観ている

一昨年より新入社員研修の一環で、玄米講習というものをやっている。

自宅にて圧力鍋を使い、ただ玄米を炊くことをやってみせて一緒に食べるということなのだけれどいつもこの時間は楽しい時間を過ごすことができる。

「みると、いる」という世界がある。

食べてみる世界と、食べている世界ではまったく異なることを意味している。

これは玄米でもそうだけれど、一度だけ食べてみる人とずっと食べている人ではその世界観は似ているようで全く異なる世界が存在する。

やってみることも大事だけれど、やっていることの世界とは異なるように大事なことは継続している世界で物事を観ていることなのである。実践しているという世界は、実践していない世界とは観えている世界が完全に異なるということでもある。

この観えているや観ているということは大切なことで、見ただけにしないでそれを遣り続けているという心の観方に繋がっているのであると私は思う。

誰でも人は良い話を聴いたり、善い法則を知ったりもする機会がある、時折は目からウロコではないけれど今まで知らなかった真実や本質に咄嗟に出逢うこともある。

その瞬間は悟った気になるのだけれど、それをいつまでも悟った世界で居続けるにはその時の心のままの状態で居続けることでもある。

それはみるのではなく、いるという状態、つまりは初心を忘れずに継続できているかということが常に問われているのである。

先日の新入社員研修では、あわせて一番野菜が美味しい食べ方としてほうれん草を料理して食べる実践を私が工夫してやってみた。今までのほうれん草のイメージが払拭されるほと皆でたくさん楽しく食べる機会があった。

これも知ってみる食べてみるを経験することで、それだけで違う世界を感じることができるもの、そしてさらに玄米では食べ続けているだけでさらに異なる世界を常に維持していくこともできるもの。

実践をするというのは、単にやってみることではなくてやっているという継続をするということである。

実践をし続けるというのは、観ている状態のままでいるということでもある。それは物質的な現象には囚われず、もっと心で自分の居たい真なる世界に留まっていることに似ている。

自分がどうありたいか、どう生きたいか、つまりは何を観ているかということが何よりも人生そのものを生きていることになるのである。

子ども達には、ただ教科書通りに知ることや見ること、分かった気になることや、なんとなくそうだろうと頭で処理することよりも、具体的にやってみることで気づきやり続けることでその感動のままに一つの大きな世界を観続けるようにと示していきたい。

観ているものを見失わないように実践を積み上げていく精進を第一にしていきたい。