大いなる上書き

今、「手塚治虫のブッダ」というタイトルで映画が放映されている。まだ見てはいないのだけれど手塚治虫原作の漫画の中でもブラックジャックとともに私がとても好きな内容にこのブッダがある。

仏教というものに出逢うには、苦しみというものを感じればすぐに身近に辿りつけるというのは私たちはそれだけ同じように時代を超えて生きるということや死ぬということを常に正面から向き合っているのであると思う。

いくら意識を避けて忘れようと努力してみても、必ず訪れる様々な苦しみを身近に感じることにより生死の感情や不合理を受け容れることが難しいと思えるのであろうと思う。

私がブッダの物語の中で特に印象深いのが、苦行断食を続けても尚悟れぬ中でスジャータという村娘との出会いによって気づき悟りのキッカケを得たシーンがとても共感できる。

実際に目で見たわけでもないのだから、共感だときっとこうだったのではないか。

このスジャータは古代インドの女性名で、“良い生い立ち、素性”を意味するそうで、漢訳では”善生”という。

この村娘が、悟ろうと必死に無理をし苦行を続ける骨と皮だけに痩せ細り今にも死んでしまいそうなブッダに、心から純真にそんなに心身を痛めつけては本当に可哀そうだと思い乳粥の一椀のスープを差し出した。

苦行中のブッダはスープは飲めませんと拒否するだろうけれど、無理することで悟れるわけがない、無理をするのは馬鹿みたいだとそんなことをするなんて本当に自分が可哀そうときっとスジャータは言ったのではないか。

その真心で純粋な慈悲の言葉が心に沁み渡り、差し出したスープがそのまま体に沁み渡ったのではないか。

そしてその後、沐浴をし清めるブッダの傍でスジャータがインドの民謡を詠っているのを耳にした。

「琵琶の弦は、強く締めれば切れてしまう。
 弱く締めれば音色が悪い。
 琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい。
 弦に合せて、踊れや踊れ。
 弦に合せて、踊ろや踊ろ。」

きっと、これもスジャータは先ほどのスープの時と同じく何も考えずに子どものように無邪気に天真爛漫な様子で無意識に歌っていたのだろう。

この一連の出来事により、すべてをあるがままに受け容れる準備ができたブッダは、何かを悟るのは方法論ではなく在り方の方、つまりはどのように生きるのか、つまりは避けるのではなく偏らないで中道でいる、つまりは全部丸ごと善いことであるということに悟ったのであろうとも私は思う。

このスジャータの天真爛漫な様子に自然に生きる姿を体現したものを覚ったのではないか。

これが良いやこれが悪いという概念的なところで生きることを考えるのではなく、全ては善いのであることが大前提で自然に応じて従い受け容れさらに善くなるような生き方をすることで苦を楽にし、楽もまた楽となると。

私の言葉では、これを「大いなる上書き」ということをよく言うけれどそういう心境に至ったのではないか。あくまで自分の些末な経験値からの妄想かもしれないけれど、私ならそのような体験をしたことがありこのブッダのシーンは特に今は印象深い。

このシーンの年、ブッダの年齢は35歳である。

人間は、内なるものに神性や仏性が誰にしろ備わっているとある。

同じように純粋に生きれば、時代や環境は異なってもブッダと同じように悟ることができるのかもしれません。人生というのは、ひょっとすると同じように生きているだけで周囲の方法論はどうにでもなるのではないか。

そうであれば、生きるや死ぬという絶対的なものは私たちの使命にとても大きな影響を与えているのであると思う。子ども達には、どんな時代であったにせよ、これからどんなに過酷な未来があったにせよ、同じように生きてきた人たちの歴史や言葉をできる限り遺し、これからの生きるものへの大切な生き方を示していけれればいいなと思う。

ブッダの生き方から私たちは学び、そのご縁から自分の生き方を見つめる素晴らしい機会になる。

感謝