共感力

仕事で最も大切なものは何かと問われるとそれは共感力であると私は思う。
一言でいえば相手のことを思いやり優先し行動できるということである。

今の社会ではこれをできない人はとても多い。

自分のことで精一杯ということであろうけれど、そのために相手のことを思いやれなくなれば仕事は次第に独善的に自己満足になってくる。

そもそも仕事の定義とは、昔から人のお役に立つことであったけれど今は作業に没頭し何か作業を行うことだと勘違いする人も増えてきた。その作業は誰の御蔭でできるのか、何があるからさせていただけるのかという全体のことも見えなない視野の狭い人たちも増えてきている。

余裕のなさというのは、業務が多忙だからというものあるのだろうけれどそれを言い訳にしていたら相手を優先するような配慮などもなくしていいとはならないだろう。

心地よい関係が信頼関係を維持し、相手のことを共感する力が協力を生むのだから仕事とは心を遣い心を配ることで人々のお役に立とうと強い意志で自分が何のために働くのかを忘れないことでもある。

もともとどの仕事もホスピタリティの高さというのは大切なことになる。

私はこれを奉仕の心とも思っていて、昔は丁稚奉公というものがあり働くということの本質をまず学び、その後に仕事に関するそれぞれのスキルなどを磨くということをやっていたから正しい自覚があったのだろう。

今の時代は学校の勉強もそうだけれど、何のために学ぶのかなどはほとんど触れられずいきなり国語算数などの教科ばかりを教え込むから能力さえあればいいと勘違いしている人たちもたくさんいる。

特にそれだけで優秀と持て囃されてきてしまうと、プライドばかり高くて人としての道から外れてしまっている人もいる。最初に学ぶべきは、何のために生きるのかや何のためにそれを行うのかという根源的な理由について自覚や自得することであると私は思う。

仕事とは相手があってはじめてできるもの。そしてそれは大切なもののために私よりも公、皆のためにや会社のためにを優先することができるから真っ当に働くことができるのである。

一人で仕事ができていると勘違いすることは大変傲慢なことである。
一人で生きられると思っていることこそがこの社会の深い問題だと私は思う。

そういう勘違いを起こさないためにも、共感力を磨き、人と人との間で信頼関係を深め広げ厚くしていけるような人としての部分を大切にしていきたい。

生きるということは、生かされているということ。

子ども達には相手を優先できる思いやりの気持ちから、一人では生きられないことを諭し、また相手のことを思いやる気持ちから、一人ではないということを実感できるように、自分のことばかりを優先しようとする見放す社会へ杭を打ち込み、心を配り丁寧に日頃から見守る社会への繋ぎを正していきたい。

感謝と誠意、そして謙虚な心で歩んでいこうと思う。

人生の道場

自らのリーダーシップを発揮していくのに危機感というものがある。

通常、何か問題意識というものはただ何となく焦っていたりいつも不安であれば危機感を持っていると勘違いしている人がいるけれど本当の問題意識と危機感とはそういうものではない。

よく追い込まれなければやらない人というのは、意志薄弱なため自分で決めたことを自らが遣り切ろうとはせず何かの外圧によってしかできないくらい自分から先手で動こうとはしない。

問題意識というのは、他人から与えてもらえるものではなく自分が内面から現実を直視し強烈な意志の力で自ら主体的に取り組むことで得られるもの。

それはつまり、いつも油断大敵だと自らを奮い立たせありとあらゆる最悪のケースを念頭に入れて準備を怠らない人こそ問題意識と危機感を併せ持って自らを管理しリーダーシップを発揮できる人物なのであろうとも思う。

人間は生きていればどんな災難や災害に遭遇するか分からないもの。

ないだろうと思うことは禁物であるし、開き直って考えないようなことをしたら判断を間違い危険に晒されることになるのだ。

どんな場面でも、自分が最悪の事態を想定し、その時、どのような行動をとるのかを考え抜くことで在ったり、それを避けるために先にやっておかねばならぬことは正面から真摯に取り組んだりと、危険回避能力というのはそういう自ら主体的に決めたことを遣り抜く意思の力によって成し遂げるものであると私は思う。

何でも中途半端であったりする習慣を持っていたり、いつも肝心な責任は他人任せというように依存して生きていたら、いつまでも本当の意味で問題意識や危機感を持ち自分の人生をはじめ他の人々を導けるような存在になることはできはしない。

今、此処で生きていることは本当に滅多にないような有難いことなのだから、日々謙虚に自然への畏敬を怠らず、感謝の心で日々の危機に備えておくことこそこの地球で生きるための叡智になっているのであろうとも私は思う。

だからこそ私たち人間はこの日々こそが人生の道場。

この今も、色々なことが起きている中で自らの危機管理能力が磨かれる実地のチャンスでもある。先送りせずに今、もっとも優先すべき問題から取り組み、何をなすべきかを感性のアンテナを立てて取り組んでいきたい。

大人の平和ボケした弛緩した感性に留意し、今は誰しも油断も隙も創らず一人一人が自分の指揮を執るべき時である。依存こそが危険であることを知り、自らが納得いく判断を下していきたい。

子ども達には自分の人生の指揮者は自分であると示していきたい。

いのちの輝きと煌めき

春が来て身近な草花から虫たちまで穏やかな微風に吹かれているとそれぞれのいのちの輝きを感じることがある。

てんとう虫やミツバチから花や草に至るまで、何かがそこに存在していることによって活動していることが感じていると観察できる。

生命とは、入れ物の中にあるものと入れ物とが一体となって自然と融合し自然と調和したときに存在しているものであるようにも思う。

こういう感性というものは常に自然の中で自然と一体になることで感じることができるのであろうとも私は思う。

私は幼いころより、山野で育ち、自然を父や師のように生きてきた。

自然の中で教えられる教訓には安心感があり、そこに原理や原則が存在していることを学び、いつも見守られている実感を味わい生きていくことの勇気と生長していくことの確信を得られている。

生きていれば、色々ないのちに出逢い、色々ないのちと別れるもの。

その一つ一つの輝きが、今の自分を照らし、その一つ一つの煌めきが、今の命を紡いできた。

私たちはいつの時代も、変わらずに続けている命の連鎖が存在する。

そのバトンの受け渡しができてはじめていのちは、入れ物を活かすことができ、その命の活動を継続していくのであろうとも思う。

人は生きていれば、色々な概念や価値観、欲求や願望などに支配されどうしても自分というものを正しく理解し、自然に融合していくことができなくなってくるもの。

そういう時は、一度すべてから離れてみて自然と一体になることが自分の傲慢や怠慢さを痛感する機会になるのであろうとも思う。

今の時代は、特に人工物により埋め立てられた様々な壁がいたるところに張り巡らされてある。そのことから、真実が見通せなかったり、そのことから、あるがままであることなども理解できなくなってきている。

心の中にも人工物が張り巡らされ、いまどのようにして生きていけばいいかという命の在り方さえも見えなくなってきているように思う。

人間は今、大変なターニングポイントを迎えている。

いつかは、人間が作ったものは必ず壊れる。それを後生大事に守ることは、今まで慣れ親しんだ姿のままでいようという原理から離れた理屈であることに気づくべきであると思う。

だからこそ、心の壁も人工物も一度は取り除き、原点に帰り、いのちというものの大切さを見つめ直す必要があるののだ。

私たちは、いのちの輝きをその灯を絶やさないことが使命である。

子ども達にはもっといのちを大切にすることを感じる環境を用意し、もともともっている心を見守り育てて自然と一体に生きていける幸せを感じてほしいと願う。

今まで作ったものを壊して、新しく作り直していく中で人としての道を正しく実践し示していきたい。本物の姿はどういうものなのか、こういう時だからこそ気づき、そして本物であるためにあるがままの自然と一体なった人間として新たな道を切り開いていきたい。

本性

自分自身のことをあるがままに受け容れるということは、自分と溶け込むようなことを言う。

人は自分を忌み嫌って拒絶するような自分を大切にできない人では、誰も人を大切にすることはできはしない。

これは過去からいつも自分のことを誰かと比較をして蔑んだり、いつも他人から悪いところばかりを指摘され注意されたりするから余計に自分のことを忌み嫌いになっていくのであろうとも思う。

そもそも自分というものを好きになるのは他人から好きになってもらおうとして好きなる事ではない、自分というものがどういう人間なのか、そしてそれがどういう特性があるのかというように本性そのままを理解し、それをそのままに自分だと受け容れることができてはじめて自分を理解することができる。

自分というものに無理をして、他人から好かれるようにと必死に演じたり、自分というものに妥協して他人に配慮せず開き直ったりすれば、自分というものがますます嫌いになってしまうものだ。

まず自分がどういう人間なのか、そしてその特性を正しく理解し善い方を伸ばして善い方で活かしていこうとすれば、その習慣付けにより次第に自分のことを受け容れることができるようになるものだ。

それが自分を大切にすることでもある。
自分の最も善いところを大切にすることである。

いつも悪い方ばかりを自分で修正しているようでは、完璧を望むようにもなり、そしてそのうちに自分は何でこんなにどうしようもないのだと思い込めば、自分に厳しくなり過ぎて自分を拒絶するようになりその許せない感情からいつも他人を責めて傷つけることに繋がっていくもの。

それでは、一向に外の世界の社会に溶け込めず引きこもったり、逆に暴力的になったりするものでいつまでも自分と向き合えず付き合えない日々に苦しむ生活を送ることになる。

人は誰でも必ず一つ以上は素晴らしいところがある。

どんなにないと思っていてもそれは必ず存在する、ようはものの見方なのである。

例えば自然界の花ひとつをとっても、桜のように早く大きく咲くインパクトのある花もあれば、ゆっくりとじっくりと小さく目立たぬように地味に咲くものもある。

桜のように早く咲くものは早く散り、印象深いけれど太く短い。しかし、ゆっくりと咲くものはゆっくりと散り、細印象は薄くても微笑ましく穏やかに細く長くも楽しむことができる。

花は花でもその花の本性によっては、こちら側のものの見方を変えればいくらでも長所は秀でるのである。

自分の価値観だけでこれが善いと一方的に決めつけてしまえば、その価値観によって自分が苦しむことになる。色々なものがあるなかで、自分もその中に溶け込むようにすべてのものを受容する感性を発揮することが本性なのである。

生きていくと周囲の刷り込みにより自分というものを見失うことがある。

しかし子どもたちには、自然界のようにありとあらゆるものがそれぞれに引き出し合っている姿を感じてもらい、本来のあるべきようである自分を大切に生きることを学んでほしいと願う。

たった一人の自分を大切にできるのは、たった一人の自分自身なのである。

こういう時代だからこそ、まずは自分を大切にする実践を積んでいきたい。

自然科学

人間の営みの中には、自然に従うものと自然に逆らう作用がある。自然に畏敬の念を払いその偉大な存在に謙虚に自らを修めようとするものと、自然を甘く見てしまい自分の能力を過信し傲慢にしてしまうものがある。

人間は太古の昔より、その2つの側面をよく見つめてきた。

集団で生きる人間は、体と道具などを上手に使い分けて自然と科学を理解しつつ上手に共生する術を得て今のような繁栄と発展を繰り返してきているのだと思う。

そしてそれが大きく分かれて東洋と西洋、自然と科学ではないけれどそれを正しく理解できない人たちによりどちらかに偏ると偏った出来事が発生しまたバランスを取ろうとするのであろうとも思う。

今の時代は、道具や科学が強く偏る時代であろうと思うけれど身の回りにはあまりにも人工物に溢れ人工的に埋め立てられた場所で私たちは人工的に生活をしている社会の中にいる。

しかしこのままあまりにもこちらに偏りすぎれば、行き着くところまでいくことで限界が来る日が必ず来るのは誰にでもわかる。食料危機でもそうだし、人口増加でもそう、今回の放射能汚染をはじめ化学物質による複合汚染などにより新たにバランスを取ろうと元に戻す力が働いてくるものだ。

時代時代に、偏れば揺り戻されるというふうに無為に自然は振り子のように往ったり来たりしてその時代その時代の役割を果たしていく。

これは絶対的な場所で物事を洞察すれば、全てのものは「バランス」というもので保たれていてその中で私たちは生きようとするのはこの世の法則なのであろうとも私は思う。

だからといって今がそうだからだと極端に原始人のような生活に戻れなどとはいってもできはなしない、だからこそ大切なのは自分で塗り固めて埋め立てた人工的な場所を怖し新しく創造しなおしていくことなのである。

つまり温故知新ではないけれど、バランスを維持するためには常に新しいものと古いものを正しく調和し、自立していくことが人間の役割であろうとも思う。

知識や知恵を道具というものを介して培った以上、その使命は私たち人間の手によって新しい道具を上書きしていくしかない。

今回のような出来事を通して、如何に新しいものを生み出していくことが大切なのかを知ることができた。

そして人間が差し出していく手がどのような手であるのか、その手で何を掴みその手で何を行うかということがバランスを取ることになるのか、その自然科学をその手で調和させていくことが大事なのである。

だからこそ、自らが普遍的なバランスを常に優先できるように前後左右に偏りあう時代の中で常に刷新していき自己を探求し創造するよう努めていきたい。

子ども達の活発な刷新を見守りつつ、日々細胞が常に新しくなっていくように、自分を刷新することで次の世代のために貢献していきたい。

道理と大義

今の社会の道理と大義についてとても憂いている。

例えば、食べ物であれば買うものであるし病気になれば病院に行くことになっている、それに勉強は学校でするものになり、仕事とは業務のことだとなっている。

元々は、食べ物はいただくものであるし、病気は健康でいるようにすることであるし、勉強は日々に気づくものであるし、仕事とは人のお役に立つことである。

今の社会は、完全に自然界の循環の理から離れおかしなことになっていてこういう社会は長くは続くことはない。今までとこれからがあるならば、今一度、すべてを新生するような機会に恵まれなければならない。

当然人は、今の生活を失うことがないように自分都合に物事を解釈していきたいものである。知らずしらずに慣れ親しんだ生活を守ろうと働きかけていくものであるし、それはもともと過酷な環境で生き抜いてきた私たちの元々の姿でもある。

しかし、これだけ物が溢れ裕福になり当たり前であったこともわからなくなったのであれば何かの事件があってもそれがなぜ起きたのかまで理解できている人は少ないのではないかと思う。

もっと大局的に物事を洞察すれば、目の前のことよりもこの社会の在り方、他人としてのルールを破るからこういうことになるのであろうとも思う。

先祖代々から守られてきた大切なルールをどうしたのか?
情け深く思いやりを守ってきた大切なルールはどうしたのか?

そういうものをすべて忘れてしまうほどの社会にいて、何時の日かはこのようなことが起きるであろうことは予測できるものなのであると思う。

天地の間に人がいることで生きると書く。

その天知人の間に一本通ったルールというものがあるものだ。

人がそれを忘れれば必ず天地はその主としたルールを指し示すもの。このことで私たちが気づけるかどうかが何よりも大事なことなのである。

ここを何事もなかったように通過したならば、世界はこのあと大変なことになるであろうことは簡単に想像することができるもの。

私たちは今、過去に感謝し未来に譲るという大切な使命を帯びている。

天地自然への畏敬を忘れず、ルールを守る事である。

今日は私にとっても大切な決断をしている日。

これからのためにも世界のためにも道理と大義を貫いていきたい。

人道支援

自分のいる場所を全体と繋がっている一部としそれを布置とすると、「今、此処でどうあるべきか」という問いが自然に産まれてくる。そしてそれを決めることが覚悟でもあり、それが自分が生きる意味となる。

今回のような出来事があると、その心をどこに定めているのかを再認識することができる。自分というものが、何ができるか、どうしたいかということもあるけれど、この時もどうありたいかとなると答えは簡単そうで簡単ではない。

人は両立はできないからその時、何を立てて優先するかということが大切であると師によって教授されたことがある。

今はこれ、今はこれと、この「今」というものを大切にすることで見えてくる心がある。そこに大いなる流れが存在していることに気づくもの、その過去と未来の流れにある今こそがいつももあるがままの決断の場所なのであろうと思う。

これからも変わらず本業や社業はいつものままに真剣勝負は続いていく、環境は形が変わろうが本質は何も変わることはない、流れに舟を浮かべているのだから舵取りとして総合的に今後を見据えた智慧と戦略が必要になるのであろうと思う。

だからこそ今は無為自然に必要に応じて取り組んでいけばいい。

カグヤの人道支援は初心から「子ども第一主義」である思いやりの実践こそにある。
そしてそれは見守る保育のことである。

こういう時だからこそ心静かにわが身を正し大義を優先すべきではないか。
反省とともに不動に存在するものがあることに天への感謝を覚える。

この今に仁義という筋道を通していくことが何よりも普遍の志を貫竟していくことに行き着く道筋となっている。
つまり道はただの一本の永遠の糸でありこれは前後しないものであろうと私は思う。

もちろん人々は大変なことばかりが続くであろうと予想できる未来、だからこそ情け心も添えて手を取り合って確かめあいながら、素晴らしい保育の日々に出逢い、感動と感謝の園をますます創っていくことが我々の今できる最善のことであると胆に置こうと思う。

こういう時だからこそ、今までの流れを大切にし新しい流れも捉えていきたい。悠久の流れの中にあるこの今にこそ、私たちの人としての生きる道がある。

人の生きる道を支援するという人道支援の本質を子どもたちを通して学び気づき深めて広げて世界を見守っていこうと誓う。

人間力

天の道に対して、人の道というものがある。

今回の震災後の現場に対する姿勢の違いに本当に人間力の大切さを考えた。

震災後いち早く震災現場に駆けつけ、真摯に悲しみも苦しみもともにしながらできることはないかと必死に救援活動を行った様々な人たちの使命やその心に人としての思いやりの深さや愛のぬくもり、そして人としての正しい生き方などを本当に学ぶことができた。

いつの時代もこのように人は命を大切にし、協力して支え合って優しく強く生き抜いたからこそ今もこの世界で私たちは生きているのであろう。

しかし人間は火事場泥棒ではないけれど、この時とばかりに便乗して人としての道を踏み外すようなことをする人たちもいるのも現実であるけれどそういう現場は必ず後で悔いるようなことに見舞われるから道は正しく行われることになる。

そして原発事故からもその現場の状況から学ぶことができた。

自らの命を省みず、誰かがやならければと必死に危機に立ち向かい使命感を持って取り組む方々にもその生き方の姿勢を感じることができる。

もしも自分がとなったら、その時その場所で最善を尽くそうとする人の道の正しさがあったから私たちは命を継承してきたのであろうと思う。

しかし同じく、いつまでも責任から逃れようと現場に戻らず自分の保身や利権を守ろうと隠蔽をし嘘をつき誰も責任を取ろうとはしないという人たちがいて人間本来の善いところを混乱させていこうとしたとしても道理から離れても、そういう人は孤独の中で払拭されていき、いつの日か必ずリーダーが顕われ本道に帰するのだとも思う。

もちろんどちらかと分けられるものではなく、どちらもこの人間のありのままの姿なのである。

自分の地位や利権などに流され受け身になって学ぼうともせずに生きていればこのように次第に自分がどうありたいのかということを考えなくなるのであろう。

有事こそ、自分の生き方や在り方が顕著に現場の実践に出てくるものだ。

自分の立ち位置やその生きざまは自分に嘘はつけはしない。
だからこそそこは誰にでも明白であり、誰の眼にも映し出されるもの。
学びとはこういうときに活かすものである。

今回の出来事からも日々の正しい習慣が如何に大切であるのかをより学ぶことができた。そしてまだまだありとあらゆることから学ぶことだらけである。

理念という絶対的なものを持つことの意義は有事無事に限らず大切なこと。

私たちは子ども第一主義の理念で現場実践を行い習慣を身に着けることにこだわっているのもそういうことからである。

だからこそこれからも、どうあることがもっとも子どものためにあるのか、自分の生活から見直し、子どもたちにとって命を継承できるような譲る心を育んでいこうと思う。

弱さを愛すること4

自分に正直に素直に生きるということができることは、他人に対しても正直に素直に生きることができることをいう。

人を偏見で見ないことは、自分を偏見で見ないことを言い、相手の心を感じるのも同じように自分の心に素直であれば以心伝心になっていく。

自分に無理をする人は、他人にも無理をする。

そうやって自分の心に従わず誰かが言ったからと無理をして自分を殺して集団の中で心を埋没させれば自分が誰なのかということもわからなくなる。自分らしく生きることは、自分の正直になることを言う。

それはできないことはできないといい、できることはできる、困ったことがあれば困ったと言え、助けてとあれば助けてと言う。こういうことを自然にできるのは信じる事ができているからである。

自分を信じることは、自分のあるがままを受け容れていること。そして他人を信じることは、そういう他人を自分との付き合い方と同じように接していくことを言う。

よく他人を疑う人は相手を見てから判断しようとするけれど、いくらでも誤魔化せるものだし隠すことはできるもの。もちろん全部見せないというわけではないけれど、自分が大切にしているものやその価値観などはオープンにしていくことが周囲を安心させることでもある。

無理をする人たちは、それぞれに何か不自然で異様な雰囲気を周囲に醸し出していく、そこから無理の関係が生まれ甘えを押し付け合い調和や協力を生み出しにくくしていくもの。

そしてその無理にある意味で酔ってくる、つまりはこれだけ自己犠牲をしているのだからもういいだろうという自己満足である。そうなると、自分を大切にしようとはせず他人のことばかりやっていくうちに周囲にも自己犠牲をすべきだと迫るようになっていく。

これでは弱さを愛することはできはしない。

弱さを愛することは、自分を正しく愛することである。
自分のすべてを自分として一度丸ごと認めて受け容れる事である。

世界中でたった一人の自分を自分が大切にすることである。

それは自分を甘やかすのではないし、自己中心的にやったわけでもない、それは自分のことを信じるという生きる上での心身のパートナーである自分との当たり前の関係を築くことである。

こういう関係を築ける人が自分が幸福になり他人も幸福にできるのであると私は確信している。

弱さを愛することは、自分を大切にすること。

子どもたちは今の社会の構図そのものにとても苦しんでいる。特に両親がつらい思いをすることを一番つらい思いで寄り添ってそれを一緒に乗り越えようと必死になっている。

子どもたちを見守ることは自分を見守る事である。
まずは私がその輪を積み上げていきたい。

弱さを愛すること3

人間は誰でも長所と短所というものがある。

短所が長所になり、長所が短所になるといことは状況と環境次第では何度も入れ替わるもの。いつも同じ環境と状況で居られれば長所だけや短所だけとなれるのだろうけれどそういうわけにはいかずに困ってしまうものだ。

自分に自信があれば、それを丸ごと受け容れてそれを強みに変換していくことができるし、もし自分に自信がなければ不安から停滞し何も変換していくことができなくなる。

人は自分の心の状況次第で、その強みも弱みも活かすことができる。

そのためには自分のことを正しく知ることが大切でそれは鏡に映る自らを鏡に映るとおりに理解するように客観的に理解することである。

自分というものを理解しないから人は無理をする。

本当の自分の魂や本能が求めていることと異なることを行おうとして無理をし辛く苦しい日々を送ることになる。老子ではないけれど、無為自然に大いなる自分の意志に委ねてあるがままに生きようとはせず、どうしても自分の執着や願望、つまりは元に戻そうとするからバランスを壊してしまいより自分らしくいることができなくなるものだ。

そこで自分の弱さを愛することが必要になる。

自分というものが外部にどう思われることがあっても、自分というものが自分の内部からどう思おうとしても、それを丸ごとたった一人のパートナーの自分をゆるし愛することである。

自分を許せなければ、まず自分を責めるものだ。自分を責めれば必ず相手のことを同じように責めるようになる。人間関係のトラブルのほとんどは、この弱みを憎み恨み、それを責めることにより起きている。

相手を責めずにゆるすことは、戦争をなくし平和な世の中を創る事であり、自分を責めずにゆるすことは、平和を維持するために自分を修めることをいう。

学問をするのも、本来、「智慧」というものを活かすためであり、その人の生き方というものそのものを通して人は生きることを学ぶのであろうと思う。

もっとたくさんのことをゆるすことの実践を行うことで、子どもたちの自己肯定感を育て愛と勇気と信頼を与えられる存在でいたいと思う。

安心することとは、ゆるされる場所が存在していることをいう。
真の優しさと強さを持つゆるしの輪を広げていきたい。