生き方から

今の時代は文明社会の中では生きていくということの定義が、第一にお金をかせぐことになっていることは身の回りの流れをみていてもよく分かる。生活をしていくというのは、まずお金を稼ぐことからはじまることになっている。

もともとは生活をするとはどのように生き、どのように活かしあっていくかということを決めることであり、それはすべてにおいて「生き方」のことになっているのである。

例えば、これは食べものをとってみても同じである。

お店でも美味しいものを作ることは大切だけれどその美味しいものの定義も、見た目や口で美味しいと言われるものを作っていることが美味しいものだと定義しているものがある。

以前ある自然の料理人から聴いたのだけれど、最近のファーストフードは時間がない中ですぐにおいしいと思わせるものであればいいようになっている、しかし舌先で喜ばせるものではなく本来の食べるという人間の血となり肉となるものは全身全霊で心や体に浸み込み芯から喜べるものを創りたいといっていた。

つまりは、この美味しいの定義も創り手の生き方や在り方そのものがすべての出発点になっていることは善く分かる。

今、時代は経済というお金のためであれば多少の犠牲は構わないといった議論が横行している。原発でもそうだし、平和利用などというけれどあれだけのことが起きたことを反省しようともせず今の自分たちが困るから逃げるように先のばすというのは今の大人のすべきことであろうか。

経済と道徳を一致するために、皆が協力して知恵や工夫を繰り返し、捨てるべきものは思い切って勇気を持って捨て、新しくしていくものは勇気を持って挑戦していくという本当に価値のあるものにしようと努力精進なくして一体何がしたいのかと思ってしまう。

どうしようもできないからと何でも暗黙の了解にしてしまうけれど、私たちが今を生きるというのは常に生き方そのものの答えである。

答えとしての生き方がおかしなことになっているのに、何を改善しようしてもそれは意味がないのであると思う。

もう一度、最初からどう生きるべきなのか見直す時期に来ていると思う。

この大きな自然の流れに従うかどうかということが、私たちが自然に寄り添うか不自然を貫くかの境目であると思う。

昔の里山あったような、すべての生き物が調和して分け合って生きていくような生き方そのものからもう一度学び直しをしていきたい。

私の故郷にもまだそういうところが残っていないかどうか、ご縁を信じて探し出していきたい。