本性

自分自身のことをあるがままに受け容れるということは、自分と溶け込むようなことを言う。

人は自分を忌み嫌って拒絶するような自分を大切にできない人では、誰も人を大切にすることはできはしない。

これは過去からいつも自分のことを誰かと比較をして蔑んだり、いつも他人から悪いところばかりを指摘され注意されたりするから余計に自分のことを忌み嫌いになっていくのであろうとも思う。

そもそも自分というものを好きになるのは他人から好きになってもらおうとして好きなる事ではない、自分というものがどういう人間なのか、そしてそれがどういう特性があるのかというように本性そのままを理解し、それをそのままに自分だと受け容れることができてはじめて自分を理解することができる。

自分というものに無理をして、他人から好かれるようにと必死に演じたり、自分というものに妥協して他人に配慮せず開き直ったりすれば、自分というものがますます嫌いになってしまうものだ。

まず自分がどういう人間なのか、そしてその特性を正しく理解し善い方を伸ばして善い方で活かしていこうとすれば、その習慣付けにより次第に自分のことを受け容れることができるようになるものだ。

それが自分を大切にすることでもある。
自分の最も善いところを大切にすることである。

いつも悪い方ばかりを自分で修正しているようでは、完璧を望むようにもなり、そしてそのうちに自分は何でこんなにどうしようもないのだと思い込めば、自分に厳しくなり過ぎて自分を拒絶するようになりその許せない感情からいつも他人を責めて傷つけることに繋がっていくもの。

それでは、一向に外の世界の社会に溶け込めず引きこもったり、逆に暴力的になったりするものでいつまでも自分と向き合えず付き合えない日々に苦しむ生活を送ることになる。

人は誰でも必ず一つ以上は素晴らしいところがある。

どんなにないと思っていてもそれは必ず存在する、ようはものの見方なのである。

例えば自然界の花ひとつをとっても、桜のように早く大きく咲くインパクトのある花もあれば、ゆっくりとじっくりと小さく目立たぬように地味に咲くものもある。

桜のように早く咲くものは早く散り、印象深いけれど太く短い。しかし、ゆっくりと咲くものはゆっくりと散り、細印象は薄くても微笑ましく穏やかに細く長くも楽しむことができる。

花は花でもその花の本性によっては、こちら側のものの見方を変えればいくらでも長所は秀でるのである。

自分の価値観だけでこれが善いと一方的に決めつけてしまえば、その価値観によって自分が苦しむことになる。色々なものがあるなかで、自分もその中に溶け込むようにすべてのものを受容する感性を発揮することが本性なのである。

生きていくと周囲の刷り込みにより自分というものを見失うことがある。

しかし子どもたちには、自然界のようにありとあらゆるものがそれぞれに引き出し合っている姿を感じてもらい、本来のあるべきようである自分を大切に生きることを学んでほしいと願う。

たった一人の自分を大切にできるのは、たった一人の自分自身なのである。

こういう時代だからこそ、まずは自分を大切にする実践を積んでいきたい。