人は人と出会うことで自分の存在を知るのであろうとも思う。
自分と対峙する相手は、それぞれに自分の価値観の中で言葉を語りその判断をし自分と向き合っている。そしてそのさなか、自分も確かに自分の価値観で自分と対峙して自分を知ることになる。
人は皆、自我という価値観のメガネを通して物事を観ているのだから真実というのは相手にあるのではなく常に自分にこそあるということになる。
自我で相手を見ていれば、相手は自我でしか見えることはない。自我が入れば本当の天性も個性も知ることもない。
自分の本当の天性や個性のままでいなければ相手のそのものの姿を映し出せることもない。
みんな何かに刷り込まれた自我を持つことで、自分が分からなくなり、素ではない状態になっているから今行っている判断というものは自分都合の自我に束縛されいのちそのものも輝きにくくなってしまっている。
色々な体験や経験を通じて得てきた様々な知識が邪魔をして、本当の自分というものをさらけ出している気がしいるものも都合よく自分を隠そうとすることになってしまっていたとしたら周囲を活かすといった人々の個性を引き出していくことなどできないのである。
いのちを見守る人は、常に自分の中にある刷り込みという名の価値観の自我を見つめる必要があると私は思う。
それはもともと持っている個性や天性を引き出すというのは、自分が素でなければできないからでもある。
色々なことを覚えることはいい、理論というのは裏付けが必要な社会に私たちは生きているからでもある。しかし、あくまでそれは本物の姿の自分があってこそのものである。
そのままでいいと相手を許すことも認めることも、まずは自分がそうなっていなければ不可能なのである。
まだまだ課題は山積みであるけれど、今の自分が何を欲しているのか、本当の自分が今、私に語りかけてくるものは何か、気づく機会をいただきました。
私の道で探していたものに出逢う瞬間、感動と感謝、心地よさが同時に押し寄せて何かに包まれている気さえいたしました。
一期一会。
これからも自分は出会いを大切にし、一瞬一瞬のきらめきの中ある宇宙を感じて自然観のままに自然を愛していきたいと思います。
有難うございました。