余計なことをしない

今のように情報過多によるスピーディな時代では人は色々と起きるすぐ目の前の出来事に右往左往しているうちにあっという間に流されて心の余裕をなくしていくものである。

根本的なところは心が掴む直観的な大極であるからして、心のゆとりがなくなればいつまでも目先の解決という対処療法を繰り返してしまい、その中で不安を感じて先回りしてその部分の問題を早く解決したことによって、さらなる新たな問題を増やしていくというものがある。

そもそも問題とは解決するものではない、問題とはそこから気づき学び成長していくものであるのだから単なる課題やテーマということになる。

人生は多種多様なのだから学校で教わったような模範回答もなく、理想的な正解などもない、ただその人らしくあればいいということでろうとも思う。

だからこそ本当に自分の人生をテーマを持って生きているのならば、余計なことをせず向こうから日々訪れる出来事を思いやりを持って丹誠籠めて適切に取り組んでいくことが本物の自分の道である。

無為自然に生きるとは何もしないことではなく、余計なことをせず思いやりを持って自然に溶け込んで生きていくようなものを言うと私は思う。

余計なことをしないというのは、周囲のすべての出来事を感性から受け取りそれをテーマに紐付け、点を繋いで線にし、面にしていくようにと反物を創造するように少しずつ丁寧に編み込んでいくような感じを言う。

なぜなら誰でも知っていると思う当たり前のことだけれど、私たちは生きているのは自分だけの力で生きれるのではない。知らず知らずのうちに、周囲の御力をお借りして周囲に支えられて周囲の御蔭で何かをすることができている。

そういう周囲のことを自然としたら、その自然に溶け込むとは何か。

それはありとあらゆる身の回りのものを大切にし、風や光、土や水、火など様々なものが交わし合い循環し合う縁の中で形を彩りその調和の中の一部に自分がいることを直観的に気づき周囲に優しい生き方をしていることである。

今の時代は心で感じたりして自ら気づいたりするようなことを大切にするよりも先に知識を詰め込み偏った社会環境に刷り込まれ「余計なことばかり」をして苦しんでいる人たちがとても多いように思える。

心が満たされなければ、物で満たそうとする、それが物質文明であり、物がなくても、心が満たされているということこそ無為自然の足るを知り足るに止まる豊かな文明の境地なのであろうとも思う。

心は感じ方次第でいくらでも円満になることができるもの。

ようく耳を澄まし、ようく眼を澄まし、ようく心を清め、鏡の世界のようにあるがままにうつれば何とこの世のは満ち足りてイキイキとキラキラと光ってみえるか観てとれるはずである。

常にこの世には眼にはみえないけれどいつも周囲に自分を見守る何かがあることを実感し、すべてのものに優しく思いやりを持って接する自分で謙虚に生きていきたい。