自立というものに主体的にというものがある。
何かを行うときに、自分から何かをやろうとするのか、誰かから言われたことをやろうとするのかというのは事のはじまりにおいてその在り方や姿勢がまったく異なってくる。
そしてそれは責任というものにも関わってくる。
自分から責任を取ろうとして、自分から最後まで遣り切ろうとする人は責任を取らされるということはない。そもそも責任を取らされるという発想を持っている人は今まで責任を持ったことがない人でもある。
いつも自分から責任を持たずに言われたことだけの指示を待つような仕事をするから責任を持ちなさいと指導され、それが結果的に本人が責任を取らされたということを思っているだけである。
責任は取るものであり、取らされるという言葉はない。取らされるという言葉は、取らない人だけが使う言葉であり取っている人は責任は果たせなかったという言葉を使うだけである。
責任を取らされると思っている人は、やりましたけれどややるしかなかったからや指示通りしましたがなどと、その仕事というものへの自分の姿勢が最初から間違っていることに気づいていないだけである。
責任を転嫁できるというのは、自分ではなく相手か誰かからだと言えるからでである。
そしてその本人は大きな誤解をしているのは、本人は何か作業をしている中で自分の意思でやっているのだと勘違いしていることだ。そんなはずはない、なぜならそれは責任がないようにと相手から指示をもらったからこそ相手に責任を転嫁したから自分勝手にできるだけであって、その時点で自分から最終的な責任を果たすためにその判断を持ってもいないのに主体的にやっていると思っているのは本人の勘違いである。
最初に指示を貰おうと相手に決めてもらおうと「相手から」のものを期待した時点ですべての仕事は受け身になったことに気づいていないだけでもある。
自分からやろうとしている人は、出したものを出しっぱなしにすることはない。そして自分からやっている人は、問題や課題を先のばしたりすることもない。なぜなら、相手任せにしていないからでもる。自分で責任を果たすために最期まで遣り切りたいと決めているのである。
受け身で指示待ちの人は、すべて相手待ち、相手任せ、向こうの都合というように、反応することを何度も何度もしているだけになる。すべて仕事がギリギリになっているのは、指示が出てからや相手から来てからやろうや考えようとするからでありそれは「反応するのが仕事だ」と勘違いしているのである。
指示してもらえなければ動けませんとなるのは、受け身で仕事をしているからである。主体的に仕事をするなら指示がなくてもいいように徹底して確認をして自分の判断でやれるようにならなければいけないのである。
自己実現をし、三方よしに貢献するためにはすべての仕事をまずあり方として相手からではなく「自分から責任を果たす」ために確認し、持ったものを最期まで遣り抜くためにプロセスの中で緊張感を持ち報告連絡相談を小まめにしつつ進めていくことが責任ある働き方である。
どんなに何度も提出物を出しても、どんなに何度も同じことをやってもやっても、まず先に最初にその責任と役割を自分から決心覚悟をしようとしなければ全体に効果が出るような貢献にはなることはないことを本人が自覚することである。
そのために、まず「自分から確認」というものをすることで責任を取ろうとする姿勢を身に着けることが仕事の仕方として最初に必要なことになる。
今まで自分の人生を誰かに依存して、責任を持たずにいるからそういう来たものに反応するだけのものになってきたのであろうと思う。教育のせいや社会のせい、家庭環境のせい、会社のせいなど、他人のせいにしてこれからも生きていくのか、それでは一生自分の人生が誰かのせいで決まっているなら自分から何かの意思でやろうとしたのかという問いが死ぬ前に残るだけである。
本当に自分の人生に責任を持つなら、まず自分から自分の意思で決心し、責任を持ち取り組むことが肝心であるのだろうと思う。他人の生ではなく、すべての出来事を「自分の生」とすることができてはじめて自立なのである。
仕事で保育を扱うものとして、自生自立を体現することは大切なこと。それぞれが子どもたちの模範になるように実践していきたい。