礼儀と敬意

自分のことよりも相手のことを思いやり、自分を犠牲にしてまで相手のために尽くそうとすることは大切なことである。しかし、自分が自立できずに他人のためにというのは難しいことでそれはよく観察すると依存している場合もある。

ではどのように人を判別するかというと、自立している人はまず自分の自由と責任を自覚しどこまでなら人に迷惑をかけないかというものを正しく理解している。しかし依存している人は、自分が不自由であることにも気づかず無責任がどれだけ迷惑をかけるかどうかも理解せずただ相手の言動に一挙一動が受け身になっている。それは別の言い方をすれば話は聞いているのに自分で考えないで決めないという方がわかりやすいかもしれない。

例えば、他人様に迷惑をかけないというのは自分のことができることが前提で何かを行うということだったりする。仕事でもそうだけれど、どれくらい自分が迷惑をかけているのかを自覚することが迷惑をかけないように配慮する力になる。

配慮がない人は、自分がどれくらい迷惑な存在なのかということを自覚せずそれを何とも感じていないし感じようともしない。言われたことはやるけれど、なぜそれが必要なのかやそれがどのような意味があるのかということは考えようとはせず、ただ言われたからとやってしまう習慣が身についてしまっている。

本来、やっていることは全てに大切な意味がありそれは単に言われたことをやればいいという話ではない。それを正しく行えない場合は、必ず他人様にご迷惑がかかるものでそれが会社ではお客様へであり、それが会社へであり、それが仲間や上司で在ったりするものだ。

だからこそ、自らが迷惑というものを自覚することが大切なのだ。言い換えれば、どのように評価されているのかを自得することが大切なのだ。そんなものと開き直っている人もいるけれど、在り方の問題であるのだからそれでは一生この人間社会では信頼関係を築くことはできはしない。

当然、突き詰めれば生きていれば必ず誰かしらに迷惑をかけてしまうもの、だからこそ必要なのは他人への配慮なのである。

そしてそれは世の中にある「礼儀を弁える」ということのことを言う。この礼儀とは、いつも丁寧に相手に敬意を示すような振る舞いを行うことである。

それができない人たちを洞察すると、家族が不和であったり、誰かと紛争していたり、いつも誰かに復讐する気持ちを持っていたり、争っていたりする人ほど、礼儀について一向に無自覚である人が多い特徴がある。

礼儀が守れるというのは自分自身を大切にすることを知っている人であり、だからこそ相手のことを大切にできる人である。正しい自己愛は、自分に敬意を示すことであり、歪んだ自己愛は、自分を責め憐れむことである。

自分を大切にするというのは、何かしらの贅沢をすればいいということではない。自分に素直になることや、正直になる事である、本当の自分の心を大切に信じ扱うことである。その逆で、粗末にするというのは、捻くれることや、嘘をつくこと、自分の心を誤魔化し、信じないことである。

自分を信じてあげるというのは、自他に正直であるからできるもの。
他人の顔色をみてコロコロと変えていたら、そういうことはできはしない。

礼儀というのは、そういうことをしないための実践でもある。
その尊敬や敬意を正しい形で示すのが作法なのである。

社会生活や人間生活の中で、自ら道徳倫理というモラルやマナー、その礼儀作法などを重んじ、相手に敬意を払うことが自分を大切にしていくことにつながっていることを自覚すること。

人間は、常に幸せの循環は人と人との心と心の通じ合いによるもの。そこに歪んだものや汚れたものを乗っけないように常に心を素直に正直になり、その礼儀を弁えることを人間関係の根本に置いていくことだ。

子ども達には、物が溢れて自分勝手に言われたことをやっていれば評価されるのではなく、自分が迷惑をかけないようにと配慮し丁寧に謙虚に生きることは何より自分を大切にし相手も大切にできるということを伝えていきたい。

相手のそういう心配りや配慮、感謝の言葉に幸せを感じない日はありません。
大切にすることが如何に幸せなことなのか、噛み締め生きる歓びを示していきたい。