王陽明に、「万物一体の仁」がある、そして中江藤樹に「万物一元の理」がある。
そもそも根源を辿れば、私たちは同じ先祖を共有している。以前、これは種が何処からきたのかと遺伝子を遡ればアフリカ大陸から出た私たちの先祖が世界中へと移住しそれぞれの文化文明を築いたことが明白になっている。
ミトコンドリアの中に、太古の昔から継承され続けている強い記憶がそのままに残っているのが発見されているからである。
そう考えれば、自分と他人とを違うものとし他人に対して厳しくなるのはそもそも万物一体や万物一元からは離れてしまっているのである。
つまりは、人類はすべて家族であり兄弟であり同じ命を共有している偉大なる一体人、全員が自分自身そのものなのである。
人間は、歴史を生きていく中で皆の一部としてお役に立つようにと遺伝的に自分の生長にとって必要なものを残し、そうではないものを捨てて今の自分の姿かたちを形成してきたのである。
皆を全面的に信頼して自分が世の中に何で貢献するかを本能的に直感的に悟り、それを伸ばして皆の全体の一部になろうと努力しているのが生きることである。
それを成し遂げてはじめて、自己実現という本物の一体感を得られるのである。
しかし、その発想から離れて、自他を切り離し、自分だけの才能を価値あるものとし自分に驕るものでは環境を用意していくことはできない。
自分の能力に自信があり、自分の能力のモノサシで他人を見るのは全体の一部ではなく自分こそが価値があるものだと勘違いしているからである。自分の体で言えば、手だけが全てだと勘違いし頭や足や脳などが繋がっているなどとも気付かないでいるに等しくバランスを崩すのである。
誰かと比べられ、誰かに負けないようにと、一体になることよりも自分の一部が飛び抜けようとするのは悪循環を生むのである。
そもそも根源的に私たちは自他と一体と思えば、相手の苦しみは自分のものであり、相手の悩みは自分の悩みである、そして相手を自分だと深く思いやり一緒になって歩む取り組むことこそ仁の心とでもいう。
こんなこともできないのかや、こんなレベルかなどと相手の能力を自分の思い込みで裁くよりももっと大切なのは自分にも同じようにできないことがることを共感し、相手が自分だと思って大切に接してあげることである。
人類は、すべて人類の根源が一つに繋がっているし、自然は同じく、すべての自然が渾然一体に繋がっているものである。
排除したり、自分を優先するよりも、もっと仁徳を磨き、そのもののと一体になる心を磨き育てていくことが日々の自分の命を正しく生きる実践であるのだと思う。
私はまだまだ自分の能力などというものに過信し、自分が如何に周囲と一体になるのかということを怠る弱さがある。日々に実践を楽しみつつ、思いやりをもった環境を用意し一人ひとりの明徳を開けるような見守るを学んでいきたい。