷惑をかけていること自体が恥だ」とか、主語がいつも「自分が」「自分が」という自分勝手な自己主義的になっている。
しかし、気づいていないようだけれど「本当の恥」とはそういうものではないだろう。
本当の恥とは、「皆に迷惑をかけていることが恥だ」や、「皆に配慮できないことが恥だ」や、「皆に再び同じ迷惑をかけてしまうことが恥だ」という風に、主語も相手が中心であり、その恥かしいと思うのはそもそも自分がではなく、他人に迷惑をかけることが恥だとなっていることをいう。
この恥ずかしいと思う観点がまったくズレていることに気づいていないのが問題なのだ。
前者の自己中心的な恥の場合、タクシーで言えば運転手が、「道がわからないのに聞こうとはしない、時間が間に合わないのに間に合わなかったからといい、さらには何かあっても自分のせいではないのだから自分が悪いわけではない」という。最初から、自分はこんなにやったのだからできないのは自分のせいではないという観点がある。つまり相手に迷惑をかけても恥ずかしくはないのだ。自分がやったことでは恥ずかしいことは一切していないのだから別に恥ずかしくないということになる。
別の事例で言えば、タクシーに乗ったお客様の住所の地理に詳しくもないのにプロだからと今更聞くのは恥ずかしいと思いそれを相手に尋ねようともせず自分勝手に走ってしまい、途中でお客様から間違っているのに何でここを走るのと不審がられてクレームになったりしている。言い訳もせず、謝りもしない。それは一体何を大事にしているのかというと、お客様の信頼や信用よりも単なる自分のちっぽけなプライドである。
後者の他人に迷惑をかけないという恥の場合は、タクシーで言えば、道がわからなかったすぐに聴こう、時間に間に合わないなら先に連絡をしよう、迷惑にならないように責任を取ろうという風になるものだ。こういう人を例えてみれば、タクシーに乗ったお客様に自分が知らない地理があったり、もしかしたら不手際がないかどうかを先に「私はお客様の方角に正確に詳しくなく、もしもおかしな道であればすぐに教えてくださいますか、また不手際や心地よくないことがあれば仰ってください」という風に、自分のプライドよりもお客様にご迷惑がかからないかどうかを考えるもの。
前者は恥とは自分の恥のことだと思っている人は、空気が読めないことが多くいつもそのことで人生が好転していかない。なぜなら、自分のプライドで自分を塗り固め、自分が自分がといつも自分が恥をかかないようにとするには視野を狭くするしかなく、とにかく失敗もミスもしないでいればいいという風になっているのだから塗り固められたものが厚くなりすぎて周囲との世界を遮断し空気も伝わらないほどになっているからであろうと私は思う。
後者の恥は他人様にご迷惑がかからないようにしないと恥ずかしいと思っている人は、空気がわかるので人生がいつも多くの人たちに生かされていく。これは、いつも謙虚に周囲を思いやり迷惑をかけないようにと責任を取ろうとするからすぐに周囲の空気を感じ取り周囲と確認をすすめながら協力を惜しまず最善を尽くすからいつも周りが心地よくなるような自分を維持しているのだろうとも思う。
前者のように恥の意味を誤解している人が、この恥の転換ができなければほぼ半永久的に人生は好転することはないと私は思う。改善しようと必死に努力しても根本的に片足を泥沼に突っ込んいるのだから抜け出すことはできない。
努力には、努力して何とかなるものと何とかならないものがある。恥が転換していないのに何をやっても人の道から外れるのだから、まず本来自己改革するのはそのことを正しく自覚することなのである。
・・・明日へ続く。