実践者の学び

師との話の中で、実践の重要さを感じない日はない。

今の社会は情報が多すぎて、目の前にいる人に心を籠めるよりもそうではない遠くの人たちのことばかりを論じて何も自分を変えようとはしない人が増えてきている。

環境問題をはじめ、世界各国で起きる出来事のことに思い憂いているのに実際は目の前の自然や自分の地域の出来事に対しての繫がりの方はそのままおざなりにしていることもある。

保育で言えば、何かの運動のように方法論だけは広げていくけれど実際に目の前にいる子どもたちのことは放ったらかしにしている場合もある。

まず足元にあることや、周囲に起きる出来事を丁寧に対応していくことができてはじめて遠くのことをやればいいのである。それをせず、思い悩み憂うことでどうにもできないと無力感に苦しむよりも自分のできる範囲でしっかりやっていくということがその実、全体の調和や変化の礎になっていくのであろうとも思う。

すぐに人は数の論理や、力の論理で、さも広がったかどうか影響力がどれくらいあるかということばかりに目を当て、大きいか小さいか、広いか狭いかということばかりを議論する。

しかし真の実践者というものは、そういうものを大事にはしていない。
自分ひとりの影響力の偉大さを現実的に自覚しているのである。

方法論ではなく、それは実践論でなければ意味がないことを知っている。

やり方ばかりを探すのは情報が多いからであり、簡単に入手できる時代になっているからである。しかし、その方法を先に知るから苦しむのであり追い付いていない自分に焦るのであるのだろうとも私は思う。

じっっくり時間をかけて玩味していくことではないけれど、何かを感じようとするには感性を研ぎ澄まし日々に応じて心をあわせていくようなことが必要なのであろうとも思う。

どうしても、答えが先にあるかどうかを知りたくなるのは私たちがそういう教育を受けてきたからなのかもしれない。人生の意味は、味わい尽くすことで得ることができるものなのに本当に時間にあくせくともったいないことをしているなと本来のいのちや心、繋がりを味わうのに必要な穏やかな時間すらもなかなか取れなくなってきているのだろうと思う。

心を落ち着かせることは、自分をいつもの平常心にしていることでもある。感情に巻き込まれるのは、味わう気持ちよりも解決したいという焦りに心が攫われているからである。

平常心とは、必ず心が先に実践し頭が後付けであるということであると私は思う。実践することが前提であることは正道から入る事であり、決して裏道から入らないことである。いつも優先順位からブレず実践していれば頭ではなく心が先に動いているから方法論にも運動論にも陥らないのである。

私たちが学び広げる実践者の語る声はすべて方法論ではなく、実践の在り方そのものを語っているのでありそこを実践しながら学びなさいということなのである。

師は見守る保育というものは方法論ではない、保育とは子どもを見守ることからはじまっているのであるという。

これは、充実した人生というものは方法論ではない、人生とは生き方が充実しているところからはじまっているのであるという意味でもいい。

実践をする人からの学びとは、そのものの実践を深める事である。決して方法論として受け取ってはいけないし知識をただなぞり得るようにやってはいけない。

尊敬する実践の真似をすることであり、まねぶ、つまりは学ぶことなのである。

こういう情報リテラシーが特に必要な時代は、常に自ら主軸の実践のために情報を取捨選択し続ける心の調整を実践していかなければと真摯に感じる。一つひとつの課題に対して、そこから常に取り組んでいきたい。

子ども達には、実践しながら学ぶよう知行合一の豊かさを示していければと思いまず今を受け容れ楽しんでいる自分でいようと努めようと思います。