弱さを愛すること2

もともと今の人間を見ていたら、遺伝子は必要な部分を残し必要な部分を捨て去れることで時代時代に環境の変化に順応してきたように思う。

それは、時には今までの強さであったものを勇気を出して思い切って捨てて、今まで弱さであると思い込んでいたものを思い切って取り戻すという風に遺伝子の記憶の中にあるものを抜き差ししているのであろうとも思う。

子どもの中にもそれを見出せるし、それに自分の中にもそうやって矛盾を感じるときは同じように感じるままにという中庸であるような感覚を優先しようと本能から働きかけてくる。

しかし、人間は今までそのつけてきた力で内外で評価され称賛されたりしてきたらそれが自分の個性だということになり、権力や執着などともくっつけばなかなかそれを手放すことができなくなる。

一度、自分はこういうものだと思い込んでしまえばどうしても新しいことや変わろうとすることに億劫になっていきうまく順応することができなくなるのであろうとも思う。

一度其処からすべて離れてみることや、自分ではまったく分からないことをやってみることなど、「案ずるより産むが易し」ではないけれど考える前にまず動いてみれば意外と何とかなっていくものである。

考えても考えても動きたくないのは、自分の中にある先入観に縛られているからでもある。先入観があるのは、今までの強さの部分ではないことをやらなければならないとどこか不安を感じるからでありそれを何となく察知しているからである。

新しいことをやるためには、周囲との関係性も新しくする必要があるし、今まで使わなかった力は周囲と力をあわせ補いあっていく必要がある。

それを自分の強みを活かすという。

弱さというものを他人に押し付けようとすることを甘えという。
それに強さを自分で伸ばそうとせず誰かに依存するのも甘えという。

正しく弱さを受け容れて自分からその弱さをも活かし強みに換えることを弱さを愛するという。

つまりはもっと素晴らしい自分を発揮し弱いところをさらけ出し周囲の素晴らしいところを引き出すというようなもので、これは同じ言い方をすれば自分が持っているもっとも素晴らしいところを存分に自らが発揮することでそれ以外は信頼できる人に力を借りるということである。

強みを活かすためには、自分の弱さというものを丸ごと愛することが必要になる。

遺伝子は、時代時代に今までの弱い遺伝子をどこかの記憶スペースに移動させ、その時代に必要な遺伝子を前面に出してくる。しかしその弱い遺伝子は時として強い遺伝子に換わるものだからこそ、弱さも強さも都合次第なのだから実際は全部丸ごとで必要なのである。

この自分を丸ごと愛するとは、自分はすべてを持っているというその存在そのものを愛することである。存在を愛することが信じる事であり、存在のままいられようにすることを信頼関係を持つという。

まだまだ弱さをよく分かってはいない、これからも深めていきたい。

弱さを愛すること1

人間はみんな弱い部分を持っている、その弱い部分を責めて強くしようと努力するのか、その弱さをゆるして弱いからこそ協力しようとするのかで弱さとの付き合い方が変わってくる。

今回のブログから、その感情の動きを深めてみることにする。

自分の弱さに対して厳しく自分を責める人は自分の弱さに対して怒りや憎しみの感情を持っているからそれを許すとなるとそれは弱さに負けてしまうと思っていることがある。ここでの弱さに対する感情は、もしかしたら自分ひとりになってしまうという孤独への怖さと不安からの逃避である。

人は自分に頑張りすぎたり無理をしすぎるというのは、自分の弱さを隠してそれを鞭打ちながら何とか強くしようとする行為である。それを繰り返し続けていると、自分が必死に鞭打ちさえすれば必ずなんでもできるようになると錯覚したりしているものだ。

そしてそうやって自分を完璧に強くすればいいのだと自分を責め続ければ、他人の弱さも責めて強くしようとしてお互いに傷つけあっていく。弱さは善くないものだとしてしまえばそれを何とか強くしようとするのはお互いに弱さを受け容れられず否定してしまうということになる。

そういうことをやっていたら大事な場面で助け合うことができず、大事な場面で自他を責め立てるようになってきて、後悔や良心の呵責からよりまた自分に厳しくなるという悪循環に陥るものだ。

自分を厳しくしていると、たった一人の自分をよりたった一人にしていくのだからより不安も孤独も増大するものだ。では逆に自分に甘くすればいいのではなく、そういうできない自分を優しく受け容れてそれも自分であると丸ごと愛することなのである。

自分のすべてを受容し、自分の在るがままの姿で生きていくことを選択すれば自分のことを愛することができようになる。逆に自分を否定し、偽った自分というもので無理をすれば自分を愛することができなくなる。

弱さも強さも持っているのが人間である、そして愛するとは自分の都合で好き嫌いではなく丸ごと愛していることこそが愛するということなのである。

そして強さと弱さを正しく理解するには、この弱さを丸ごと愛することからである。
その弱さを丸ごと愛することで真の自分の強さが活かせるのである。

そういう真の優しく強い人だけがちょうど良いバランスのところを持つことができ、弱さを分け合い、強さも活かし合うという「真の意味で協力しあう」という共生と幸福の関係を創造していくことができるものだ。

人は決して一人では生きてはいけない、誰かと欠点や弱さを補い合って生きていかなければ大きなことや夢は実現することはできない。

それに自分ひとりでやったってそれは責任感からやっただけで人生の歓びを分かち合うパートナーなどもいつまでも現れることもない。

自分が許せない感情を許すことは、自分が憎んでいる弱さこそゆるし愛すること。
ゆるしの心で弱さを愛する人にならなければ、真の強さと優しさは持てることはないのだと私は思う。

今の日本の社会をはじめ、世界は孤独を創り続けている。
子どもたちはこの弱さというものを受け容れられず苦しんでいる。

これを解決するのもカグヤのコンサルティングミッションの一つ。

では、弱さということの本質はまだまだ引き続き深めていくことにします。

改革の時機

大きな流れの中で生きる私たちは節目というものは必ずある。

それは外的環境の変化に応じて、内的環境の変化を伴うように、生きている限り内外の変化というのはバランスを取ろうとするものである。

そして定期的に外部に依存して停滞してきたものが、何かの切っ掛けにより変化せざるを得ないところまでせきを切ったように吹き出せばその瞬間を基準に人々の意識に明確になるのが「改革の時機」というものである。

改革とは、外部はそのままでも変化の波を自力の内部から発し行うことであり、過去からのの流れ流れを継承し維持しつつも新しいことを上書き始めることを言う。

つまりは、「温故知新」をすることである。

同じやり方でずっとやっているとある時に、どうしても今までのような方法では抜けることができない壁がやってくる。その壁を抜けようと色々と試してもそれを抜けることができないときこそ一度立ち止まり、どうあるべきかということを再定義し勇猛果敢に意識を発奮し挑戦する時なのであると私は思う。

人は何となくでも続けていたら、次第に独善的になっていく。つまりは自己満足気味になっていくものでもしもそれが好事がやや続いたりするとすぐに慢心していくものである。そのうちに、新しいことを創造することを避けようとしどうしても昔の成功体験や昔の方法に依存していくようになる。つまり、柔軟性を失い頑固に凝り固まっていくのであり進化も変化にも応じようとはしなくなる。

そこにずっと依存してしまえば、何となくどうしようもないという諦め感に近い停滞感が続く、そして差が大きく開いてそれが限界に達した時に事件は起こり身の振り方を考えなければならないと変化を迫られるもの。

だからこそ人はいつも日々新たに改善し続けていくことで自己満足に陥らないように常に質を向上していくことが大切なのであろうと思う。万物が流動し流転するからこそ、怠らないようにしていくのが人の道であり法則なのである。

毎年同じことを繰り返してもその中で如何に今までのものとこれからのものの間にある今を常に見直し続けるか、そしてこれからのために創造し続けるかという事物に対する心の態度が将来を決定づけているのであると思う。

時として事件が起きて変化しなければならないくらい追いつめられることもあるのだろうけれど本来はそうなってしまってからではもう遅い。それは意思の力ではなければ同じことを繰り返してしまうからだ。

やはり過ちから学び過ちをおこさないためにも常に見通した見立てをし危機感と問題意識を持って如何に今の状況を維持しつつその中から如何に新しい今の状況を創造するのかという、この一瞬の中に煌めく変化の哲学と生き方そのものの姿勢が必要になるのであろうと思う。

機会を活かすというのと、ご縁を活かすというのは同質の意味である。
それは、変化に応じて今を生きるということである。

このままでもいいやや、いつかは変わるだろうからや、誰かがやるだろうなどと怠けた心では自分ひとりも救えはしない。そして、自分の人生の責任は自分で果たす人でなければ人々の充実した生を導くこともできはしない。

大切なのは、この今、此処から変わることである。

人は一人では生きてはいけない、寂しいからと孤独を避けていてもそれでは協力することも避けることになる。

人生一期一会だからこそ、計算ではなく今一緒にいることに感謝し、ともに歩む人たちとの永遠の邂逅を楽しむ心で改革を推し進めていきたい。

人は出逢い別れるからこそ、そこに今への感謝がある。

勇気を出して変わっていくことを豊かにし子ども心で楽しみたい。

意識の壁

新しい状態になるには今までの意識の壁とも言える自分の癖、つまりは思考のパターンを超える必要がある。

これは新しいところのことはその力を使う場所が違うのだから、今までのような同じ力の場所でやろうとしないということでもある。

例えば、先日山登りを社員でやった時、ある社員は山登りはスイスイ登り疲れもなくその後の筋肉痛などもないような若さと元気であった。けれど、翌日一緒に農作業を行うと大変だったようで山登りを三回した方がましですと疲れたようで若いから回復は早いのだけれどすぐに休んでいた。

これは、何か筋力を使うことであれ山登りなどでの筋力と農作業での筋力が異なることを意味している。使っている場所が違うのだから、当然今までの持っている場所ではそれは通用しないということだ。

農作業をするには、農作業の筋力を付ける必要があるし、山登りをするには山登りの筋力をつける必要がある。もっと例えば、バレーの選手がサッカーをするにはそれなりの大変さを必ず通るものだし、マラソンの選手が、卓球をしようとしたって最初から学び直し体力をつけ直すというものが必要になる。

しかしつい人は、同じようにどのスポーツであれどのジャンルであれ同じようにできるはずだと勘違いしているものである。

会社でいえば営業の仕事とコンサルティングの仕事は、先ほどの山登りと農作業のように異なる。

同じように考えるといっても、考える力も程度もまったく今までのものとは異なる。当然、基礎になる体力というものは必要なのだけれどその上にもっと大変な深く掘り下げたり深く潜り掴み取ってきたりという真理探究や問題の根源の解決など仕事の責任など全ての質が変わっていくもの。

それを同じように山に登れるからといって、農作業ができると勘違いしているのが大きな間違いなのである。

何かを学ぶには、常に心機一転の新しい心境を持つ必要があるものだ。

日々新たに学ぶというのは、常に新しいものを学ぶ姿勢が必要でそのために必要な筋力トレーニングも、心構えも、知識も進め方も遣り方も、全部最初からやり直す方が近道であり早かったりするものだ。

それは保育の概念でもそうで、今までやってきた保育と、見守る保育とは観点も心の姿勢もそして具体的なやり方もすべては異なってくる。

そういう今までの経験という意識の壁を超えられるかどうかが、変化成長する際のカギになっているのであると私は思う。

変化を望むなら、今までの自分のスタイルを捨て去る勇気と、新しいものへ挑戦するための勇気がいる。

そういう勇気は、自分の使命感や将来像、そしてそれにより何が起きるのかという「希望」と最期まで遣り抜くという「意思」の力が必要になる。

生命が生長するためには、自然界にあるような以上の真理が必要になる。

もっと心で感じて心で進むことだと思う。それは子どもが自転車に乗るように、ワクワクドキドキしてやってみたいという気持ちを前面に希望と諦めない根性、つまりそれは七転び八起きであり、またトライアンドビルドである。

子どもたちの未来は、今の自分の心の在り方が決めるのだからしっかりするのだと自分を示していきたいと思う。

セルフイメージ

何かに取り組む際に今の自分の生き方がどうであるかというものが、結局は最終的に自分の将来がどうなっているかということを顕している。

今の生き方や今の生き様こそが未来の姿であり、単に未来だけを眺望したって今の生き方や生きざまがその未来のそれと同じ生き方や生きざまでなければ夢も目標も叶えやしない。

今の延長が未来だからである。

だからこそ最終的にはどうなっているのか、最終的な目標はどこなのかというものから物事を考えて「この今、この瞬間」にどう責任を持つのかというのは将来の姿を実現させることでもある。

人はつい希望ばかり持ち、誰かによってその未来を与えてもらえるものだと今というものを粗末にし、今というものを決めずに曖昧なまま流されてしまっている。

しかしそういう曖昧なままで今の姿であれば、きっと先の事ばかり憂いて、後の事ばかり悔いているだけでそしてこの今はいつもなんとなく諦めているという悪循環になっているのであろうとも思う。

そういうものを断ち切るためにもセルフイメージ、つまり自分の将来像を描くということはとても大切なことだと思う。

このセルフイメージを持つからこそ、今がどうありたいか、この一瞬をどう大切にするかということに繋がっていくものだ。

会社も組織での役割も同じくし、どんな会社にしたいのか、どういう組織でありたいのかという皆で協力して目指したい姿があったとする。

そうであれば、そこに自分の将来像を描き、それを実現するために一瞬一瞬を大切にする実践を行えば必ず未来はそうなっているのであると私の経験も周囲の体験を得ても感じる。

これは、社長になりたいや、上司になるなどから、もっと多くの人たちのお役に立てる人になるや、優しく思いやりのある人になるなどもそうだけれど、そういうものは勝手になるわけでもなく、誰かがそうしてくれるのではない、自分が決めるからこそなれるのである。

社長になるのだって、最初から従業員で入ったままで時間さえ経てばなれるのではない。自分が社長になる、もしくは社長と同じくらいの仕事をすると自分の最終的な目的にあわせて取り組めば、いつかはそうなるのである。

つまりは、全ての出来事や物事は「意思」の力でなっているのである。

だからこそ、最終的にはどうありたいかということを考え抜くことは今を大切に生き切ることになる。

こういう節目や時代の変わり目だからこそ、自分の初心と終心を定め今という一瞬にすべてがあることに感謝し、自分の使命を成就してほしいと思います。

人生は、「今この瞬間」がすべて。

そう子どもたちにも示していきたい。

信頼

人間にはできることとできないことがある、そして向き不向きというものがある。努力すれば何でもできると思い込むのはその人だけにできる範囲のことであり、自分のできない範囲はやっぱり誰かに任せるしかない。

もしもその人に向いていれば自然に馴染んでくるようにやっていても苦ではないのだけれど、向いていなければ一向に馴染むこともなくただ苦しいだけであることが多い。

もともと人間の苦には、向いているものと向いていないものがある。向いているものの苦は苦しい中にどこか楽しいと思っているからそれをいつまでも維持していくことができる。しかし向いていない苦は永遠に楽しくなることがないから、無意識にも避けようとして避けている。

どちらにしても苦はなくなることはない。

そう考えると自分が選択しているものに対して自分がどのような本分や本性を持ちそれをより善いものへ変換し活かすためにどうするかということなのであろうとも思う。

話を戻せば、できるできないや向き不向きから人に何かを頼むことをするのだけれどこれは簡単には難しい。
これはお互いに深く信頼しあっていなければできないからだ。

人は信頼した人に何かを頼むというのは、その人の誠実な生き方や生き様などを見て決めている。その人が軽薄ですぐに自分のことばかりの保身を優先してしまう人ならばそういう人に自分の命を預けることはなかなかできはしない。

人物を観るには、この人になら命を預けても悔いはないという人を探すことが大切なのであろうとも今では思う。

一般的には、信頼のはじまりの部分で自分がやろうとしないで頼むのと自分には他に大切なことがあるから頼むというのでは異なってくる。

前者はいつも誰か任せで自分では責任は取ろうともせず依頼心で何かがあればすぐに媚びたり縋ったりしつつ自分を存在させようとする行為であり、つまりただ甘えていることになる。

後者は、自分本来の責任を果たそうとするからこそ自立心で役割分担しようとする行為であり、つまり協力し信頼しているということになる。

依頼と信頼の大きく異なるのは、人を信じるかどうかによる。
そしてその人を信じるとは、自分を信じるということに他ならない。

自分を信じるとは相手を疑わないことであり、疑わないためにも自分を偽らないことである。

自分が遣ることを真底から助けてくれる存在に救われることがある、それを自分がやったや自分がやっているなどと傲慢になれば誰もその人に手を貸す人はいない。

謙虚でなければ信頼関係が築けず、絶対的に信頼していなければ本心から命を預けることはできない。

人は人生の中で何人かの本当に信頼できる人に出逢うもの。
その人を信頼するかどうかで道がどのように開けていくのかが変わってくるからこれは誰もが通る道の一つ。

私はいつも信頼できる人に出逢えるのは本当に恵まれていることだと思う。だからこそ自立する側である自分が見守られるような存在で命を輝かせていることが見守りに対する感謝の返し方であろうとも今では思う。

万物自然の中で自分がどう素直に正直に生きているのかを元気いっぱいに太陽に見せるのがあの神々しい命の輝き。

自然界をもっともっと信頼して、この今にこの天命にこそ委ねて精一杯生きていこうと思う。

ただ心静かに・・

今年は桜が開花するのが遅く、今ほどに満開になっている。
毎年この時期は、新しい季節がはじまるようで色々なことに思いを馳せる。

季節の変わり目には、変化の予兆が顕われてくる。

順繰りとそれぞれの息吹に役割が訪れてくる。

それは植物においても動物においても全ての生命においても訪れる。

緩やかにそしてはっきりと自分の出番が来たかどうかを命は悟っている。
その命に委ねることこそ、悠久の流れに舟を浮かべていることでもある。

周りの景色が変わっていくとき、人は色々な心に揺れる。

時には、急がなければや、時には、このままでと、そして時にはそこに留まろうなどと、時というものを感じると相手の方が動くのだから自分が動かなければと焦るのであろうとも思う。

しかし、よく観ると待っているだけでも十分動いていることになる。

大きな流れの中で何かをしようとも思うけれど、心を静かに待つことこそ自分というものを信じていることに繋がっている。

積極的に待つことはとても難しいことで、それはこの後に必ずいつもの「天」が顕われることを信じるからである。

桜は一気に咲き誇り、その栄華をあっという間に失うように花びらは舞い散っていくもの。

美しいと思える桜花の最期の一瞬のあれは永遠などではなく、真実はあの星々や風や空、そして海のような悠久で偉大な存在の中にある同じものこそが本物の永遠であるのであろうと私は思う。

だからこそ自然界に生きる私たちは、ただ心静かに待つことである。

ただ心を静かに待っていれば、命は時を覚りその悠久の今の中に穏やかな生活を通じて私たちに生きる潤いを与えてくれるもの。

今の世界は乾いた欲望の中で、人はもがきずっとその渦中である。

派手に咲く花や大袈裟に散る花を追うべきではなく、穏やかに座している大地や地味に見守る月のような心で、自分自らの道を歩んでいくことであると私は信じている。

世の中が急変するからこそ、流されるのではなくゆったりと湖畔で舟を浮かべてその時が来るのを待っていようと思う。種が芽を出すのは、それぞれの季節があるのだから。

出会いの哲学

人との付き合い方というのは、人それぞれに生き方が異なるように接し方も人それぞれに異なったものを持っている。

それは何を基準にするかはわからないけれど、自分自身の心との対話の質によるものでそれが軽いものから浅いもの、重いものから深いものまでその人の生き方や生きざまが外側の色々なところに現れてくる。

自分が真剣に自分の人生と同じく他人を大事にする人であれば深く厚く重たく大切に関わりを持つものだし、あまり自分の人生にも無頓着なまま他人にも無頓着であれば、浅く軽い薄い付き合いをするものだ。

そして、もちろん他人を選び付き合う人もいれば誰にも変わらず同じように接する人もいる。そこにその人なりの「出会いの哲学」というものがある。

私の場合は、一期一会が座右であるからその出会いの持つ奇跡と出逢いの不思議さ、その人との邂逅で万物一切のものが変わってしまう偉大さや深遠さをいつも体験しているからこそ人との繫がりには穢れや迷いなどが一切入らないようにと真心を込めて愛するようにしようと生きている。

人は出会うことで本当の自分を知り、人は出会うことでその真の心を覚る。

どれだけその出会いを大切にするかで人生は見事に変わっていくものだから私は何よりも出会いというものを特別なものにしたいと常に思っている。その神聖で神妙なものにあまり色々と雑多なものをいれるのが好きではない。

真っ直ぐ正対し、本心と真心を真剣に交わし合うという感じでいたいというスタンスを変えたくないということであろうか。

昔から、面白くないや空気を読め、重たいや息苦しい、もっと軽くしろなどと言われたけれど、それは生き方の違いなのである。逃げないで生きているからこそ、それを向き合うことに躊躇いがないのであろうと思う。これは単に変な遠慮をして形式ばったものや見た目を軽くすることに意味を感じていないとも言える。

分かりやすく例えれば、挨拶では何かをしながらやられたくないや、言葉を飾らずにやけたりしながら語られたくないや、誰かたくさんの周りの人たちに聞こえるようなところで気にしながら話されたくないなど、それもあるけれど、ちゃんと以上のことをやったにせよ肝心な真剣さや本気さ、そしてそこに混じりけのない透明で素直な良心がなければならないと思っているようだ。

そういう大切なシーンや大事な局面ではいつも自分の本当の姿でいたいと思う性質や性分がどうもあるらしい。

つまり私は正直に感じたことをそのままに相手を自分と同じように信頼をして言葉や真心を交し合うことに繫がりの本質を味わえ感謝の絆を深めていくことを歓びにするタイプのようである。

思っていることをそのままと素直に語るというのは、心をいつもその人のことを心配し思いやっていなければできないことだ。今の時代はあまり素直であることを良きとしない人が増えてきているようにも思う。

素直であることや正直であること、自分をさらけ出すことは恥ずかしいことなのかと思っているのか、日本人がシャイだからなどとあるのかもしれないけれど私にしてみれば損な時間を使っているなと感じてしまうのだ。

しかしそういう人でも、もしももう二度と今回の人生でその人に会えないとしたら、この時、この瞬間に本当に自分の心を伝えられたらと願わないだろうか、心を交わし合いたいと思わないのだろうか。

何でもそうだけれど、遣り切るというのは相手を信じ切るということである。

そこに少しでも疑いがあれば、その人のことを信じ切ったとは言えない。

言い方を変えれば、この人から裏切られたならそれでも十分悔いはないといえるくらいの出会いを自分が主体的にすることである。

私は自分のこのかけがえのない人生を愛しているからこそ、色々な御蔭でより人のことに真底から自分の好奇心が駆り立てられるようになったからこそ、その瞬間であるこの今に心を籠めることの大切さを体験し学び続けている。

日々を振り返れば、やはりそこには最高の今、最高の日々、最高の出会い、最高の時空、人生はやっぱり今を思へば面白いことの方が多いのだ。

過ぎ去る日々に、これは怠れないなと学べることの出会いの意味を感じます。

「年を経るのがどう感じるるかはこの今をどう感じているかによるものだ。この今を楽しむ心があればいつまでたっても年を経るのは豊かで楽しいものです。」

師からいただいた今回の誕生日の言葉に、時空を超越した今を感じました。

これからも、今この一瞬にすべてを懸けて生き切っていこうと思います。時代の変わる大事な場面に、素晴らしい出逢いと邂逅があったことに心から感謝しています。

一期一会

新たな大地へ

人間は、誰しも生きていれば色々な役割を持つようになり次々に何かの柵を背負って生きているように感じることがある。それが、どのようなものなのかは人それぞれに異なっているけれどどんなに自由だといってもその自由は繫がりの中での自由である。

その自由不自由なるものが自分にとって都合の良いものであれ、悪いものであれ、何かしらのその時に選択をしていくもの。その選択をもしも頭でやりくりしようとしたらその柵が邪魔をしてきてさらに袋小路に入っていくもの。

視野が狭くなり近視眼的に欲求を満たしていたら人知れず人を傷つけることになるかもしれない。だからこそいつも日頃から、心を籠めて生きる事であり、そうすることで広い視野と遠くを観て心を定めていくことができる。

それでも節目というのは誰にもやってくる。

節目というものは、竹の節でよくなぞらえるけれどバネがこれから伸びる直前の状態のような感じであろうとも思う。人は大地に根ざせば上へと伸びて生長していくもの。それは自然の摂理だから、根ざせば根ざすほどにその場所での自分が育成されていく。

自然界と人間は、同じように自然の流れにしたがって無条件で様々な出来事をその場所その時に受け容れて「今」というもので共生しているようにも思う。

だからこそあの万物を受容する大自然界と今を同じくするのだから人間は心に澄み切ったものがあればこそ同じく永遠に続いている偉大な広さや深さで物事を包み込むことができるのであろうとも思う。

ひとつひとつの出来事を、心を籠めて動かしていくことこそ大切なことはない。

「至誠神の如し。」

過ぎていく日は戻ってこないし、これから来る日は分からない。
この今だけが至誠である。

この今というものを大切に心を籠め、納得のいくような生き方をしていくことが命を活かすことであり、そこから思いやりに満ちた人生こそが万物すべてを包み見守り育み活かす根源力となる。

それぞれに天命があることを深く信じ、まずは自らの天命に従って生きていこうと思う。

人は大変なことが起きた時こそ、生きざまが全て。

初志貫徹するためにも一歩一歩を踏み固めながら、新たな大地を切り開いていきたい。

実践

こういうブログもそうだけれど、何かを書きだすということはそれを実践していることが前提になっている。しかし、書いているうちに分かった気になっていてはそれは正しく実践しているというわけではない。

本を書いたり、文章を書くというのは、自分ができてもいないのに理屈や分析でもある程度は書けてしまうもの。しかもそういう真理や気づきは、その瞬間で止めるわけではなく一生涯継続するものだからこそ悟ることが目的になってはならず、それを天地自然にどう活かし還元し尽くせるかという自分の使命を遣い切るという気概が必要であると私は思っている。

しかし、他人の評価にやられてしまい真理をさも知ってしまっていると傲慢になり、至誠や真心、思いやりがすり替わり、次第に自分の現場から離れてしまい周囲に迷惑をかけてしまう人がいる。これは怖いことである。

だからこそ現場人は、覚悟を決めた場所と一生自分の現場を持つものだ。

そこで正しい自分の分度を見極めて、その分度外はその他の人に任す。そして一つの道で分度の器を深め広げていくことで自分の身近な周囲と活かしあいながら世界で協力したり世の中を感化したりするものだと思う。

何だか今は新しいベンチャー企業などは勇猛果敢に挑戦せよといきり立つけれど別に慎重か挑戦かというものを比べることは変なことで、結局はやっていることが本質的であれば常に慎重に且つ果敢に挑戦しているともいえるものだ。

本質的でやれるかどうかは大変難しい、特にこのような時代は刷り込みとの闘い、つまりは自分自身との闘いがすべてになっている。だからこそ、常に矛盾と対峙し根源を見定め、自分の意志で自分を正しい方向へと導く芯の強さと柔軟性がなければ内外の環境で命を発揮できることはない。

そうした中で真摯に懸命に理念に取り組むことで、徳を積み上げていくことであると私は思う。

徳を積むというのは、周りからそう思われるために無理をすることでも、周りに思わせることで何かを言わせることでもない。今の人たちは、何かと周りの評価を気にしすぎて自分というものを次第に見失っている傾向がある。

自分がそうしたいと思ったからやっただけということが大切で、正直に自分の思いやりを実践することが徳を積むことに繋がっているものだ。

自然の姿ではなく、無理をして自分を殺して相手にあわせていけばそのうちにボロが出てより何もできなくなっていく。そうしているうちに人間関係に不可欠な信頼関係は創造することも維持することもできなくなるものだ。

自分から素直になって行動することを恐れて、他人の評価を気にすることは自分の実践を自分で遠ざけることにもなるものだ。

自分を管理することができてはじめて管理者であり、自分を修めることができてはじめて修まったと言えるのである。結局は、最大単位の世界での出来事も最小単位の自分の周囲の出来事とイコールなのであるから、世の中を易えようと働きかけるならまずは自分が正しくいることに限るということであるのだろうと思う。

ただし禍福は一円、吉凶もまた一円、他人がいくら良いや悪いなど評価があってもそれは本当の意味でどうなのかは時間に語らせればいい。ようはどれだけ信念を持って正しいことを遣り続けられるかの闘いということだ。

子ども達には、自分の決めた道を自分で歩むことを実践することだとし、自分の道を歩むからこそ他人の道を見守れるのだと謙虚に取り組むことを示していきたい。

好事魔多しではないけれど、実践ができている気がするときこそ最大の危機感を持って注意して薄氷の上を歩くように粛々と取り組んでいきたい。