希望を持ち続ける

今の時代は、みんなで一緒にというのを勘違いさせてしまっているようにも感じることがある。

未来のことや現状のことを嘆くのも変に大人びてしまい諦め感が漂い、セリフは常にどうせみんなも一緒に死ぬのだからや、全員被害があるのだからと負の連帯感のようなものを持ち出し希望を持つことをしようとしない傾向もある。

みんなできないと思った方が何もしなくていいからそうしているだけで、自分がやっていればみんなもやっていくという前向きな発想ではない。

幼い時より、身近な大人を含め教育など丸ごと教えず理想と建前を使い分け自分たちに都合が良い部分だけを伝えてどうにもできないことばかりをみんなでぼやくうちに次第に周囲や子どもたちにもそういうものは伝染しているのであろうとも思う。

みんなが一緒にダメになるからと自分は何もしないというのはどうしたものかと思ってしまう。そういう人たちがどの業界にも偉い立場になっているのに、いつまでも自分の足元も変えようとはしない。文句や愚痴ばかりを言っていて何もしないうちに子どもたちから犠牲になっていくのをこの人たちは知っているのであろうか。

そういう人に限ってみんなもそうだからなどというけれど、正確には子どもたちから先に犠牲になってしまうのだ。

天災であろうが人災であろうが、最初にいのちを落としていくのは子どもたちである。大人は親として一番悲しいことは子どもが先に苦しみ死ぬことだと知っていながら自分だけは関係ないからと最初から諦め何も見直さないというのはおかしなことではないか。

今やっていることがおかしいと気づいているなら、勇気を持って見直すのは何のためか、それは子どもたちを守るためである。

子どもたちが最初に辛い思いをし、子どもたちが真っ先に犠牲になっていくという現実を考えれば、自分自身の事ばかり考えるのではなく如何に今のままではいけないと思うことを本気で見直すことが大人である使命ではないか。

子どもの傍にいる大人たちが、どうせみんな一緒になどと諦めていたり、どうせ巨大な権力にみんな一緒に支配されているのだからなどといい、自分の何も変えようとしないまま子どもたちに希望を持てとよくもまあ偉そうに言えるものだと悲しいほどに義憤に思える。

建前と理想を使い分けるのは、そうやって変に大人びた諦め感を覚えることからはじまっているのであろうとも思う。それを使い分けていれば、一応その場はやり過ごせるからである。先に延ばしたツケはいったい誰が払うのだろうか?

「だからすぐにも変えよう!」とするのが仁義である。

もちろん、今の社会も周囲も何かを変えようとするとすぐに大きな壁にぶち当たる、私も会社で自然食や添加物を使わない、ホスピタリティや物々交換、その他循環にまつわることをやろうとするとすぐにそれができないような環境や言い訳に満ちている。

だからこそ信念を持って最後まで遣り抜くのである。そういった自分の生き方や働き方から見直し、そして子どもたちと一緒に希望を持って日々の改善に取り組んでいくことがカグヤで言えばこだわりであり仕事の醍醐味でもある。

そして信じる実践の中にある様々な小さな希望を積み上げて大きな夢を叶えていこうとする現場が私たちの仕事の本質なのである。

自分から諦めなければ必ず理想を実現していくことができると信念を持って日々に生きることは、この時代を創るものとしてこの時代を受け継ぐものとしてのミッションであると肌で感じる。

様々な出来事から気づいたことを改善し、子どもたちや弱い立場の人たちのためにまずは自分は絶対に直すという姿勢が、子どもたちの生きる希望になっていることを忘れてはいけない。

みんなで力をあわせて一丸となって子どもたちが安心して暮らせる世の中を遺してあげるために、できることからはじめて根気強く改善していこう。