今年は桜が開花するのが遅く、今ほどに満開になっている。
毎年この時期は、新しい季節がはじまるようで色々なことに思いを馳せる。
季節の変わり目には、変化の予兆が顕われてくる。
順繰りとそれぞれの息吹に役割が訪れてくる。
それは植物においても動物においても全ての生命においても訪れる。
緩やかにそしてはっきりと自分の出番が来たかどうかを命は悟っている。
その命に委ねることこそ、悠久の流れに舟を浮かべていることでもある。
周りの景色が変わっていくとき、人は色々な心に揺れる。
時には、急がなければや、時には、このままでと、そして時にはそこに留まろうなどと、時というものを感じると相手の方が動くのだから自分が動かなければと焦るのであろうとも思う。
しかし、よく観ると待っているだけでも十分動いていることになる。
大きな流れの中で何かをしようとも思うけれど、心を静かに待つことこそ自分というものを信じていることに繋がっている。
積極的に待つことはとても難しいことで、それはこの後に必ずいつもの「天」が顕われることを信じるからである。
桜は一気に咲き誇り、その栄華をあっという間に失うように花びらは舞い散っていくもの。
美しいと思える桜花の最期の一瞬のあれは永遠などではなく、真実はあの星々や風や空、そして海のような悠久で偉大な存在の中にある同じものこそが本物の永遠であるのであろうと私は思う。
だからこそ自然界に生きる私たちは、ただ心静かに待つことである。
ただ心を静かに待っていれば、命は時を覚りその悠久の今の中に穏やかな生活を通じて私たちに生きる潤いを与えてくれるもの。
今の世界は乾いた欲望の中で、人はもがきずっとその渦中である。
派手に咲く花や大袈裟に散る花を追うべきではなく、穏やかに座している大地や地味に見守る月のような心で、自分自らの道を歩んでいくことであると私は信じている。
世の中が急変するからこそ、流されるのではなくゆったりと湖畔で舟を浮かべてその時が来るのを待っていようと思う。種が芽を出すのは、それぞれの季節があるのだから。