では、どのようにしてその恥を転換すればいいかというとそれは自分というものから逃げないで全てにおいて「己に克つ」ことで為すことができる。
まず自分というものを理解するために、外と内から形成された主観的と客観的に観える自己を正しく掴むことが必要となる。
自分というものがどんな強みと弱みがあり、それをどのように捉えているか、そしてそれをどのように活かすのかというのは、自分というものを正しく理解し正しく生きる上でもっとも大切な戦略であるとも言える。
ほとんどの人は、自分というものを自分で理解していくことは難しい。それは自分の目を通してみている世界の中で自分という主観的な思いや感情が価値観を構成し、そこから自分というものを形成したから自分はそうやって自分勝手に自分というものを捉えてしまう。
しかし本当は、もっとあるがままでありのままの自分の存在というものを客観的に分析し捉えた時、本当の自分は実はどういうものなのかという理想と現実を兼ね備えた自分というものを捉えることができる。
人は自分の欠点ややり方の誤りについては一切気づこうとせず、だからこそそれを修正することは大変難しい。しかし他人のことを自分の鏡として参考とし、他人をとがめるまえに自分というものをまず見つめてみてはどうかとなる。
人のふり見てわがふり直せとあるように、まずは自分もやっていると思って恥ずかしいと感じる心が大事でそこから自分を磨こうとする気持ちを起こすのだ。
だからこそ、自分というものをいつも自分が練磨していることが正しい人生を歩んでいることになる。ここでの正しいとは、自分の生まれてきて死ぬまでの人として歩む道のことをいう。
その自分の道から外れずに正しく歩めば、人は納得のいく人生を歩めたといっても過言ではないと私は思っている。
個人として、どのように恥を転換するかはまず自分のことはきっちとと自分がやると決め自問自答をし続け自分と正対し、人生の目標とも言うべき何かに対してそれを自らが己に克つことを定めたら、決して逃げずに日々一歩一歩丁寧に根気強く己に克ち続けることが最終的な転換の方法である。
そうやって個人でも自分の人生を最期まで諦めずに大切にし歩めば、己に克つことができ天からの贈り物として、愛や友情、絆や真心、奇跡や感謝などを人生物語を通して素晴らしいものと新たに出会って感動していくことができる。
常に恥を転換するためにも、自分が自分から逃げないことが今を大切にするための第一義なのだ。
そして集団や組織ではどのように恥を転換するか、それは皆で一緒に何かで己に克つと決める事であると思う。本来のこうあるべきと決めた理念を定めたらみんなで一丸となってそれぞれに時分自身が自分との闘いから逃げずに向き合い己に克ち協力して乗り越えていくこと。
皆で理念という正しいモノサシを納得して決めたなら、皆でどのように皆が最期までその課題に克ち磨きつづけるかということが大切になる。そしてそこから、仲間や師友、夢、志、道など様々な物語を通して素晴らしいものと出会い感激していくことがここでもできる。
須らくどの方法もまずは全て「己に克つ」こと以上に恥を転換する方法もなく、また人生を循環させる方法もない。
以前ブログで書いたけれども、因果律と同じようにこれは循環の法則でもあり、逃げれば必ず追ってくるものだし、追ってきたら逃げた分大きくなって戻ってくるもの。調和やバランスを取ろうとする力があるのだから逃げれば循環しなくなってそのうち弾き飛ばされることになる。
なぜ生きるのかというのは、最初からどうしてもやり遂げたいことがあるから存在するものでありそこから逃げれば自然の法則に外れるのだから天罰が下るような出来事に出逢うことにもなる。どうせどうにもならないのであれば、開き直って外部に自分勝手に創りあげ祭り上げた自分に都合の良い敵と争うなどとするのはやめて、自分のためにもまずは自分のことを徹底して行い修め、自分らしく自分との闘いを楽しめばいいのではないかと覚悟を決めればいいと私は思う。
「今の人生は一度きり。」
だからこそどんな時間も無駄にはしない、そう思うのならばもっと自分というものと逃げずに向き合い、強い意志を醸成し、世界そのものの中で自分がしっかりとやり遂げるという心を練磨し世界へ貢献する力を発揮してほしいと思う。
私も、自分というものと向き合っているけれど不思議に自分の感情などの色々なものに支配されそうになることが多い。志を立ててからは自分の人生は己に克つ事で切り開けると確信する以上、まずは模範として自らが実践して示していこうと思う。
変わり続ける中にこそ、自分というものの宝が眠っているし、そこから可能性も無限に広がっていくもの。誇りと自信のためにも、克己心を育成し、恥の転換をしていける人が増えるよう見守っていこうと思います。
人のことを咎めれば咎める程に、弱さをまき散らすことになる。
中途半端な責任回避や責任の押し付けは自分を磨く材料にはならない、子ども達のためにもまずは自分がやってみせることを優先する。