循環の玄種

東洋思想と西洋思想というものがある。

万物は自然からと自然の一部として人間を捉えている思想と、万物は人間からという自然も人間の一部として自然を捉えている思想がある。

同じ言葉を使っても、その思想の差による言葉の定義は完全に真逆に異なっている。

しかし本人たちは、まったくの真逆であるから会話をしているのにその違いに気づくことができないでいる。人間はちょっとのズレは気づくのだけど真裏や真逆というような完全に逆であることには気づかないものである。

例えば、「自然を大切に」という言葉。

これも人間が自然を大切にするのか、自然が自然を大切にするのかではその主語が違ければ意味が真逆になっている。

人間が自然を大切にするのは、人間の目線で自然を自分都合に切り分けてさも大事にしたと勘違いしその大切にしたのは実際は人間自身、つまり自分のことである。

もしも自然が自然を大切にするとなれば、自然の目線で自然を大切にするのだから全体に調和するのは自分自身であり大切にしたのは自分が自然の一部であることを自覚し行動することである。

これは「子どもを大切に」という言葉でもまったく同じである。

如何に子どもを大切にするといっても、主語が自分か、もしくは子どもかでは同じ大切にするのでも意味は真逆であることに気づくことである。

もしも自分が主語であれば、自分が大切にしたと自己満足であるだけで余計なことをしただけで子ども本来の自然な発達を阻害している場合もある。もしも子どもが主語であれば、子どもが大切にしたいと思っていることに寄り添い見守るのだから自然に発達に応じて従い助長するための環境の一部に自分がなるはずである。

子どもからか自分からかその発想の観点が果たしてどちらが主体かで、意味が違っているのである。 文明からの観方であるのだからその錯覚に気づき、両面から捉えていくことが本質が観えているということでもある。

つまりは、人間は自分が一体どの観方、着眼点でモノゴトを捉えているかで世界は一変するのであろうと私は思う。

そもそも私たちを創りだしたのは私たちなのか、そんなはずはなく、私たちがあるのは周囲の大調和の御蔭で成り立っているわけであり人間が自ら作り出したものではない。自然の一部として私たちは始まっている以上、当然私たちはいつまでも自然の一部でしかない。

だとすれば、今の人間社会のあり方として人間主義の観方は完全に顚倒している話である。言葉のマジックにひっかかり、同じ言葉であることが真逆の意味になっていることに気づくことである、本末顚倒とはそういうことである。

人間主義とは、自分たちが主語になり自分たちが全体だと勘違いしている考え方であり西洋のそういった言語化可視文明だけに偏るのは如何なものか、本来私たちは和合主義や調和主義でいることが命のあり方そのもの無為自然であると私は思う。

そして永劫にこれはすべての生命、すべての動植物がこの宇宙で成り立つための根本原理であろうとも私は思う。

だからこそ、今こそ私たちは最初からの勘違いを取り除く工夫が必要である。

それは、東西南北文明とでも名づけてもいいかもしれないけれど四方八方すべてが自然であることから取り組み直すことであろうとも思う。

原理原則の時機に添って、バランスを取るための巻き返しの準備をしておきたい。私たちは日本人であり、日本人として世界へ貢献させてもらえる使命があるはずである。

循環の玄種からはじめていこうと思う。

気づきに深い感謝いたします。