人間には目には観えないけれど、生きていくにはこの世に確かに存在している天理や法則というものがある。
なぜ自分が変われないのかと悩む人の根幹の問題はこの「恥」という部分で方針がブレていなければほとんど全てが解決できる。しかしこの「恥」を正しく理解しないでいては、実は何をやっても一向に改善されることもなく人生は豊かに楽しく生きることはできなくなるのだ。
人間は、虚飾のなく実直で思いやりのある誠意のある生き方をするときもっとも自分らしいものが何かを理解することができる。本当の自分とはそういう本当の意味であるがままでなければ出会うこともない。生まれたての赤ちゃんのような姿をどこまで維持しているかは、自分の生き方をどうするかを自分が守れるかどうかによる。
それが刷り込まれていくものもあり、例えば過去の育て方や教育環境から、失敗をさせてはいけないや、ミスはだめだ、満点を取りなさい、結果だけで判断するようなもので、一方的に教え込み評価をすればまた自分を見失い他にあわせて他を期待し他に甘え他のことばかりの評価で生きていこうとする人を作ったりする。
子ども達は最初からそうなっていたわけではない、自立する心や自立の魂は最初から備わっている、しかしその大事なことを今の社会に適合させて育ち学ぶ前に、本当の自分として生きるということの意味や自然の法則を気づけなかったことがその人の生涯形成に深く関わっているのだ。
私たち、教育や保育に携わる者は絶対にこのことを忘れてはいけない。
知識など、別に知らなければ誰かが教えてくれるものだ。それに何かにミスしたって失敗したってそれにより気づけるものがあり人は生長していくものだ。それをできない人は恥ずかしい、完璧でなければ迷惑をかけるなどという、自分の都合を押し付ける教育者は、結局は一体何を教育したいのだろうかと思ってしまう。
最終的に教育の目的のゴールは何か、よく考え抜き、自分がどうあるべきかは国の制度や教材などのせいではなく、自分の人生のことでもあるのでよく考える時間を持ち何よりも優先して学び合った方がいい。
例え小さな影響でもまだ幼い子どものときだからこそ将来育てば差は大きく開いていくのであり、その時の一瞬一瞬の見守りによる本人の気づきや学びが将来の社会の在り方を決め、私たちの未来とその子の幸せを決めることにもっと自覚と責任を持つことだ。
今の時代は、教育はどうせしてこないから企業に入社したらやればいいという会社も多い、もしくは最初からそういう他人に迷惑でもいいと思っている自分勝手な人は取らないと会社もある、それで今までは優等生で正しくいたつもりが最初の入り口で挫折しなんと自殺している学生もいるとのこと。
悲しすぎる話であり、こんな教育や保育がいつまでも許されるものなのかと本当に義憤に満ちる。これは先生の問題ではない、恥というものを正しく学び直そうとしない大人たちが問題であるのだ。
道徳倫理とは、「恥を知る事」からはじまる。常に、周囲や他人に迷惑をかけないためにどうすればいいかを学び直すためにそういうことが必要になる。これは人生で一生をかけて皆が自分に克ち続けていかなければならない大切なルールであり互いを尊重する自由でもある。
民主主義とは、好き勝手にすればいいのではなくそういう恥というものの本質を正しく存在させる尊厳と謙虚との調和であるのだ。
もちろん、今からでも遅くはないのだから人としての在り方や人としてどうなのかということを起点に、倫理道徳を大人の生き方や在り方からもう一度示し直し、それが理解できたところから知識や技術に入る事をするようにとしてほしいし私たちの幼児教育はまずその周囲の大人の学び直しからはじめなければ本質的な改善はできない。
社会も未来もみんなのもの。そして将来の財産はすべて次に生まれてくる子どもたちのもの。私たち大人は、何よりも金よりも名誉よりも我欲よりも「恥」ということを気づきそれを守っていける存在でありたいと願う。
最後に、そのタクシーの方は、とても印象もよく心地よい空気で信頼感を築こうとしてくださる方でしたがその方の父がこういう言葉をくれたそうです。
「わからないことは恥なのではない、一度聴いたことをわからないことの方が恥なのだ」
恥とは、人の道を踏み外すことが何よりも恥であり、自分がどうみられるか自分がどう思われたか評価されているかが恥ではない。そんなのは恥ではなく被害妄想と周囲へ甘えた依存の生き方である。本当の生き方とは、自分は最期までどうありたいか、どうあるべきかということを他人に左右されずに決めて歩み続ける覚悟である。
常に、恥を知る人間でいようと思う。
今、世の中でうまく生きられない何をしようとしても運がないと嘆いている方々へ愛を籠めて、恥の転換をする方法を学び直しによって伝承していきたいと思う。
・・・続く。