幼稚園でお誕生会などをやることがある、幼いころ大勢の前で何かを演じたり喋らせたり一方的にやらされることで人前で話すことが嫌になったりしたことがある。
それに無理に寝たくもないのにお昼寝というものもあり、私は小さいころ保育園で無理に眠らされたことで一種のトラウマのようなものをもってしまったこともある。
楽しい真っ最中に寝なさいや、感謝しているときにみんなから笑われることなどはとても子どものときは受け容れることができずキャパシティがオーバーして無理をした記憶がたくさんある。
こういうものは、相手に選択をさせてあげたり、もっと共感し受容し待ってあげたり、そういう人もいるのだと自分で決めれる範囲でできるように協力したりした方が発達上は安心して育っていくのに、こうでなければという思い込みや未来への不安を子どもに押し付けるのはあまりどうかと思います。
今の子どもたちの心に寄り添い汲みとる事の方がその子の過去も未来も素晴らしい叡智と感動に満ちることになるようにとすることが先に生きている人たちの背中と経験を示すことであるようにも思います。
人と人との間には、関わり方ということに何かの方法論を持ち出すのではなく人との関わりの根本的な姿勢や在り方として相手のことを思いやることができているかどうかという心の姿勢が問われているのであると思う。
今の先生という職業は環境も過酷で、個々が偏に責任をしょい込みすぎ忙しすぎて余裕がない、余裕がなければその時の知識と判断で裁くようになってしまう。業務や何かをやる作業に心を持っていかれたらつい反応型の対応になってしまいいよいよ心ない行為を繰り返してしまうもの。
こうなると余計に偏り遠慮から相手が傷つくことを恐れて何もしないか、相手が傷ついていることにも気づかないでどちらも思いやりの循環ではなく責任転嫁の関係を生み状況をますます悪化させていくようなことになる。
心のゆとりや余裕とは、安心や安全というような自分の帰れる場所や戻れる居場所によって得ることができる。
その居場所をどこへ定着させるかであるけれど、私なら子どもが育つ喜びや豊かさ、学び成長していくことの価値や、間違いに気づいたり感動して変わったりしていくことの素晴らしさ、相手に共感し、それを受け容れ優しい心に触れることなど、こういうことの真善美のような体験こそが保育や教育だけではなく今、生きていることへの愛の意味であろうとも思う。
愛を感じるということは、自分が愛することができているからでもある。
思いやりを感じているというのは、自分が思いやっているからでもある。
つまり、自分の心の在り方や居場所がどこにいるのか。
あいさつの「ただいま」「おかえり」ではないけれど、如何にこの「ただ、今」に戻ってきたか、どんなに業務や作業があったにせよ、そこに没頭してしまい大切なことを見失っては物質世界の住人のようになってしまうもの。
私たちは心の世界にも住んでいるのだから、当然いつも心のふるさとに戻ってくることでバランスをとっていくものであろうとも思う。
調和するのは、心を籠めて丁寧に今を噛み締めて生きていることである。
そういう日々を送ることは、過去の恵みや天の叡智に感謝できている自分のままで充実した豊かな夢に生きているということである。
どんなに子どもの時の体験で今があったにせよ、それは必然であったと思えるように周囲の大人の生き方や見守りがその子を一生支えていくことを決してわすれてはいけない。
まずは自分たちの生き方から変えていくことで、世界は変わっていくのであると信じることからはじめてみよう。