協力第一

今の社会は画一的になるようにと刷り込むことで歪んだ個人主義を蔓延させ、そのことから過度に個人に無理をさせ一人内で頑張らせようとする環境に満ちている。

誰かだけが責任を取り、それ以外の人は何も協力できないような仕組みを暗黙の了解で用意しているものもある。それが評価や社会の名声などとも繋がり、余計に個人だけでやっているかのように個にフォーカスさせようとする。

私たちの仕事でよく相談を受ける中で気になる子というものがある。

保育園や幼稚園でも、少し変わった子どもや普通の人たちとの思考パターンや判断基準があまりにも異なったりする子どもがそうなるのだけれど、まあつまりは何かが平均というモノサシから欠けているその子に過剰に反応し、その子を何とかしようとするあまりに様々な問題が起きてくる。

そもそもその子どもは何かしら特異な能力を持ち、何かしらのことで貢献したいと思っているもので変じゃないのである。

それが自然である。

今の社会も教育も、人間はその本人にばかり無理を強いていくような気風がある。

周囲の見守りの中で偏っている人は、それをうまく付き合いそれを伸ばしてきたことで成功していく人になり、周囲の見守りがない中で偏っている人はいつまでもそれはダメなものなのだと必死に普通で在ろうと無理をして窮屈に生きているうちに本人がどんな人なのかを自他も誰もわからなくなっている人もいる。

そうやって自他が不明になると自分が変だとも自覚せず、自分は普通ですよと誰かと比較して必死にふつうであることをアピールしようとする。

もともと個性というものは、外部に顕われてくるのは内面の性質でありそういう自分なのだと受け容れるところからはじまっている。

心身一如に統一され、その自我というものがマッチングした時に人は穏やかに安定した気持ちになって日々を豊かに生きることができるもの。

いつまでも無理をして自分を偽り、いつまでも気になる人になってしまえば努力がいつも裏目に出て周囲を困らせていく存在になってしまうのだろうと思う。

本人は、自らの不自然な姿が一番周囲の関わりを混乱させるということに気づけないのだから教えてあげたりアドバイスをしてあげればいいだけなのである。

私たちの会社に見守るほいくプラスという商品があるのも、そういう気になる子を気にしなくするために用意した刷り込みを取り除くものである。

つまりは、気になる子の突出した不足部分や変な特性を受け容れ周囲が協力してフォローするという仕組みになれば気にならなくなるものである。また本人が腹に落ちるほどに自分のおかしな個性を自覚し、周囲の温かく見守ってくれる存在を信用して委ねることである。

大多数の気になる人は、幼い時から周囲の大人に無理やりに矯正させられたり、認められない受け容れてもらえない環境の中で無理を強いられてきた人が多い。

しかしこのことで、いつまでも孤独の中で周囲と溶け込むことができずいつまでも行動が裏目に出てしまい一人苦しむことがある。その人を支える人や、その人のことをわかってくれる人が顕われるまでずっと自分を責め続けてしまうものでもある。

その人が可哀そうと思える程に、そんな見守らない社会はウンザリである。

今は、皆で協力する社会を築くことが何よりも大事でそういう偏った人や何をやっても裏目に出てしまう人をゆるし受け容れて皆で支えて補い合うようなチーム創りができるような見守る環境を用意していくことが必要である。

一人で無理をさせないというのは、皆がいつも支えてくれていると感謝している関係を互いに築きあうことである。どんなに特殊な能力を特異な才能を持っていても、それが活かされなければ効果は半減するもの。

能力だけで完璧を目指し、気が付くと使い捨てされるようになるのは自分が協力を惜しむからである。協力を惜しまず、何でも手伝うというのはその人の偏りを活かし補うことで自分を活かし補うためである。

大事なことは、「一人はみんなのために協力し、みんなは一人のために協力すること」に尽きるのである。

出来ない人やダメな人にばかり個人に強くなることは弱さの証である、人類の本当の強さは助け合うことで磨いてきたことを思い出し子どもたちの見守る環境を会社で実践でそんな社会になるように示していきたい。