年齢を重ねていくというのに、善い歳の取り方というものとそうではないものがある。
師からも誕生日の度に今がどれだけ最高かと今に善い歳を取るように更新しているかというのが大切なことだと教わったけれど、これは言い換えれば今がどれだけ充実しているかというものでもある。
つい長生きしていけばいくほど、人間は余計に様々な知識を持つようになる。
特に自分の子どもの頃から今を思うと、周囲の話を聞くと何やら大変で鬱々しいことばかりを知識として増やしてきたものだと感じることがある。世界のあらゆる問題ばかりを悩んだり、まだ起きてもいないことに不安を感じているのもつい目先の事象にさらわれるほど芯を捉えていないからでもある。
特に年齢の節目、例えば青年期や壮年期など、ふとこれからの進路や指針を考えて悩み迷ってしまうのもその時機であるのだろうとも思う。しかしそこまでの知識が溜まってきているとどう生きればいいかや、どんな風にこれから年を重ねるかなども予想がつくのでさらに考えてしまうのであろうとも思う。
自分の人生の巻物は自分でかくしかないのに、他人の人生を生きようとするのは芯からブレてよそ見をしているからでもある。
もし、芯から逸れて今から起きそうなことを心配して不安になり、消極的に日々を送っていたらこの今は充実することはない。今が充実するというのは、日々に人生のあり方を大切にし、流されず精一杯元気に生きていることでありそれは脚下の出来事に丹誠を籠めて丁寧に取り組み実践を行っているということでもある。
それは言い換えれば、どのような人生にできるかできないかということではなく、どのような人生でありたいかどうかということになる。
ある方から、この世は自分のあり方次第でいくらでも棲む世界は変えることができると生死外の世界の存在を教わったことがある、これは仏教で言うところの、十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)のどの界に生きるかということを決めるかということでもある。
もしも自分が餓鬼界にいたとしたら、常に足るを知らずもっともっとと自分のことばかりを気にし欲に心を奪われ、得てもまだ足りないと新たに欲しがり奪いまたそのことで奪われるという餓鬼界が目の前には広がっていく。芯から外れてそのことに無意識に本能や本性がもっていかれたらいつまでも自分が餓鬼道にいることにすら気づかない人もたくさんいる。
しかしもしも自分が菩薩界に生きたいと決めれば、餓鬼界で菩薩道を歩むが如く自分を相手だと思いやり同時に自分のことは相手のことだと苦しみを共感して実践し乗り越え感化していく中で自分の棲む世界をも遂には変えることもできる。
つまり、自分がどうありたいかというのを決めるというのは心が決める事であり周囲の事象がどうであれそれは一切関係ないということを意味している。
もしも人生があっという間に過ぎ去ってしまうと仮定したら、過ごす時間を何よりも味わなければもったいないし、当然、日々を真に楽しまなければ人生が豊かにはならないのである。それは別に快楽主義で刹那主義のことではなく、すべてを意味のあるものとして受け容れて天命に任せて今を生き切ることでありそれこそが気楽でいるということでもある。
気楽に生きるとは、自分の人生を「丸ごとありがとう」にすることでもあろうとも思う。
人生が丸ごとありがとうになれば自然の一部である自分に気づき、周囲の世界が如何にキラキラと美しく輝きに満ちているかを思い、存在しているだけで幸せな気持ちになって生きられるからだと思う。
歳を重ねるのに大切なのは、如何に生きるか、どうあり在りたいか、そういう実践を通して一度しかない自分らしい人生を随所に楽しみながら気楽に生きる事である。
鞍馬でまた教えていただきました、本当に有難うございます。
この命が満ちている輝きに満ちた素晴らしい世界でいつまでも元気よく楽しく生きていきたい。