恥の転換 5

相手の立場で物事を考えて行動するというのは、自分の発言や行動が本当に自分側の視点ではなかったかと省みるところからはじまる。

どんなに自分は真面目にやっているからといっても、一人称における自分だけの視野で物事を考えてもそれが全体にとって良いものかどうかは不確かでもある。

仕事も同じく、その自分の行動や視野が果たして全体のためになるのかどうかを考えることができるというのは自分だけの感情や私見で物事を判断するのではなく、客観的に相手から見た時のことや、会社から見たこと、経営側から見たらやなどまず自分だけにならないように務めることが肝心となる。

どれだけ相手を思いやれるかどうかは、相手側や全体からいつも大局を掴もうとする心の姿勢が求められる。

自分にとって良いからという感覚はほとんど無自覚で、人は相手に善いことをしている気にはなっているもののその実、自分が楽をしたいや自分が嫌われたくない、責任を負いたくないという気持ちを隠しつつうまいことをやろうとしているものに気づいていないことが多い。

しかしこれは仕事の格言でもあるのだけれど、「自分のことは最後に考えろやまず相手が欲しいものを与えることだけを考えろ」というようにまず相手の立場になって考え、全体の立場になって考え、考えられるだけ自分以外のもののために考え切った後に、最後に自分にもどんな善いことがあると考えて自分を其処に集中して使うことが大切なのだ。

これを順序を間違え、自分に悪くならないようにと動作的になり無意識に演じてさも相手のことばかりを考えていると勘違いするのは、まだまだ物事の本質や本筋を掴むような大局観が身についていないからでもある。

そもそも自分にとって「最善」というものは周囲のために自分を活かすことをいい、それは仕事で言えば、難しい仕事を自分がやることや、誰でもできないことを自分が先にやることや、困っている人がいないように惜しみなく貢献することや、皆が大変だと思えることをまず自分から引き受ける事でもある。

そうしているうちに、他人のために一生懸命にやっている人を周囲は助け支えようとするものだから多くの人たちに見守られその課題を解決まで導きだすことができるものだ。多くの人の御蔭のもとに、気が付くと自信と能力、自らが磨かれ実力を伴うことができるようになってやっぱり自分にも善かったのだと最期にはいつも信じられるようになるもの。

そういう体験を積んでいなければいつまでたっても、この大局観は自然に身に付かず自分本位に進めようとし悪循環に陥ってしまうものである。

これはコツだけれど、そうならないのは遣り切らないからである。なんでも心で気づいたことをまず最期まで諦めず遣り切ることだと思う。中途半端にこの辺でと都合が悪くなり逃げてしまうとそういう体験を積むことができない。

自活する人と自堕落する人の差は、あと少しの忍耐と辛抱、つまりはもう少しのところで諦めるか最後まで諦めずやり抜くかの覚悟如何で決まる。

やると決めたら徹底してやるのがコツなのであると私も思う。

最後に他人にいろいろと指摘する仕事をするリーダーや上司は発言が相手のためにと指導するのだけれど、それが自分よりになり本当に相手のためになるのかということを常に省みないと結局は自分への逃げになってしまうこともある。

私も会議や指導した後は、ふり返りの時間が激しく眠れなくなる日々が多いのも、これも自分の発言がすべて自分に帰ってくるからでもある。それを受け容れるのは本当に相手のためだったかと自分を戒めるためであり、本当の内省とは自分の思いやりや誠意を確かめるものであるからだ。

常に自分の発言が、相手のためになると信じて遣り切り、そして発言後は内省により本当に自分はそういうことはないのかというふり返り、自己管理も全体のための自己管理なのだから自立を目指すものは襟を常に正し、恥ずかしいことをしないように自ら務めることであると思う。

恥ずかしいと思える気持ちが何よりも思いやりに繋がっていることを忘れないようにすることこそ恥の本質。

自分の一挙一動が、他人のためになっているかどうか、迷惑をかけていないのかを常に意識し、もっとも最善というもののために三方よしの実践をつらぬことで転換することだと思う。

こういうことからも、自らの変革を進めることができこの変化する機会を好機と捉え前向きに自分を磨き活かしつづけるためにも心の在り方というものを自らが定めておきたいと思う。