道徳心といのちの尊厳

今、福島原発のことで世の中は右往左往している。

先日、いつまでもマスクをしていれば変に思われませんかや食べものを避けているのは農家が可哀そうではないですかなどと言われたことがある。

世間では、風評被害に協力しているのかなどと揶揄されていることもある。

しかし本当はどうなのか、別に人がどうこうを気にして道徳心を駆り立てるのではなく、自分がされていやなことはしない、自分がしたくないことはしないとそれぞれが自分で決めたらそれでいいのではないか。

例えば、マスクでいえば大人がマスクをせずに子どもはしなさいというのだろうか?大人が手本を示して、子どもが自ら目にはみえないけれど体に悪影響が出るものを自らで防ぐことは大切なことでそれを自分がやらないということはしたくないと思えばすればいい。

また、放射能が野菜から検出されても農家が可哀そうだからなどというけれど子どもにそういうものを食べさせたいかとなると自分はさせたくない、もし毎回出荷する際に野菜ごとに計るならばまだ買う人の判断だけれどもそういうことは一切知らされず農家が可哀そうだからとなるのはおかしな話である。

自分がされたくないことを人にはしない、自分がしたくないことを自分はしない。それは自分自身が、どちらの方が本当の意味で思いやっているのかということを自分の心に尋ねて自らが生き方を決める事である。

そういう心を育てていくことが、道徳の心であると私は思っている。

当たり前だけれどこの地球には、人間だけで生きているわけではない。人間は目の前の世界だけが自分の生きている世界だと勘違いしているけれど、目には見えないけれどこの世界はありとあらゆるものが譲り合って助け合っていくように本能的に生きている。

他の動植物をはじめ、様々な生命が自分の合った環境の中で偉大な循環に溶け込みその悠久の流れの中で生命を尊重しあって暮らしている。

たとえ自分にとってどんな過酷な環境であっても、先住しているものを尊重し、あえて分限を定め棲家を分け合い生きることはお互いが生き延びるための自然界の原理であり自然の叡智を得ているのである。

それを人間だけで生きていると勘違いして身の回りの生き物を好き勝手に排除していけば、棲む場所を失った命は途絶えていく。しかしそうやって誰かの棲む場所を奪い続けていけば最期には結局自分自身が棲めなくなっていくのは誰にでも想像できる。

やっぱり、互いの生命を尊重しなくなったらこういう流れになるのであろうことは予測できた。

何が良いか悪いかではなく、「いのち」というものは絶対的なものなのである。好き勝手に自分たちの利権でいのちを裁いてはいけないし、命の尊厳を理屈を抜きにして絶対的に守るということで私たちははじめて安心して生きていけるのである。

安心した暮らしとは、多種多様な生命がそれぞれの存在を受け容れられ与えられた場所で役割を担って生きていくことである。生命の尊厳をも、見守られなくなった今日、私たちは本当の意味で危機を迎えているのだろうと私は思う。

こういう時こそ、丸ごと受け容れて前向きに様々なことを見直すチャンスであると気づくことである。

生き方や在り方を固定観念を捨てて見直し、そして自分がどうしたいのか、子どもにどうしてあげたいか、いつまでにどうするのかを決めてそれぞれの持ち場でやれることを真摯に取り組むことであろうとも私は思う。

そういう一人一人の道徳心が、優しい社会を育て、信じる眼差しを広げていくことで流れを易えていくことできるのであろうと私は思う。人間は馬鹿ではない、人間は素晴らしい存在である。

だからこそ、あるがままのすべてを信じて道徳を学んでいきたい。私は、今回のことで犠牲になった方々のためにも根底から見直すことで少しでもこれからの子どもたちのために還元できるように取り組んでいこうと思います。