理念と貢献

貢献というものを考えてみる。

人はただ貢献といってもその人その人で貢献の定義が異なるし、その時の状況や内容でそれぞれに好きにその貢献という言葉を使っている。

例えば、ある会社では利益さえ上げれば貢献だといい、またある会社ではお客様の喜びであればそれが貢献だといい、またある会社では一生懸命に自分のできることをやっていれば貢献だという。

しかし、この場合働いている人たちの声や思考を聞いているとそれぞれに自分勝手に解釈したその貢献の定義があり、本来の貢献とはどういうことかということを考えなていないことが多い。

当然、広義の上では誰かのために自分を使い助けていくことは貢献であるのだけれど時としてそれがかえって全体への迷惑になったりすることがある。

それは、利益さえ上げればいいと闇雲に稼いでいると大義から外れていたり、お客様を喜ばせられればとして言いなりになってしまうと本質やポリシーから外れたり、一生懸命にやればやるほどに逆効果となり会社や周囲を疲弊させてしまうということもある。

これはなぜかというと、単に優先しているものが観えなくなるからでもある。

では何を基準に優先するものを決めるのかといえば、それは会社の理念が最優先でどのような決断をするのかという今の優先順位のことである。

本質的な貢献をするには、まずは理念ありきのもので、その会社の理念が一体世の中全体にどのような貢献を生むのか、言い換えれば「自分の会社が全社会に対してどんな意義があるのか」という貢献の定義を根底にそこから何をするのかを決めていることが大切なのである。それがあわなければ、持続可能な会社にもならず、それがどのようなものであるかで過去今将来が決まってしまうもの、それが理念である。

そういう理念を持たないで判断すれば、それぞれの個人の勝手な理念が優先されれば支離滅裂になってしまう。まず自分を含む全体が何を優先するかという理念で全員が一つの目的のために自分たちを何に活かしていこうとするかという共通理解があっての貢献なのである。

つまり、何を貢献したかではなく、何に貢献するのかを決める事である。

理念からブレナイというのは、そういう本来定めた目的やビジョンを見失わないように様々な出来事の中でも常に自分が何に貢献するのかから外れない決断をできるかということなのである。

そういうものを持たないと、部分では最適なものに夢中になり頑固に実務に没頭しているうちに周囲が理解してくれないと哀れな自分を慰めようとし被害者意識を持ち、そのうちに組織をバラバラにしたりする原因になるものだ。

日々のひとつひとつの実務は確かに大切なことである。しかしその実務は理念があってのものであり理念に溶け込まない実務はあまり全体に対して効果がないものなのである。それに気づくことが大切で、気づく環境も大切なのである、それが理念を実践することでもある。

緊急な業務も重要な業務も、それが理念のどこに根ざしているのかを常に考える事、本当は何のためにやっているのかを自覚することこそが理念に向かってみんなと一緒に一体になって取り組んでいることになるのだ。

人はそういう目に見えないものに対しては、心が決まっていなければすぐに事象にさらわれてしまうものだと思うし、信念を醸成していかなければすぐに目の前の出来事に右往左往してしまうもの。

理念というものを可視化し、それをどれだけ誰よりもこだわるか、その理念に溶け込むかが将来本当に遣り遂げるために重要なコツなのであると私は思う。

純粋にその理念に感動していることや、純粋にその目的をやるために自分を使っていくこと、目先ではなく本来のビジョンにあわせていくことの大切さは仕事を通してもよく感じる。

私はこの国は、神話から流れている創始理念はそのままに受け継がれているし、神道を通して生活の中にまだ自然からのメッセージは息づいている。

その理念が、将来の貢献の意義や子どもたちを健全に育てていくのであろうと確信している。何も誰もいわなくても、自然がすべてを教えてくれる、そこから理念を紡いでいけばいいのである。

これからも自分がまずその理念に溶け込めるようにかんながらの道を深めていきたい。