チャレンジ

何か新しいことに挑戦するということがある、根性だけではできないし、テクニックだけではできない、体力だけはあってもどうにもならないと思えるようなことでもその壁を乗り越えて新しく飛躍的な成長を遂げていくのが挑戦ということの意義でもある。

スポーツや仕事でも何でも、「心技体」というものがある。

これはイコールであり、つまり心=技=体はすべてが同じほどの調和をしていくことが大切であると述べているのではないかと私は思う。

仕事でも、いくら心がまず決まってもそれをやる技術が同等に修練できていなければ心が折れそうになることもある、それでも心が決めたとやっていることで技術は次第に追い付いてくる。また同じくそれを維持していく体力としての実践が日々に習慣付けられてはじめてすべてがバランスよく追いつき事を大成することができるもの。

以前、私はバレーボールの体験でも同じような思いをしたことがある。

いくら心が決めたとしても、そのための技術の練習はまた別に創意工夫して何度もチャレンジしていく必要があり、またそのために体がついてくるための様々な基礎力を磨き全体として総合的に力を身に着けることではじめて試合で活躍しチームを勝利へ導いていくことができた。

個人だけでやってきた力ではチームは導いていくことは難しい、チームを導いていくための心の覚悟を決めたら、そのための方法をたくさん練習し技術ややり方を磨き、そしてそのために体力という実践を積んでいき新しい自分を刷新していくことだと思う。

これはスポーツに限らず語学の習得でもそうだけれど、やろうと思っただけではなく決めたら具体的にやり方や実践を続けて失敗をたくさんしつつも最終的には決めたところまで遣り抜くや遣り切ることで責任を果たせば自然に心技体は調和するのであろうと思う。

しかし視点が変わらなければどうしても不安や恐怖で身がすくんでしまっている人もある、こういうときは視点を変えてみることである。

逆に今まで思っていたようにうまくいかないのは実は大きなチャンスであるのだとし、それは今まで気づかなかった根本的な間違いを正し、もっと新しいことをやればいいと教えてくれているのであると素直に感謝してみることである。

しかし人はちょっとうまくいかないと、ネガティブに考える人と、ポジティブに考える人がいる。どちらも課題があり、ネガティブだと挑戦をそこで怠ってしまい結局、技術、体力がついてこずに心が折れてしまうことがる。

またポジティブな人は、うまくいかなくても大丈夫とやってくのだけれどつい驕ってしまって注意力散漫になってしまい全体的に雑になっていくこともある。

冷静な情熱を持って、何が不足しているのか何を伸ばせばいいのかその心技体すべてのバランスをよく客観的に観て弱いところから鍛えていくことが大切であろうとも思う。そしてそれをさせてくれるのは、今の環境や状況に深く感謝し尽くすことであると私は思う。

チャレンジするのは、まず今に感謝の心を主軸にその心技体全部をまた一回りバージョンアップするために練習と訓練、実践、また練磨修身などを繰り返し継続していく勇気と行動のことである。

自信がないのは、健全な証拠であり、不安なのは自分の実力を観えているからでもある。これは孫子ではないけれど、「己を知り敵を知れば百選危うからず」は自分の本当の今の実力を正確に見極めているからでもある。

チャレンジするのは、それを必ずすべて善いことにしてみせるという覚悟が決めるもの。

人生二度ないのである、思い切ってチャレンジする人を後ろから支えていきつつ自分もチャレンジを楽しんでいこうと思う。ガンバレとエールを送りたい。

自分の生

自立というものに主体的にというものがある。

何かを行うときに、自分から何かをやろうとするのか、誰かから言われたことをやろうとするのかというのは事のはじまりにおいてその在り方や姿勢がまったく異なってくる。

そしてそれは責任というものにも関わってくる。

自分から責任を取ろうとして、自分から最後まで遣り切ろうとする人は責任を取らされるということはない。そもそも責任を取らされるという発想を持っている人は今まで責任を持ったことがない人でもある。

いつも自分から責任を持たずに言われたことだけの指示を待つような仕事をするから責任を持ちなさいと指導され、それが結果的に本人が責任を取らされたということを思っているだけである。

責任は取るものであり、取らされるという言葉はない。取らされるという言葉は、取らない人だけが使う言葉であり取っている人は責任は果たせなかったという言葉を使うだけである。

責任を取らされると思っている人は、やりましたけれどややるしかなかったからや指示通りしましたがなどと、その仕事というものへの自分の姿勢が最初から間違っていることに気づいていないだけである。

責任を転嫁できるというのは、自分ではなく相手か誰かからだと言えるからでである。

そしてその本人は大きな誤解をしているのは、本人は何か作業をしている中で自分の意思でやっているのだと勘違いしていることだ。そんなはずはない、なぜならそれは責任がないようにと相手から指示をもらったからこそ相手に責任を転嫁したから自分勝手にできるだけであって、その時点で自分から最終的な責任を果たすためにその判断を持ってもいないのに主体的にやっていると思っているのは本人の勘違いである。

最初に指示を貰おうと相手に決めてもらおうと「相手から」のものを期待した時点ですべての仕事は受け身になったことに気づいていないだけでもある。

自分からやろうとしている人は、出したものを出しっぱなしにすることはない。そして自分からやっている人は、問題や課題を先のばしたりすることもない。なぜなら、相手任せにしていないからでもる。自分で責任を果たすために最期まで遣り切りたいと決めているのである。

受け身で指示待ちの人は、すべて相手待ち、相手任せ、向こうの都合というように、反応することを何度も何度もしているだけになる。すべて仕事がギリギリになっているのは、指示が出てからや相手から来てからやろうや考えようとするからでありそれは「反応するのが仕事だ」と勘違いしているのである。

指示してもらえなければ動けませんとなるのは、受け身で仕事をしているからである。主体的に仕事をするなら指示がなくてもいいように徹底して確認をして自分の判断でやれるようにならなければいけないのである。

自己実現をし、三方よしに貢献するためにはすべての仕事をまずあり方として相手からではなく「自分から責任を果たす」ために確認し、持ったものを最期まで遣り抜くためにプロセスの中で緊張感を持ち報告連絡相談を小まめにしつつ進めていくことが責任ある働き方である。

どんなに何度も提出物を出しても、どんなに何度も同じことをやってもやっても、まず先に最初にその責任と役割を自分から決心覚悟をしようとしなければ全体に効果が出るような貢献にはなることはないことを本人が自覚することである。

そのために、まず「自分から確認」というものをすることで責任を取ろうとする姿勢を身に着けることが仕事の仕方として最初に必要なことになる。

今まで自分の人生を誰かに依存して、責任を持たずにいるからそういう来たものに反応するだけのものになってきたのであろうと思う。教育のせいや社会のせい、家庭環境のせい、会社のせいなど、他人のせいにしてこれからも生きていくのか、それでは一生自分の人生が誰かのせいで決まっているなら自分から何かの意思でやろうとしたのかという問いが死ぬ前に残るだけである。

本当に自分の人生に責任を持つなら、まず自分から自分の意思で決心し、責任を持ち取り組むことが肝心であるのだろうと思う。他人の生ではなく、すべての出来事を「自分の生」とすることができてはじめて自立なのである。

仕事で保育を扱うものとして、自生自立を体現することは大切なこと。それぞれが子どもたちの模範になるように実践していきたい。

自分を変える

幼稚園でお誕生会などをやることがある、幼いころ大勢の前で何かを演じたり喋らせたり一方的にやらされることで人前で話すことが嫌になったりしたことがある。

それに無理に寝たくもないのにお昼寝というものもあり、私は小さいころ保育園で無理に眠らされたことで一種のトラウマのようなものをもってしまったこともある。

楽しい真っ最中に寝なさいや、感謝しているときにみんなから笑われることなどはとても子どものときは受け容れることができずキャパシティがオーバーして無理をした記憶がたくさんある。

こういうものは、相手に選択をさせてあげたり、もっと共感し受容し待ってあげたり、そういう人もいるのだと自分で決めれる範囲でできるように協力したりした方が発達上は安心して育っていくのに、こうでなければという思い込みや未来への不安を子どもに押し付けるのはあまりどうかと思います。

今の子どもたちの心に寄り添い汲みとる事の方がその子の過去も未来も素晴らしい叡智と感動に満ちることになるようにとすることが先に生きている人たちの背中と経験を示すことであるようにも思います。

人と人との間には、関わり方ということに何かの方法論を持ち出すのではなく人との関わりの根本的な姿勢や在り方として相手のことを思いやることができているかどうかという心の姿勢が問われているのであると思う。

今の先生という職業は環境も過酷で、個々が偏に責任をしょい込みすぎ忙しすぎて余裕がない、余裕がなければその時の知識と判断で裁くようになってしまう。業務や何かをやる作業に心を持っていかれたらつい反応型の対応になってしまいいよいよ心ない行為を繰り返してしまうもの。

こうなると余計に偏り遠慮から相手が傷つくことを恐れて何もしないか、相手が傷ついていることにも気づかないでどちらも思いやりの循環ではなく責任転嫁の関係を生み状況をますます悪化させていくようなことになる。

心のゆとりや余裕とは、安心や安全というような自分の帰れる場所や戻れる居場所によって得ることができる。

その居場所をどこへ定着させるかであるけれど、私なら子どもが育つ喜びや豊かさ、学び成長していくことの価値や、間違いに気づいたり感動して変わったりしていくことの素晴らしさ、相手に共感し、それを受け容れ優しい心に触れることなど、こういうことの真善美のような体験こそが保育や教育だけではなく今、生きていることへの愛の意味であろうとも思う。

愛を感じるということは、自分が愛することができているからでもある。
思いやりを感じているというのは、自分が思いやっているからでもある。

つまり、自分の心の在り方や居場所がどこにいるのか。

あいさつの「ただいま」「おかえり」ではないけれど、如何にこの「ただ、今」に戻ってきたか、どんなに業務や作業があったにせよ、そこに没頭してしまい大切なことを見失っては物質世界の住人のようになってしまうもの。

私たちは心の世界にも住んでいるのだから、当然いつも心のふるさとに戻ってくることでバランスをとっていくものであろうとも思う。

調和するのは、心を籠めて丁寧に今を噛み締めて生きていることである。

そういう日々を送ることは、過去の恵みや天の叡智に感謝できている自分のままで充実した豊かな夢に生きているということである。

どんなに子どもの時の体験で今があったにせよ、それは必然であったと思えるように周囲の大人の生き方や見守りがその子を一生支えていくことを決してわすれてはいけない。

まずは自分たちの生き方から変えていくことで、世界は変わっていくのであると信じることからはじめてみよう。

自然と一体

身近な自然に身をゆだねているとふと不思議な感覚を覚えることがある。

例えば、そこには眼には見えないように何もないのだけれど確かに何かがあると感じるようなものがある。

ひなたにぽかぽかと穏やかな優しい時を感じたり、肌をすり抜ける微風に心地よい和らぎを感じたり、空高く碧い光と大きな雲に元気さを感じたり、雪の積もった深々とした静かな夜に月の光が差し込んでくるのに時が止まったようた鏡の心境を感じたりする、まだまだたくさんあるけれど身近な自然に溶け込み身を委ねると自然と一体になっている自分がある。

ないようにみえてあるものとは、私たちはきっと自然の雄大で悠久な流れに従って応じては変じていく生き物であることを思い出させているのであろうとも思う。

土を触れば土になり、風に触れれば風になる、水に入れば水になり、森に踏み入れば森となる。

身近な自然を感じるというのは、私たちが何もしないなかに確かにあるものを感じる事であったり、日頃から感じているはずの感覚を取り戻すことでもある。

若い緑の草原で自分が寝ころび風がそのすぐ上を駆け抜けていくことや、森の中の木漏れびと清流にひんやりとした澄み切った空気を深呼吸するとき、私たちは自然と一体になっている。

自然を感じるということは、そういう感覚に身を委ねることであろうと私は思う。

そうしているうちに心が無限の叡智と知恵を交わし、いいしれない融通無碍な無心を覚えるのであろうと思う。

自然というものを心にいつも修めていくことは、あるがままの幸福に生きるということでもある。自然を内包することができるということは、素直でいるということでもある。

どんなに日々の喧騒があり、気忙しく流れていても心はいつも自然に委ねるように生きていきたい。

子ども達には、身近に感じるあるがままの感性を自然と一体になって学べるような環境を用意していきたい。まずは自分から自然の流れに身を委ねていきていくことを示していきたい。

身近に気持ちを汲みとる

知識を持つということと人の気持ちが汲みとれるようになることとは同じことではないことは誰でも知っていることだと思う。

しかしなぜか知識ばかりを先に詰め込み、きっとこうなんだろうと大よそのところで推察することを覚えて実際に心で感じることをしない人が増えている。

そしてそういう人たちが偏った形で変な運動をしていくからまた世の中におかしな共感が広がっていったりする。運動をすればより忙しくなる、人間忙しくなり余裕とゆとりがなくなれば他人の気持ちは正しく汲みとることができない。

例えば、現場で感じることでこだわる場所が変だと思えるものがある。

子供の供は、供えるや従えるという意味になるからそぐわないとし平仮名に変更とする、また障害者の害という字はよくない字だから変更するというようなことを議論しそれを推進していく。

そういうことをいちいち気にする暇があれば、もっと今の社会全体がどのような眼差しで子どもや障がい者のことを思いやるようになっているのかなどについて共感してそこから善いことにしていくようにするべきではないか。

もともと自分たちの都合が良いようにするために、知識を上手に駆使しもともとあった自然な姿を壊していくのは自分たちの相手の気持ちを汲みとる力が欠けてきているからではないか。

何でも詰め込もうと、知識で修正しようとすることは無理がある。知行合一ではないけれどちゃんと感じて実行したことを内省し、それを智慧として改善するというような循環にしなければ本当の意味で取り組んでいるとはいえない。

まず共感は本人たちや当事者が、どう感じているのか、その気持ちを汲みとる方が大切で議論すべきはもっと現場の声を重視することではないか。

彼らが社会に望んでいることを汲みとってあげることではないか、言葉の定義や意味づけとしては大切なことだろうが現場とはあまり関係がない特別なことばかりに目を向け、当たり前のことをおざなりにするのは知識に偏った人ばかりで進めるからであると私は思う。

情報を正しく理解し、如何にその情報を発信し受信するかは身近な現実の人たちに共感して生きる事であると私は思う。

もっと日々の身近な人々に心を配り、慮り謙虚に接して感謝していくような実践が大切で、こういう情報過多の知識偏重の社会だからこそ身近なところから気持ちを汲みとることを忘れないようにしていきたい。

目の前の人や、身の回りの人たちを大切にしていくことが世の中を善くすることであるのだから。

一人一人が相手を思いやることから取り組んでいくことが、御互いを活かし合う有意義で豊かな社会を創造していくことを忘れてはいけない。すべては自分の身近なところから取り組んでいくことだ。

協力第一

今の社会は画一的になるようにと刷り込むことで歪んだ個人主義を蔓延させ、そのことから過度に個人に無理をさせ一人内で頑張らせようとする環境に満ちている。

誰かだけが責任を取り、それ以外の人は何も協力できないような仕組みを暗黙の了解で用意しているものもある。それが評価や社会の名声などとも繋がり、余計に個人だけでやっているかのように個にフォーカスさせようとする。

私たちの仕事でよく相談を受ける中で気になる子というものがある。

保育園や幼稚園でも、少し変わった子どもや普通の人たちとの思考パターンや判断基準があまりにも異なったりする子どもがそうなるのだけれど、まあつまりは何かが平均というモノサシから欠けているその子に過剰に反応し、その子を何とかしようとするあまりに様々な問題が起きてくる。

そもそもその子どもは何かしら特異な能力を持ち、何かしらのことで貢献したいと思っているもので変じゃないのである。

それが自然である。

今の社会も教育も、人間はその本人にばかり無理を強いていくような気風がある。

周囲の見守りの中で偏っている人は、それをうまく付き合いそれを伸ばしてきたことで成功していく人になり、周囲の見守りがない中で偏っている人はいつまでもそれはダメなものなのだと必死に普通で在ろうと無理をして窮屈に生きているうちに本人がどんな人なのかを自他も誰もわからなくなっている人もいる。

そうやって自他が不明になると自分が変だとも自覚せず、自分は普通ですよと誰かと比較して必死にふつうであることをアピールしようとする。

もともと個性というものは、外部に顕われてくるのは内面の性質でありそういう自分なのだと受け容れるところからはじまっている。

心身一如に統一され、その自我というものがマッチングした時に人は穏やかに安定した気持ちになって日々を豊かに生きることができるもの。

いつまでも無理をして自分を偽り、いつまでも気になる人になってしまえば努力がいつも裏目に出て周囲を困らせていく存在になってしまうのだろうと思う。

本人は、自らの不自然な姿が一番周囲の関わりを混乱させるということに気づけないのだから教えてあげたりアドバイスをしてあげればいいだけなのである。

私たちの会社に見守るほいくプラスという商品があるのも、そういう気になる子を気にしなくするために用意した刷り込みを取り除くものである。

つまりは、気になる子の突出した不足部分や変な特性を受け容れ周囲が協力してフォローするという仕組みになれば気にならなくなるものである。また本人が腹に落ちるほどに自分のおかしな個性を自覚し、周囲の温かく見守ってくれる存在を信用して委ねることである。

大多数の気になる人は、幼い時から周囲の大人に無理やりに矯正させられたり、認められない受け容れてもらえない環境の中で無理を強いられてきた人が多い。

しかしこのことで、いつまでも孤独の中で周囲と溶け込むことができずいつまでも行動が裏目に出てしまい一人苦しむことがある。その人を支える人や、その人のことをわかってくれる人が顕われるまでずっと自分を責め続けてしまうものでもある。

その人が可哀そうと思える程に、そんな見守らない社会はウンザリである。

今は、皆で協力する社会を築くことが何よりも大事でそういう偏った人や何をやっても裏目に出てしまう人をゆるし受け容れて皆で支えて補い合うようなチーム創りができるような見守る環境を用意していくことが必要である。

一人で無理をさせないというのは、皆がいつも支えてくれていると感謝している関係を互いに築きあうことである。どんなに特殊な能力を特異な才能を持っていても、それが活かされなければ効果は半減するもの。

能力だけで完璧を目指し、気が付くと使い捨てされるようになるのは自分が協力を惜しむからである。協力を惜しまず、何でも手伝うというのはその人の偏りを活かし補うことで自分を活かし補うためである。

大事なことは、「一人はみんなのために協力し、みんなは一人のために協力すること」に尽きるのである。

出来ない人やダメな人にばかり個人に強くなることは弱さの証である、人類の本当の強さは助け合うことで磨いてきたことを思い出し子どもたちの見守る環境を会社で実践でそんな社会になるように示していきたい。

感謝に帰る

過去に何らかのことで傷ついたりすることで心的トラウマを持つことがある。

一番苦しい時や、もっとも余裕がない時、心が折れそうな時に、まさかといった出来事や、信じられないような言葉に遭遇したりすることで受け容れ難い記憶としてその人に残るのであろうとも思う。

実際は、そういう事件に遭遇する際にはどちらにも余裕がないことがあったり何かしら悪意があったわけではなくそんなつもりで言ったのではないのだけれど相手にとってはそんな余裕もなかったということだったりもする。

心のゆとりや余裕を失わないというのは、変に自他に傷をつけないや傷を負わないようにするためにも大切な自己管理であろうとも思う。競争や分断で忙しくさせる社会の中では特に気を付けていかないといけない大切な配慮事項でもある。

そうやって日々の生活の中で相手のことを思いやり、周囲のことに感謝できている配慮をいつも忘れない自分でいるかどうかというのは習慣の中でチームで協力をしたり御礼をしたりマナーを守ることで維持していくのが処世術でもあり今は最適であろうとも思う。

どんなに自分を慰めるためにその瞬間は自分を感謝だとか言い聞かせても、日々の実践で行動が感謝を顕している姿に自らが変わっていなければあくまでそれは単にその場しのぎで言い聞かせているだけの行為にしかならないこともある。

そういう時は、一度その相手に向いている矢印を自分にすべて向けて本当に自分はまず相手を責める前に自らの心が誠意がある対応であるか、真心で話をしているかなどを自らの行動を客観的に鏡に照らして反省することが感情から抜け出す方法でもあろうとも思う。

そうやって冷静になったあと、事象に振り回されないようにするために感謝が足りないと内省し、さらなる感謝に置き換えてすぐに言葉や行動にしていくことが大事であると私は思う。

よく考えてみればすぐに分かる事だけれど、その人がいなければ自分は存在することができない。会社でもそうだけれど、会社がなければ自分は存在できない、上司や仲間がいなければ自分は存在しない、お客様がいなければ自分は何もできないと思えば如何に感謝を忘れている自分がいるのかがすぐに分かる。

もちろん様々なエゴから自分の悩みも苦しみもあるのだけれど、それ以上にその人の存在やその人が心が素晴らしいと心底感謝していくことが大切なことなのでもあろうとも思う。

自分に気づきを与えてくれる存在、自分の至らなさを気づかせてくれる存在、自分に感謝というものを教えて下さる存在、自分に当たり前であることなどないと悟らせてくれる存在、そういう相手がいなければひょっとすると出会うことすらなかったかもしれない学びを与えてくださるのである。

その方々に「本当に有難うございます」と心から感謝することである。
当たり前に思わないためにも、すぐに行動から感謝に換えていくことである。

すると、何かお返しできるものはないかと思うほどに自分を変えていこうという勇気が湧いてくるのだと私は思う。

自分に都合悪いことを排除しようとするのは心の弱さである。心を鍛錬し、魂を育て、人間としての徳性や叡智を学び自立して貢献していこうとするのが人の道でもある。

自分を修養していくというのは、心をいつも素直に感謝へ向けることである。

この感謝の心を大切にして、当たり前などないことを心に刻み、真のゆとりや余裕を持ち互いの成長を見守るを実践を日々に感謝とともに歩んでいく。

いつも本当に有難うございます。

情報リテラシー 取捨選択

かつてないほどの情報量を個々が摂取するのがこの今の時代であると思う。

テレビをはじめ、インターネットから携帯まで様々な媒体を通して私たちは知り過ぎる以上の情報が入ってくる。

知らなくてもいいような遠くの情報までも、誰かが知っているし、知っていないといけない身近な出来事は意外と誰も知らなかったりする。

環境問題でも、世界でどれくらい破壊されているのかは学び知っていても身近なかたつむりや蓑虫などがどうなっているのかは知らない人は多い。

仕事でも、様々な世界のマネージメント手法や様々な方法などは知ってはいて学んでいても、身近な人たちに心を籠めて丁寧に手作業で進めていくことを知らない人もいる。

健康なども最たるもので、身体の隅々まで最先端の知識でどのようなことが効果があるかなど様々なサプリメントや薬などについては詳しくても、実際に自分の身体に何が起きているのかはまったく感知できないでもいる。

人間というものは、知識や目に見えるものばかりに囚われやすいもので本来はもっと自分の身直にあるものを感じていくことで本当の情報を取捨選択していけるものであると思っている。

情報リテラシーについてもそうだけれど、如何に要らない情報を与えないか、如何に大切な情報のみを伝えていけるか、余計な情報がその人たちの心をかき乱さないようにしてあげることも大切なことである。

こういう情報過多に対応するには、如何に要らない情報を受け取らないかということが大切なことになる。意識的にではなく、本当に自分にとって必要な情報を入手したらそれ以外は削られていくような感じである。

それは例えば、学校教育で言えば一斉画一に今でも知識ばかりを詰め込むよう記憶力や暗記力向上に特化したことを情報過多の時代になっても相変わらず懲りずにいつまでも行っている。小学生の子どもたちに話を聴いたら、一つ覚えたら一つ忘れてしまうのでとても困っているとの相談をうけたことがある。

私たちの脳はある一定上の情報を覚えていて、そして忘れるというのは本当に必要なものだけにしておきたいからである。これも人生の生きる知恵である。忘れるということはとても大切な心の作用でそれは新しく前を向くための希望にもなる。

それを病的に刷り込みおかしくするのも、先に誰かが抽象的なものだけを知識として詰め込むことで本人の心の作用にも影響する想像やイメージなどをする余地をなくしているのであろうとも思う。

頭が良い人の定義も、その時代時代の教育方針で変わってしまうもの。情報を増やし続けて詰め込んでいれば、将来本当に必要な情報を掴んでいく力、つまりは本質を見抜くや見通すなどという取捨選択力も育たず情報リテラシ−力もつきはしない。

私たちは身近なところで起きる出来事を丁寧に共感し観察して発達を見守ることでどんな世界であろうが今というものを受け容れて自然に育っていくのを待つ方が正しい情報を取捨選択していけるもの。

そして組織も同じく自然を感じて自然のままに、身近なところから心を籠めて丁寧に共感して同じ方向や理念と一体になって取り組んでいくこと。

昔のようにとはいわないけれど、日々の生活の中で大切なものを守っていくようにゆったりスローに生きていく力と今の流行や変化との共存ができる人物が調和を取り持つのであろうとも思う。

まずは自らが実践で示して、世の中へその理法と仕法を広げていきたい。

希望を持ち続ける

今の時代は、みんなで一緒にというのを勘違いさせてしまっているようにも感じることがある。

未来のことや現状のことを嘆くのも変に大人びてしまい諦め感が漂い、セリフは常にどうせみんなも一緒に死ぬのだからや、全員被害があるのだからと負の連帯感のようなものを持ち出し希望を持つことをしようとしない傾向もある。

みんなできないと思った方が何もしなくていいからそうしているだけで、自分がやっていればみんなもやっていくという前向きな発想ではない。

幼い時より、身近な大人を含め教育など丸ごと教えず理想と建前を使い分け自分たちに都合が良い部分だけを伝えてどうにもできないことばかりをみんなでぼやくうちに次第に周囲や子どもたちにもそういうものは伝染しているのであろうとも思う。

みんなが一緒にダメになるからと自分は何もしないというのはどうしたものかと思ってしまう。そういう人たちがどの業界にも偉い立場になっているのに、いつまでも自分の足元も変えようとはしない。文句や愚痴ばかりを言っていて何もしないうちに子どもたちから犠牲になっていくのをこの人たちは知っているのであろうか。

そういう人に限ってみんなもそうだからなどというけれど、正確には子どもたちから先に犠牲になってしまうのだ。

天災であろうが人災であろうが、最初にいのちを落としていくのは子どもたちである。大人は親として一番悲しいことは子どもが先に苦しみ死ぬことだと知っていながら自分だけは関係ないからと最初から諦め何も見直さないというのはおかしなことではないか。

今やっていることがおかしいと気づいているなら、勇気を持って見直すのは何のためか、それは子どもたちを守るためである。

子どもたちが最初に辛い思いをし、子どもたちが真っ先に犠牲になっていくという現実を考えれば、自分自身の事ばかり考えるのではなく如何に今のままではいけないと思うことを本気で見直すことが大人である使命ではないか。

子どもの傍にいる大人たちが、どうせみんな一緒になどと諦めていたり、どうせ巨大な権力にみんな一緒に支配されているのだからなどといい、自分の何も変えようとしないまま子どもたちに希望を持てとよくもまあ偉そうに言えるものだと悲しいほどに義憤に思える。

建前と理想を使い分けるのは、そうやって変に大人びた諦め感を覚えることからはじまっているのであろうとも思う。それを使い分けていれば、一応その場はやり過ごせるからである。先に延ばしたツケはいったい誰が払うのだろうか?

「だからすぐにも変えよう!」とするのが仁義である。

もちろん、今の社会も周囲も何かを変えようとするとすぐに大きな壁にぶち当たる、私も会社で自然食や添加物を使わない、ホスピタリティや物々交換、その他循環にまつわることをやろうとするとすぐにそれができないような環境や言い訳に満ちている。

だからこそ信念を持って最後まで遣り抜くのである。そういった自分の生き方や働き方から見直し、そして子どもたちと一緒に希望を持って日々の改善に取り組んでいくことがカグヤで言えばこだわりであり仕事の醍醐味でもある。

そして信じる実践の中にある様々な小さな希望を積み上げて大きな夢を叶えていこうとする現場が私たちの仕事の本質なのである。

自分から諦めなければ必ず理想を実現していくことができると信念を持って日々に生きることは、この時代を創るものとしてこの時代を受け継ぐものとしてのミッションであると肌で感じる。

様々な出来事から気づいたことを改善し、子どもたちや弱い立場の人たちのためにまずは自分は絶対に直すという姿勢が、子どもたちの生きる希望になっていることを忘れてはいけない。

みんなで力をあわせて一丸となって子どもたちが安心して暮らせる世の中を遺してあげるために、できることからはじめて根気強く改善していこう。

礼儀の遵守

人との人とのかかわりに礼儀や作法というものがある。

これは品性のためにということではなく、相手の気持ちになって思いやる際にその秩序や道徳を尊重するという意味で使われるものとして新渡戸稲造の武士道では紹介されている。

もともと仕事のマナーや進め方なども、まずお客様の立場にたって考える事や取引先の気持ちを配慮して礼を尽くすことはお互いに秩序ある正しいことを優先しようとする道義や道理を重んじようとする精神の顕われであろうとも思う。

それがなくなってしまえば、当然道理から外れた話になったり道義からずれた議論になり結局は礼を弁えない醜い結末に陥ってしまう。

誰が良いか悪いか理不尽かどうかではなく、礼を重んじて取り組む姿勢がお互いの関係をより善いものにしていくのであろうとも思う。

日頃からマナーや対応を丁寧に、相手の立場で心を籠めて取り組むことがお互いを尊重し合い信頼関係を築きあげていくことにおいては大切なことであろうとも思う。

精神が陶冶されていなければ、見た目は品性を保っているように見せても何かがあると感情的になり冷静さに欠ける言動に支配されてしまい苦しむこともある。

そういう時こそ、私たちの先祖から脈々と実践されている徳、その武士道精神というものに立ち返ることであろうとも思う。

「礼は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行うので、いつも優美な感受性として現れる。礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。」

と書かれている。

何か困ったことがあったり、何かの役割や責任を持つ人たちは、それぞれにみんな困っているのである。みんな一緒に大変な思いをしつつ、何かの仕事も進めているのである。

そういう人たちのことを思いやり、みんなきっと大変なのだろうと優しい気持ちを持つことでその対応に礼儀という姿が表現されていくのであろうとも思う。

礼儀を実践することで思いやりの関係は築け、礼儀を粗末にすることで憎しみあう関係が生まれる。礼儀やマナーは、人間関係を建設的に構築してより善い永続する関係を築く上で本当に大切なのであると改めて感じます。

子どものためにも、実践をし、それぞれが建設的に善い方向へと常に循環するようにまず自分の足元から見直していこうと思います。